子供を頭のいい子に育てたい。性格形成に与える母親の影響摂食障害の症例を通して。世相ズバリ。

両親共に学歴はそうでもないに、温和な方で愛情いっぱい育った子供は頭いい子が多い気がします。

実際、皆様の周りはどうですか?

それは,「いまは無理だが,そのうちに登ってみせる」ということになるのでしょう。 今回は、いよいよ子育てです。これらの巨大な謎は,自然科学の手に負えるものではないのは論を俟ちません。それらの恐怖と怒りは,無力な自我が引き受けられるものではないときに,強力にそれらを抑圧して母親の自我に拝跪するのです。この問題はさまざまに深刻です。そして母親は,「こんな醜い私のような大人になってほしくない」というのです。
 謙虚、正直、善意、社会貢献奉仕
 大企業の信頼が揺らぎ始めた
 不ニ家の目を被い、耳を疑いたくなるような不祥事の数々、日興コーディアルグループの利益水増し事件、テレビ
番組「あるある大事典」のデータ捏造事件、また発覚したアパホテルグループにまつわる耐震偽装事件。

 訪れる出来事のすべては仏の計らいであり、目の前の出来事の中に仏の説法を聞き分けなければなりません。それを助けたいという願いには,自分の命と引き換えにしてでもという切なるものが篭っていました。それは同時に自我の終焉ないしはお役ご免を意味します。 国際的学力順位森にショックを受け、泡を食ったように授業時間を増やすのではなく、個性を生かす時代になっているのだから、一人一人の子供木の成長を見守ることが大切だ。彼は生い立ちに,ある事情があり,しかしながら母親を助けるよい子として成長しました。既に一者の世界の住人ではないことの発見です。

破壊的なエネルギーである怒りは,死の方向で奉仕するものです。  しかし、それは真実の表面的理由であり、真の原因でありません。動物もペット化され、必要以上に大切にされすぎてたぶん飼い主の自己満足本来備わっているはずの野生の本能や俊敏性が失われた結果であると思います。かつては傀儡自我といえるほどだったのがパニック発作や,人前での過度の緊張の要因です。国
民そっちのけでなんでも政局にしていては、本末転倒です。とはいえ,いま述べたように,心は裏と表に二分割されているので,それぞれの世界がそれなりに統合されていると考える方が理解を進める上で便利です。

求めに応じて送り出されてきた欲求を,自我が護りとおすことで行為が成立します。ですから良い母親というのは,言葉では捉え難い自然の情愛深さを,誰に教えられたわけではなくても身につけている人なのでしょう。そして恐怖の陰にある怒りを抑圧することに伴って,死へと向かう川筋が形成されることになります。それは成長の証です境界機能が混乱するときは,必ず自律機能も混乱します。これでは世界に通用する魅力ある若者は育ちません。母親のお腹の中にいるときの自然的な状況から,あるときいきなりお産という形でまったく異なる環境に放り出された驚愕は大人の感覚での類推になりますが並大抵のものではないだろうと思われ,その恐怖は甚だしいものだろうと推測されます。

恋愛と、それに伴う熱情とは、「満たされている存在者」であることが現実に適えられることはないものの、いわば瞬間的に類体験していると考えることができ、従ってそれは、人間存在がその可能態を内に含んでいることを証明していると考えることができます。つまり人間が最上位者ではないのが明らかである以上は,最上位者の存在を認めないわけにはいかないでしょう。  すべては、一人ひとりの心と行動が原因となり、様々な縁に触れて結果が出ているのです。これまでにも述べてきたように,自我の重要な機能の一つは自律性です。子供は,親の前で逃れようがない立場にあるので,虐待される子供の絶望は察するに余りあります。

精神病理をどう理解し,治療的に有効な形でどう還元するかがすべてです。そのためには、ただ漠然と現実を眺めていてはいけません。子の側でいえば,意識するかしないかは別としても,当然,不満,怒りがたまる理由になり,その処理に苦しむことになるのです。C女はみんなに可愛がられています。怒りを表現することは大切なことですが,彼らのこうした行動は,表の自我の無力を反映したものなので,たんなる怒りの奔出という現象にとどまり,心の成長にはつながりません。自我を実体的な存在として名指しすることができず,自我に拠る意識活動として世界を現出させている人間には,世界は実体的にではなく,現象的なものとして存在します。

統合失調症のような事態が,一時的に現実化することは,状況によっては誰にでもあり得ることです。そのために母親のいかなる態度も,子である自分への愛情に基づくものという意識態度が強固に形成されたのだろうと想像されます。自我が、沈黙する主体の意向を探り当てる方向で世界を展開できるときに、揺るぎない充足感、「これでよいという安心感」が心全体を覆うでしょう。それが表情に表れています。法華経の経典にも「身放無数光」といって全身から光が放たれていると書いてあります。自我が捉え,自己のものとしようとする試みは,全であり無である自然の前に,絶えず無化の脅威にさらされているといえます。

自他の弁別がまだついていない赤ん坊にとっては,母親は自己の一部です。つまり意識による光の世界のものとして存在することに伴って,生の世界が生じ,従って必然的に死の世界が生じたのです。 ▼2050年、プラス2℃を超えたら直接人類に影響が出始める。愛されたい,認められたいというもっとも過ぎる欲求には切実なものがあり,しかし,それらの欲求は,母親の協力を得られないので,自我はやむを得ず無意識の牢屋に押し込めるしかない抑圧する状況です。そういう折々に、赤ん坊が、心を震撼させるような大きな恐怖経験に見舞われても不思議はありません。夫につきそって来ていたころは,頼もしい妻という印象でしたが,実は大変に不安と混乱に陥りやすい性格のようでした。

自我の仕事への肯定的評価です。以上のような事情から,いかなる行為にも他者の眼差しが入っています。親の虐待に関するテレビの報道番組がありました。そのように他者を自己の構造の中に,内なる自己として包含しています。そしてそれは、幼児が母親に認められている、必要とされている、愛されているという肯定的な感情を育てていく上で重要な意味があります。「切っちまえ」という声が聞こえ,切ると,「よくやった」と聞こえたりします。
 「今捨てる子にありたけの乳を呑ませ」
 有効な避妊の方法もなく、貧乏な生活の中に授かってしまった赤ん坊、育てたくても育てることのできない極貧の
生活。

 神は隠れ、仏は消えた????  いのちのルーツが見失われている日本の将来が危ない  毎日信じられないような殺人事件が雨後の竹の子にように日本中で沸き起こっている。そのように考えると,以下のような仮説が可能です。よく調べたら、病院側の仕事の引継ぎが不十分で、あなたたちに業務の内容がよく 伝わっていなかったみたいなの。死は,意識という光の消滅であり,世界の暗黒化です。結局,どのような仮説を立てようが,,自我を最上位に置くことが不可能なのは自明です。道諦 これを四諦の法門といい、ほとんどの悩み苦しみはこの教えで解決できるのです。Pがよほど大らかであっても,自国の利益を優先させるのは自明でしょう。

 この病気には大きく二種類あって、『アルツハイマー型』と『脳血管障害型』です。
 企業も家庭もその根本は、人間作りです。というのも,将来を保証してくれる具体的な手がかりは特にはなく,自己を信じる曇りのない眼だけが頼りだろうからです。Yさんは,女性上司におそらく母親的なものを求めたと思われますが,拒絶されたと感じたときに,女性は拒否的,威嚇的,浸入的な支配の人に変貌したのです。こんな家庭のこんなライフスタイルが当たり前になっていませんか?  人間生活、社会生活の基本である「家族、社会」の関係性が欠落しています。あまた抑圧機能は,フロイトによれば,例えば生物学的な本能のほしいままに任せるわけにはいかないため,などといった自己の防衛策ということになります。

そのような甚だしい性格の母親が相手では,関係を断ち切る覚悟がなければ自由は護れません。「肉体の自由は奪われても,精神の自由は渡さない」とか,「身体への拷問より精神的な拷問の方が耐えがたい」とかいわれます。
 外出の時は仕方がないとしても、せめて家の中では出来るだけおんぶして、親子のスキンシップを深め、親の働
く姿、ご苦労を背中で感じながら育ててあげましょう。解決を要する基本的な問題への理解が進むにつれ,症状的なレベルのものはしだいに解消していきました。百パーセント完璧という法案などありえない。幼い時から、ピアノやスイミング、英会話や 数々の習い事に情熱を燃やすお母さん。

自我は,あちらを立てればこちらが立たずという難しい舵取りをしなければなりません。人間の敵は他でもなく人間自身のようです。清清した」などと、無責任なことをいっている場合ではありません。場合によっては長じてから,それらが自我の眼を盗んで,万引き,過食,買い物依存等々の黒い満足に走る独立した動きを起こすことがあります。つまり、何でもすぐに買ってあげる親は、お金や物では味わえない大切なことの手抜きをして育てているのです。抑圧機能は,エロス的エネルギーの源泉である自律機能の発動を抑圧します。しかし人生そのものとなればそうもいきません。  戦後六十年の世界に類を見ない経済発展の間に日本人が失ってきたものは、祖国を愛し、郷土を愛し、家族を愛 する気持ちです。

ともかくも船長の自覚を持ち,船長としての仕事をすることです。他者は,自己の存在にとって必要不可欠な存在です。 「すべてをより良い方向へ発展させたい」という宇宙の意思、法則と「漠然と感じている民意」という膨大なエネルギーによって時代の本流が変わるのです。幼児心性としては,自己愛と自己を信じることとは母親を経由して可能になります。人間は,誰もがしっかりとペルソナを身につけていなければならない,しかし,それは自己ならざる自己の世間向けの顔である,それが発達し過ぎると,自己の実体が形骸化するだろう,中年期以降に,それが問われることになるだろうと。

その時代では,母親が自我の代行をしていると考えてよいでしょう。治療妨害,治療抵抗の一面は,治療者の力量をテストする心の動きともいえるでしょう。それは屹立する自我と,より相互依存的である自我との違いといえるでしょう。自己の主張の萌芽ともいえると思いますが,父親の期待に即せなかったことへの罪悪感も並大抵のものではなかったようです。母親との関係を優先させざるを得ない事情が傾向的に大きくなるのは、次のような場合が考えられます。嬰児は,全なるものの世界から,全ならざる世界への移行を果たさなければならなかったらしいということが第一の要点です。

 苦の中にこそ仏がいる。ピンチはチャンス、神仏がくれた本当に更正するための正念場と受け止めることができるかどうか。そうしなければ,頼りとする母親との関係が保てなくもあるのです。20代前半のある女性Cさんは,姉が’おばあちゃん子’であったのに対して,「この子は私の子」と母親にいわれながら成長しました。このドラマは観念的に過ぎるきらいがあるのですが,デズデモーナが生きた魂の持ち主であれば,オセロ的な愛の要求に耐えられないでしょう。事前にSさんの同意を取りつけないままにしてはならないことでした。いわば全なるものが,自分と等身大の哀れな存在に過ぎなくなりはじめたのです。

ご主人に不幸な亡くなり方をした母親の墓参りや先祖まつりをしっかりするようにアドバイスしましたが、一向 にその気はありません。結局、自我は有限のものですが、無限性のものである死とB層とによって補完され、いわば「生きているかぎり無限の性格を持っている」ことになります。それは自我が白い子を護り切れなかった度合いの多寡と関係があり,死へと斜傾する心の川の流れが勢いを増していることを意味するでしょう。時によって,巨大な不安を潜在させる母親は,子を自分を助ける道具にしようとします。自我がそれらの不満の代弁者として,姿勢を変える必要があるのかもしれません。

自我を授与した人間の上位に立つものは,以下のような意向を示していると考えることができます。それによって,ある意味でバランスのよい性格を身につけることができ,いわゆる隣人愛の精神を発達させることができるのです。先生に訊かれて,「鼻水???」の口実を考え,先生に,「そんなことで休む子はいない???」といわれて傷ついたのは,表の自我が引き受ける能力に欠けるものがあることを示しています。Bさんは,最近にいたるまで,母親のいいなりになってきたようです。強い口調でたしなめられたYさんの心は,一気に崩れてしまいました。しかし幼い子であれば,自分を助ける立場にある母親が窮地に陥っていること自体が一大事です。

生を生きる人間には,死は最大の難問です。生と死の両極は,しかしながら,同等,同格ではありません。自己意識は,次のような心の動的なプロセスを受け入れ,それに即することによって形成されていくと考えられます。では、どうぞ召し上がって下さい」と自己責任で即座に答 そして、「ご家族の皆さま、どうぞこちらの方に」と二人席のテーブルから四人席のテーブルに夫婦を案内し、それから、「お子様はこちらに」と大人の椅子を一つ外し、子供用の椅子を用意しました。それはいわば自由な心なので、精神が病理性といえるほどの事態に陥ることは考えられません。幼い子の甘えが,性的な欲求のように,母親に対して攻撃的な側面を持つとは考えられないことなので,この問題に関して自我が境界機能を必要とする意味はなく,一般的に甘えがタブーになることはありません。

父親は,「そんなつもりはなかった」と否定しますが’超一流’ではありませんでした。  人として生まれてきた意味と使命、人生の意義など、小さな時から繰り返し繰り返し言い聞かせ、心に人生の基礎 を植えつけることが大切です。その意味では,自己は自己自身の中に’全’を含んでいます。それを補う役目を,母親そして父親を中心とした,重要な関わりを持つ大人たちが負っています。自ら意志してはじめた山登りであれば,必ずそこに希望を見ているはずです。
 この現状が意志の疎通を欠き、心の通じ合わない家庭崩壊の隠れた温床となっているのです。虚しく期待してしまう様子がここに現れています。

夫が勤めていた会社は倒産しました。しかしながら親の保護の下にある年齢では,精神よりも身体の保全の方が優先されて当然です。強い不安と硬直した自我を持った親ほど,子供への干渉が甚だしくなると思います。それは先にも述べたように,もろもろの事実や観念が二極に分化して現前するのが,人間の認識機能の大きな特徴であり,その一つの表われということです。その病理性は,社会性や精神性に欠けるものがある心の状況と同義です。光は生の世界です。直接目に見えない『陰の存在』に対する感謝や畏敬の
念が薄くなり、お金や物、学歴や地位などの物質的価値観が最優先する世の中になってしまったのです。

この活力が必要なのです。自己愛という自我機構に内属すると考えられる自己愛は習得されるものではなく,生まれ持ったものです。 この出来事に感動した夫婦は、帰宅後に手紙を書きました。  ある著名な犯罪心理学者は「殺人の最大の抑止力になるのは宗教である」と名言している。母親の侵入,支配を受ける形の上に,母と子のあいだの強い依存関係が成り立っています。更にそうした不安定な他者への感情のまま,他者へ依存しないではいられないということにもなります。「世間体を気にする親」といったこともいわれたりします。マクドナルドをはじめ、西洋化、欧米化された肉や乳製品を中心とした食生活が共通している特徴ではないでしょうか?
 ①個食????一人ひとりの食べるものがバラバラでファミリーレストラン状態の食卓。

子供らしいいたずら,わがまま,反抗は,いわば子供の自然といえる程度のものが大半でしょう。 嫁VS姑、 嫁VS小姑のバトルを母親のお腹の中でしっかり感じ、母親の感じたまますべてが゛潜在意識に刻み込まれて生まれてきます。世間体を気にするということにもつながると思います。それにつれて,母親もむきになってIさんを服従させようとするのを控えるようになりました。いわば恐怖の色眼鏡で外的な他者を見るので、個々人を個別に、客観的に見ることができなくなります。一ヶ月で320円のお得。以下、男性側の理由は、妻の異性関係、浪費と続く。この関係での両者は一体の関係にあり,未熟な乳幼児の自我を母親が代理しているからです。

偽善というのは,悪意を隠し持って他人に親切を施すというようなことになると思います。Aさんは乗馬の練習をしています。  彼女のバックグランドはこうです。「人もと悪少なし、よく教うればこれに従う」?小さな時からの正しい信仰心があってこそ、モラルや倫理が熟成され、温暖化防止の根本治療となるのです。だから苦があって当然なのです。  若年認知症の実態  最近、若年認知症が注目されている。母親が落ち込んで黙りこくっていると,「何か話して」といって母親を励ましました。 十代二十代の若年期の離婚が多く、四十代未満の中学生以下の子供を持つ親たちの離婚率は、なんと全体の
70%、約19万組に及びます。

外出中などに急に怖くなり,泣きたくなり,死にたくなり,身体を切りたくなることがあります。幻想が破られたときに味わう乳児の苦痛は,大変なもののようです。光は自我の世界のものであり,従って有限の世界のものです。生は明るい光の中にあり,死は暗黒の中にありますが,それはあくまでも意識の存在が前提となっていえることです。人が人と関わることによって,原初の恐怖と怒りとが刺激されるのは,いかなる場合でもむしろ避け難い話です。
 昔から「子供は親の背中後姿を見て育つ」と言います。私たち人間の文明も大自然の一部であり、どんな偉大な人でも、時代という怒涛の流れを自分一人の力で変えられるものではありません。

そして地球の未来と大切な子孫を守ることになります。そしてそういう関係の下では,それは基本的に,改めて母親によって受け入れられるはずです。自我が抱える難題は以上のようですが,総括的にいえば次のような問題があります。もしかして私は治りたくないのかもしれない。その幻想の下では,全部でなければ無に等しいのです。災厄や不幸に見舞われれば,みんなが協力して助けてもくれるでしょう。もともとは,こういう状況では混乱して自分を失うことが受診の動機だったのを考えれば,自我の境界機能が有効に働くようになったといえるのです。彼の自我がこのように混乱し易いのは,たぶんに母親の影響があります。

 この本をお読みの頃には、参議院選挙真っ只中か、すでに結果が出ているかもしれません。悩み
の対象が自分を救ってくれる仏なのです。その関係に問題があれば,いわば自分の筋を離れて迷子になってしまいます。そのために,知らず知らず荒れる海の方に舟を導いてしまっているのではないかと考えてみたのです。身体的,精神的な全ての現象は意識活動に伴うものです。時には喧嘩もするでしょう。死は自我にとって超えることができない壁です。 「今は買ってあげられないけれど、誕生日まで待ってね、お正月まで待ってちょうだい。欲求は無意識という心の内部の自然から送り出されてくるものです。

動物には一般に,このような内発的なエネルギーの発露があると考えられますが,人間には,この心の自然な発露に’待ったをかける’抑圧機能が備わっているのが動物一般と違うところです。そして外部に存在する他者と連動する客我と、真の指導者の立場にある主我とが、対立し、補完し合う様相によって、性格のパターンが決まります。 自分一人ぐらい頑張っても、あまり効果もないだろうと考えず、自分一人だけでも実践しようという考え方が地球を温暖化から守る第一歩なのです。自己の内部の他者内なる他者と外部にある他者の内部の自己外なる自己とが,それぞれに活性化され,結合的になったと考えられるのです。

老化と共に自分中心的な醜態 をさらすか、清らかで美しく尊敬されながら老いるかが問われる時代になってきました。それぞれの自己は,現実界の他者を排除して孤独に生きることは可能ですが,心の構造には内なる他者が構成要件の一つとして存在しています。  あらゆる病気がそうであるように、若年層の病気はあっという間に進行していく。血のにおいとメスを入れる様子にもう少しで気を失い そうになりましたが、私は危うくセーフでした。命の尊さや生かされている感謝を実感する心の拠り所です。肯定的な意味は、まさにこの否定的な意味の隣にあります。その証拠に,最近はほとんど欠勤しなくなっており,同僚たちへの過度の恐怖も少なくなってきています。

言葉を換えれば,自我に拠る人間の世界は,それが存在する以前には全であり無であった世界が,いわば二分割されて現れます。しかし母親側の問題も無論小さくはないと考えなければなりません。そして,それは自然からの乖離でもあります。彼らの自我は,母親のそれに密着していわば傀儡化しています。母親の口癖は、知らず知らずのうちに子供の性格を作り上げていくのです。言葉を換えれば,この悪魔は裏の主体ということになるのでしょう。つまり希望は無限定なものでなければ希望の意味をなしませんが,生と死との終わりのない矛盾,対立があるかぎりは,その都度それらが止揚されることが可能であり,それは次々と新たな希望が生み出されることを意味します。

そして悪魔は黄泉の国の住人です。そうすると母親の側に絶えずいなければ,母親が自分の前から姿を消す捨てるのではないかという不安は,心理的なものに違いありません。  仏教では、是を因果果報と言います。孤独であることに耐え難いか,シェルターに避難するかのような孤独になるか,いずれにしても他者に対して自由になれません。かつてのBさんは,支配的な母親に従う一方でした。  そんな簡単なことが何故、学歴があり、地位があり、お金のある人がわからないのでしょうか?  それは、小さな時から手を合わせたり、お参りしたりする経験がないので宗教音痴になり、目に見えない力に対す る「お陰さま」の心が無くなってしまったのです。

自我は,無限界へとつながる無意識界純粋主観の世界と,身体をも含む外的客観的世界意識化可能の世界との接点にあり,主観的ー客観的である現象的世界を演出する主宰者の位置にある。戦前の教育勅語に示されたように「父母に孝に兄弟に友に夫 婦相和し」という固い夫婦の愛と信頼に基づいた家族の絆、ぬくもりのある家庭環境を整えることが大切なのです。動物的な自然の要求と他者への配慮とを理想的に統合するのが,それぞれのあるべき自己の実現であると集約的にいえると思います。客我に依存する主我は、いわば自由を放擲して、よい子になります。 つまり人間の文明は、大きく崩れる河に沿って都市を築き、時として痛みを伴いながら変化発展して来たのです。

母親がほとんどすべてである乳児期においては,母親は絶対的な指導者の立場にあります。赤ん坊は光の世界を享受するいとまもなく,怯えているのです。最近,午後から登校したときに,先生に,午前中は登校できなかった理由をきかれ,「鼻水が出たから」と返事をしました。問題を受け止めることができれば,最初の第一歩が踏み出されたのに等しいといえます。母親と一体の関係にある赤ん坊は,全能なる母親を支配することで自分自身が全能の者となれるのです。元気である、挨拶がいい、人の面倒見がいい、とりあえず生きていてくれる????など良い所を探していればきっと安心できるいい子供になってくれます。

ペットであれば,家族のみんなが単純に可愛がってやればよいのです。もちろん現実にはこういうことはあり得ません。彼女には,母とのあいだの依存関係を清算するのは容易ならぬことでした。」と教えて下さいます。テレビの番組や読書など,’大人のにおいがする’ものは,ことごとく規制し,排除しました。これは自然な願いです。  核家族が大半となり、今や長男夫婦も親と最初から別居するのがブームとなり、先祖や仏様を祀っていない家が 多くなりました。そして、磨 けば光るすばらしい能力と知識があるのです。自我はこの無限領域に関わる能力を持っていないのですから,知性が人間存在の全般を網羅的に究明し,理解するのはどだい無理な話です。

20代のある女性Sが,退職した職場に用があって顔を出しました。甘える欲求は,生死を賭けたものにふさわしい強力なエネルギーを持っていると考えられます。裏を返せば「みんなのお陰 で今がある」ということです。 時代の流れを正しく見抜くには、三つの条件があります。母親によれば,友達は男女を問わず大勢いるそうです。以上のように,「自我は,その存在様態を人間が知り得ないものの,何か原基的なものに拠って存在していると考えなければ,精神現象の一切が説明できない」というのは,合理的な仮定です。あなたが外で頑張っていられるのは、家で寂しい中にも辛抱して待っている小学一年の 娘さん、孫を世話してくれるお母さん、黙ってあなた方母娘を引き受けてくれているお父さん、そして文句も言わず に見守っている長男である弟、みんなの協力と応援のお陰であなたが外で頑張っていられるのです。

 気力は、夢、目標を持たせること。夫婦共々ご近所のつき合いもほとんど無いご家庭でした  ②念願の新築マイホームが建ち、幸せの絶頂であるはずが、ある日突然ご主人が認知症になってしまった中年 夫婦のご家庭。家のことや子供のことは親に頼りっぱなしで当 たり前になり、感謝が欠けていました。Sさんが当事者能力を欠いているほどに幼いとすれば,その責任の過半は親が負うべきものだからです。幼い子らしく駄々をこねたり,甘えたりしたいと思う心が,母親への恐れを持つ自我によって,片端から意識下の牢屋に閉じ込められるという残酷なドラマが,幼い子の心の舞台で密かに起こっていたに違いありません。

集合的他者の支配を受けている自我が,自分自身よりも母親あるいはそれに準じるものが満足するように仕事をしようとする傾向があるからです。それで引き受ける意志を示せず,頼りにならない自我を差し置いて,裏の自我に拠る幼児心性が怒りを表したのだと思われます。芸術作品には,このような心の過程が働いていると考えていいと思います。
 親子とともに忙しい現代人、たとえ食事をいっしょにする時間が少なくても、枕を並べて寝ている間に気と気が触
れ合い、オーラが混ざり合って言葉以外のところでお互いの気持ちが通じ合っていくのです。「日常の中の非日常」では、心の柔軟性が問われています。

一つは意識化が可能なA層、もう一つは意識化することが不可能なB層で、このB層は大自然が心に及んでいるものです。  運転席を見たら、一見社長さんふうの初老の紳士である。親、実家、兄弟、????などの関係性が限 りなく希薄になっているのです。そういうときは母親を罵倒します。このような心的状況では,心の表舞台から封じられた幼児的な自己表現の欲求が,社会性を剥奪された裏舞台のものとして潜航しつつ勢力を蓄え必ず強い怒りを伴いますることになるでしょう。母親の困惑は当然です。後出しジャンケンのよ  うなずるいことは、人間性が疑われる。そして光が生まれたことによって闇が生まれたのです。

 知力、体力、気力の総合力です。しかし生は単純に生ではなく,絶えず死をはらんでいます。  このようにして三歳までに母と子との強い絆が築かれます。いつどこで何が起こるかわかりません。民間から、わが家庭から始めなくてならない時が来たのです。それは外部にある他人との関係が不可欠ということでもありますが,それにとどまらず,その根拠として自己の存在構造に他者が組み込まれているということでもあります。その関係の連鎖の先には,他者が介在してきます。その筋で見れば,父親の価値規範から見て失格という状況に立ち至ったということです。そのことは、内在する主体との関係で幼い主我が活動することが、もう一方の主体である母親に是認されている意味を持ちます。

つまりこの意味での自己の内なる自己と,内なる他者とは関連しつつ独立しており,両者のあいだは境界機能によって隔てられていると仮定されます。そこには,しかしながら,’集団への逃避’という別な側面があります。それは意識という光の下でくりひろげられる祭典です。その分身たちの勢力に支配された自我は,客観的に妻を見る力はなく,分身たちの眼差しで,つまり投影によって妻を見ることになったのです。  知力の根本は読み算盤。従って自我の自律性は,自己を保ち,世界を切り開くために欠かすことができないものですが,それが健全に機能するのは,主体との依存関係が良好に保たれていることがあってのことです。

そのお陰に 心から気付き感謝しなさいという仏さまからのお知らせです。受診したのは大学に入ってからですが,その大学に,かつて噂を流した’張本人’がいると信じています。それができたときに,人間として生きていくための第一条件をクリアしたことになります。一般に目下の謎を解いていくのは,理性とか知性などと呼ばれる能力によってですが,それらは自我に内属するものです。客我は客観的な他者と連動するのです。小学時代にゲームはやりつくした、と言っていたのを聞きました。疑惑がなければ要求は起こりません。  リゾート開発、ゴルフ場開発、財テクに始まり、大手企業はゴッホ、ルノアールといった絵画を法外な価格で買いあ さり、まさに狂気の一大消費ブームの付けが津波のように一挙に押し寄せ、日本中を飲み込み、勤勉努力と言わ れた日本人が堂々と築き上げて来た生活が音を立てて崩れていった。

しかし後の項で述べるように,集合的他者に従属させられている自我の下では,他者への配慮が優先されるので,過剰に抑圧機能を発動させることになります。’超一流’を目指すことをあきらめたのは,明快に反抗したというより,荷が重過ぎるという一面もあったのだろうと思います。  過保護干渉は子供の自由に育つ芽を摘んでしまいます。そして後者の自我は黒い子たちの支配を受けていると考えることができます。母親をさえ信用できません。’心の沼’は,,破壊的な力を蓄えた影の分身たちが,いうならば跳梁跋扈する闇の世界です。いうまでもなくミイラ化した死体は,患者さん自身でしょう。

そもそも,なんといっても人間が存在する理由を人間自身が持っていないのですから,その根本理由をいくら詮索してもどうなるものでもありません。人は,本質的に依存的な存在です。これらの独自の途を行くのは,いうまでもありませんが生易しいことではありません。この事件が収まっても、また同じようのことが起き てくるのは目に見えています。成人してからは,場合によっては両者の関係が逆転することもあるでしょう。それは「生のエネルギー」を「死のエネルギー」に変換する意味を持ちます。船長はパニックに陥りそうです。しかし、威風堂々とした彼らの立ち振る舞いには、気品があり威厳が漂い、覇気が 感じられたのであろう。

そして表の自我が生きる方向に向かうべく機能する性格を持つのに対して,この自我に受け入れを拒否された分身たちは,裏の自我とでもいうべきものを主柱とした勢力になり,表の自我への反逆を志向することにならざるを得なくなります。従って自分の内部問題であるこれらのことを解決できるのは,本人以外にはないのですが,人はしばしば,「黙っていても意を察してほしい」と思うものです。躾に理屈はいりません。仕事の都合や住む場所の物理的事情とは関係なく、しばらくのうちは別居して新 婚生活を味わいたいという嫁、はっきりと自己主張をする嫁に気を使うのを嫌い別居することを奨励し容認する姑、 長男夫婦でも別居がブームのようになっています。

いわゆる先
進国社会は皆同じ顔つきになっています。乳児にはそれに対して怒りを持つ理由がありますが,母親に向けるわけにはいきません。Aさんにとって,母親と馬とのそれぞれの関係の違いは,といえば奇妙な比較ともいえますが,結論的にいえば,前者には二心があり後者にはそれがないことといえます。赤ん坊が甘えるのをわずらわしいと感じる母親は,自分自身が幼いころに甘えを極端に封じられていた可能性があります。余計なお節介をされると腹が立つのは,境界を無視されたと感じるからです。Bさんの主体者は母親だったといっても過言ではありません。そして全なるもの天を母とする赤ん坊は,天からの授かり者ということができる。

 親の恩とかお陰とか、ほとんどどこかに吹っ飛んでいるのです。これら真の意味で個性的な人生を送る人は,’才能のある市民感覚’ということを基準とすれば,いびつな,バランスの悪い人格の持ち主ということになるようです。それは甘えに他なりません。幼い子は,母親と祖母とのあいだの板ばさみにもあっていたと思われます。前者は主体の命に基づこうとする機能であり,後者は他者の意向を重んじようとするときに働く機能といえます。崩れるということは一巻の終わりですが,新たな出発の始まりである可能性も秘めています。高学歴であってもお金持ちでも、マナーの悪い人 は品が悪く尊敬されません。

それではこの問いに何と答えればよいのかは,自明といえるほどのことのように思われます。しかし、昔は子を捨てるにも暗黙のルールと親としての思いやりがあったので
す。自我が成熟して引き受ける意志を持つことができるようになれば,課せられたものという受身の姿勢から,自分が自分自身に課していくという能動的姿勢に転じていきます。この支配欲求は,闇死への怯えを一掃したいという願いです。  ?妊娠したら男か女か、どんな子に育てようか夫婦がワクワクして子供に対する夢を膨らませること。学校教育や社会環境の前に家庭
教育、家庭環境があるのです。主我と客我が対立し、しかし補い合い、その上で主我が心を主導するとき、心は自立しています。

その基準の下での’悪い子’は,実はそれほど悪くはなかったはずです。事実、心は、自己と他者、男と女、善と悪、愛と憎しみなどなど、いたるところに二項対立があり、その最奥に生と死の対立があります。本当のところはSさん自身の問題であるのはいうまでもないからです。自分のことなら何とか頑張りようがあるのですが、他人のことではどうしようもありません。。妻を信じようとして懊悩するオセロにとどめを刺したのは,一枚のハンカチーフでした。  ④いよいよ建築。その姿は,幼い子が保護者の下に安らごうとしているのに似ています。ただヤミクモに叱って いるだけでは効果は半減し意味がありません。

この方は,小学生の一人娘が,最近になって不登校になったという悩みを持っています。いずれにしても死は人間の手に負えるものではありません。それらは表の自我と母親との一種の取引の犠牲になっているので,両者に対する怒りや恨みなどの感情と共にあります。人間が自我に拠る存在であるということは,自然的に心を形成することが不可能であるという意味を持ちます。それはすべて傀儡自我が招いた災いです。しかし凡庸な精神をしか持っていない我々の大方にとっては,それは厳しすぎる,場合によっては危険な問いかけです。心の成長が不十分で、学歴やスキル、必要以上のお金が身 についた子供は将に気狂いに刃物となってしまいます。

そういうふうにして、子供である自分を支配しようとしてきた」といいます良かれ悪しかれ、二心ふたごころを持っているのが人間です。病的体験が活発なころに,殺される夢を繰り返し見たというのですが,これは自我が無意識の高波を受けきれず,破壊されかけているという意味に取れるように思います。もう!ほっとけない所まで来ているのです。そこには感動も温もりもありません。それは患者さん自身が半ば気がついていたからこそ可能なのですが,本当に知ることには抵抗があったので,気がつかないままで済ませていたのです。「そんな分からず屋は,おかあさんの子ではありません」というわけで,全の要求をあきらめて,ほどほどの満足と安心とに甘んじる気にさせなければならないのです。

それらの傾向,幼い自我が抑圧に走る傾向があるとすれば,その大元には,恐らく甘える心の抑圧があっただろうと想像されます。結局,自我の抑圧機能の本来の役目は,自律機能を護ることにあります。 簡単に買ってもらえるからすぐに飽きてしまい、大切に使わなくなります。しかしながら,いずれにしても,人間の現実世界では通用しないこのような支配欲求は,取り下げられなければなりません。それはやむを得ないこととはいえ,人間の偏狭が人間の不幸を生み出すという側面は否定できません。メニューには「九歳以下のお子様のみ」と明記してあります。つまり死もまた,人間にとっては一つの目標です。

すなわち今日の結果という実りには、すべて本になる種まき があるのです。  あわてて文部科学省は十年あまり推し進めてきた「ゆとり教育」が失敗だったと民間企業のように学校に格付けを し、競争原理を導入して学力向上を図ろうとし初めている。心を凍りつかせるほどの力を持つ孤独は,子供には耐え難いものがあるでしょう。しばらくは元気がなかったり,不機嫌だったりするでしょう。それは傷ましい心の出来事です。しかし実際には,’愛情’の裏側には,大きな不安が潜んでいるのが明らかです。 何でも買ってあげるエネルギーよりも、親子が向き合って我慢させる、待たせるエネルギーの方が大変なのです。

 親子の絆はおんぶから始まる
 最近、赤ちゃんをおんぶしているお母さんの姿がすっかり見られなくなった。小舟に同船していたがる母親に,下りてもらう勇気はまだありません。支配的なCさんの母親を怒らせると,Cさんは見捨てられると感じたのです。それを耐え抜くためには,母親の安定した豊かな愛情による養育が不可欠です。従って愛は自然発生的であり,かつ世俗的,打算的でもある相対関係の中にあるといえます。S国王は善政を敷きたいと願いつつ,P国に従わなければ国が成り立たないので,涙を飲んで不満分子であるCたち自律機能によるものを地下牢に幽閉抑圧機能によるしているということになります。

 ②早くしなさい   母親自身もそれほどてきぱきと手早くないのだが、子供には口やかましい。  ②妊婦は喜んでいるが、周囲の人は喜んでいない  ?裏表のある人間になり、二面的価値観に捉われやすい子になる。芸術家が作品の上に描き出すのは,世間的な達成から疎外されている生活者の不安,不幸,あるいは悪とされるものです。どう考えたらいいのでしょうか? と事態は深刻です。裏の自我に率いられる無意識界の勢力は,いつしか悪魔的,破壊的な彩りを深めていくかもしれません。見方を換えれば,傷ついた自己愛ということになります。こういう心の状況では、客我が威嚇的、高圧的になるので、いわば100点を取って当たり前になります。

「昨晩、自分の至らなさを心から懺悔したら、今日看護士長さんから、『○ ○さん昨日はごめんなさいね。  いま、「はしか」の大流行を通じて、恵まれ過ぎた学生生活に仏さまからの警鐘が鳴らされているのです。人の道に外れた悪いことは、 最後は成功しないのです。挙句の果てはお互いに気を使わない方が楽だからと最初から別居し、縦の糸が切れてしまった核家族が当たり前になり、同居など化石的存在か天然記念物になりつつあります。というのは,支配欲求というのは小児心性の特徴として強いエネルギーを持っているので,母親自身が満たされない思いを潜在させていると,赤ん坊に苛立ちをぶつける十分な理由になるからです。

従ってそれは,先に述べたような意味で純粋主観の世界に根拠を持っていると考えるしかないが,身体的な根拠をも持っていると考えられる。つまり他者の眼が殊更に気になり,脅威になります。先にも述べたように,人間は自我に拠って存在可能であり,その自我は世界を二分割して捉える特徴を持っています。それは,人間の宿命といえるでしょう。現実を引き受けたことにより,それは押しつけられた厄介なものが,他でもなく自分自身のものであるという意味に変換されることになります。ところで母親と一体の関係にある赤ん坊には,自分に’全なる力’があるのと,母親に’全なる力’があるのと区別がつきません。

その影響を受けて,生の世界を司る表の自我は機能不全に陥りがちになります。それは人様の幸せや国のよくなること、地域住民のためを考えて、行動し ているから頭が活性化してボケないのです。母性を感じられないというBさんは,養女がBさんの両親に可愛がられているのを見て,嫉妬しているともいいます。母親の両親の問題があり,そのころ母親は怒りに駆られる人でした。心が成長するためには指導者が必要です。その幻想に依拠することによってのみ存在可能なので,もらえるはずの大安心を当てにして母親にしがみつくことになります。主我が恐怖によって破壊的な影響を受けて機能不全に陥ると、周囲の者に迫害されたり、監視されたりという妄想、幻聴に発展しますそういう心的状況では、常に100点満点を強迫的脅迫的ともいえますに要求されるに等しいことになるので、義務を果たすばかりの、喜びのない、頑張りつづけるしかない日常になります。

そこにペットは可愛がることができても,母性が湧かない心の事情があると思われます。その二分化は,繰り返しになりますが,自我に拠るものつまり人間の必然です。そのようにして社会をあざむき,自己の欲得に積極的にかまける心の態勢が作り出されているのが,犯罪者の心理的特性といえるだろうと思いますA君は,先生に,「鼻水が出たぐらいで休む子はいない」といわれて傷つきました。自分の家の心の耐震強度は大丈夫か? いちど真剣に振り返って見ましょう。勉強もできるし,手伝いもしてくれるし,申し分がなかったのだそうです。この論法によっても,つまりは我われには知り得ない理由によって動物間の進化があることになり,その知り得ない理由を知っているのは人間以上のものであるということになります。

Yさんは,他者を客観的に見るのが難しく,極めて主観的に,主観世界を外界にある他者に投影して見てしまうのです。潜在意識に潜むトラウマの浄化しかない。自分がすることが母親に認められたり,認められなかったりしながら,やがて母親に叱られないように気をつけるようになります。そのような強い依存欲求の存在は,それだけで小児心性を表していることを証明しているだろうと思います。教師が問いを出し,生徒である治療者がそれに対して一定の答えを出す,その当否を決めるのは教師であるというわけです。子供を頭のいい子に育てたい。間取りはどうするのかなど設計図の段階でしっかりと構想を練ること。

では、この自我を授与したものは何かということになりますが、それもまた、解き得ない謎です。そして,そこにも絶対性はないので,繰り返し自己を自己自身にもたらすのが,自己形成と自己の自立化の原理になる。
 もしも、野中の一本杉になって周囲に他の木や草が一本もなくなってしまったら、太陽の光と雨の恵みは独り占め
できますが、面白みのない殺風景な森になってしまいます。自我は,以上の意味で,自然から乖離されたものであると考えることは許されると思います。自分が得をするために人をだますこと。これほど虚しいものはなく,どこかで絶望するに決まっています。

共に寝、共に
食べることで自然と心が通じ合い、職場や学校で疲れた心身が癒されるのです。
 しかし、少しばかり努力をした私たちの小さな善行や徳積みで「巨大な宇宙=仏に動いてもらおう、動いてもらえる」と思っていることが人間の慢心なのです。 親の自己満足や自己愛の犠牲にしないように気をつけましょう。ほとんどが目的のない大学卒では多様性もなく、本当にやりたいことの☆IT革命など大きく変化し続ける多様性の二十一世紀だからこそ、変化に負けない強靭な精神力と体力が決 定的に大切になる。それとおなじ理由から,つまり第一等者によってよりよく生きよと命じられているのですから,あれこれいわずにおのれの分に従って,謙遜に,よかれと信じる日々の営みを大切にし,自分らしい人生の創出に励むのが最善ということになるのではないでしょうか。

そういう生活を幼い時から見て育てば、自
然に国の大切さや日本国民である有難さと誇りが身につき、すばらしい日本の国になると思います。それに支えられて,赤ん坊の自我に備えられていると考えられる愛の原基に,ようやく活力が与えられるのです。つまり自我がある計画を持ち,それに伴って個々の行動に必要な欲求方向性を持ったエネルギーを呼び出します。  いっしょに住んでも玄関別、お風呂も別、キッチンも別、これが官庁の奨励する二世帯住宅です。???世界は周りを取り囲んでいるものとして体験され,人間はその中でとぎれとぎれに,瞬間的にのみ自らを自らとして体験する。

完全に母親に依存している乳幼児の段階では,母親は神のごとき存在であるといっても過言ではないでしょう。自律機能は動物一般に通じる自然のものですが,抑圧機能は人間に固有のものです。いずれにしても自我が柔軟な強さを失うと,境界の検閲機能も頑なになり,無意識の圧力を封じようとすることはあると思います。対象となるのが自己自身であれば、自己愛ということになります。恐らくは感情を抑圧しつつ成長してきたSさんは,情緒的なものに飢えていたのだろうと想像されます。表と裏との相対関係で前者が劣勢になれば,それに相応して,虚無感に囚われ,あるいは非社会的ないしは反社会的という性格が色濃くならざるを得ないといえます。

動物は可愛がるとなつきます。「どうして怒っているの?」と悲しそうに訊ね,すねるように黙り込んだりします。地球存亡の危機が迫る中、与党も野党も互いに他党の批判と罵倒のみ、どの政党もどの議員も、選挙に勝つことばかりに懸命になり、本当に国を良くしたいのか、本気で国民のことを思っているのか疑わしくなる。その領域の主体にまで根がおよび,しっかりとした接触が図られれば,自我の自律性はそれなりに健全性を保つことができるものと思われます。他者愛が回復すれば,他人の眼もさほどには気にならなくなるはずです。自我が自己の展開の主宰者であることは,他者との関係を不可欠のものとすることで成り立っているのは,その脅威に対抗する意味があると思われます。

間違っても,母親が大好きだから母親に取りすがったなどということではありません。A君に先んじて受診したのは母親でした。  物?金の投資よりも心の投資を!  経済バブルは目先の欲から始まった  1986年12月から始まり、1991年2月までの4年3ヶ月で泡沫の如く飛散し、バブル経済は弾け、日本経済は未 曾有の不景気に見舞われました。父親にはできません。親の姿勢に好ましい変化があれば,子供は自分が自由になることが許されるという,当然で,重要な意味を知るきっかけを得ることになります。しかしながら,赤ん坊のこうした激しい心の混乱も自然のプロセスの中にあります。

心の境界は,自他の存在をそれぞれ別個のものとして承認し,尊重するという意味を持ちます。いずれにせよ,主体の意志にお構いなしの生き方は,いわば心の内部の法廷で有罪判決を受けることになるのは必定です。たとえ当面は太る恐怖があるとしても,治療関係を通じて愛と信頼との力が回復することができれば,’太っている自分’を許せるのではないでしょうか。そしてその母親はBさんの自由などまるで配慮しません。  デスクトップのアイコンを消すだけではダメ 大急ぎて゜ワクチンを製造し接種すれば、はしかの流行は収まるでしょう。しかし,よい子であるかぎりは,母親の仮面を剥ぎ取ってしまうような考えは,到底できない相談でしょう。

エネルギー効率の上でも、パターン化されている方が合理的ですし、日常の行動はそれで足りるのです。もともと神経質でヒステリックになる。集団責任なので、うちの病院としては、不合格になるか もしれないから』ときついお達しでした。何もいわなくても分かって欲しいという気持ちは,甘えの変形です。自分だけが楽になりたいと、自分から家を逃げ出し、妻も子供も捨てて、家庭 のしがらみから逃避して楽な道を選ぶ夫! 戦争で言うなら敵前逃亡で重罪です。どちらの車輪が欠けても、小さくても子供はまっすぐ前に進みません。自分が魔法使いのように,母親を思い通りに動かそうとしているように見えます。

爆弾を投げつけられる悪夢に悩まされたりもします。幸福の女神は前髪しかないのです。それが他者の発見です。たまには心のリフレッシュや情報交換も必要ですが、幼稚園の送り迎え の行き帰りに、毎日のように繰り返される井戸端会議、コーヒタイムにランチめぐり、働くお母さんより問題です。予備校生だったある時期に,幻聴と被害妄想がはじまりました。夫婦は一対です。この意味で無私の愛情はあり得ないので、‘全’を要求する赤ん坊に疑惑を与えるのは避け難く、不安、不満足を覚えさせないようにするのは不可能です。しかし,どういう問題があり,どうしなければならないかということは理解ができていると思っています。

偽りの関係は無意味なので,真の友人以外は不要なことかもしれません。怒りを向けないという意志的なことではなく,怒りを表出できないのが実情だと思います。母親自身にはそのつもりがなくても,ふとしたときに赤ん坊は自分の怒りを母親の顔に投射して,恐怖を持つことになります。その方向性とは,心全体の主体内在する主体と生の大河の主体である自我とを軸にして,内在する主体が自我に向けて欲動を送り出してくるといったもので,それがここでいう自我の自律性です。美しい妻に満足しているオセロは,仕合せな日々を送っています。何からの逃避かといえば,死の脅威ということになると思います。

依存には良い形のものと悪い形のものがあります。それに対して,気慰めをしつつの人生を送っていいものか,それは人の頽落態ではないかという議論も起こるかもしれません。どうやら人間が第一等に偉いわけではないのは確かですから,そうであれば,安んじてその第一等者に身を任せるのが分というものです。前者が沈黙のうちに見守るとすれば,後者は良くも悪くも有形無形の口出しをすると考えてよいと思います。赤ん坊は人間の心の形成の歴史の中で,自己愛という自足態の中に満ち足りる,特別に理想的な時代にあるとする考えがあります。生まれて間もない赤ん坊は,いわば純粋主観の世界の住人です。

自然児ならぬ人間の子は,母親の愛情に最初に触れて最初の安堵を知り,それから先は,その母的な愛情に絶対的な安心を求めると思います。そうなることで子供が二分の一の存在として生み落とされる。教育基本法改正が本格化している今この時期、まさに神仏仏様からのタイムリーなメッセージであり神示であります。ちなみにC.Gユングは,心の全体をコンプレックスの複合体とみなしています。嫁に気を使うのは嫌だ、気楽に生活したいと長男夫婦との同
居を拒む母親が増え、反面、気心の知れた娘は頻繁に出入りして半ば同居状態になっているのです。しかしそれが生への欲求とおなじレベルで,対抗的な欲求であることを意味するかどうかは別問題です。

そういういでたちをしていると自信が湧いて,みんなに見て欲しいと思います。精一杯の努力をして、後の答えは神様仏様にお任せす 人生の通過点である高校や大学が最終目的のようになり、点数点数、受験受験と追い立てられ、人間力が去勢されてしまったのが現状です。傷口がきれいなら、次の幸せがきれいにくっつきますし、いつまでも傷口が傷むこと もありません。過食と肥満の恐怖とは,自己愛と他者愛と自己不信他者不信と直接の関係にあります。自我領域には,いうならば自我の山と集合的他者の山と影の分身たちの山があると考えると,心の病理現象を理解する上で有益です。

粘り強く芯の丈夫な子供に育つ基本です。  今は死後のようになってしまいましたが、「お天道様はお見通し」なのです。そして無意識?闇?死?無限???といった世界が,それら現象界を包囲しています。馬である無意識には,内在する主体が存在します。つまり,その存在を自我が認めたことを意味します。別ないい方をすると,どうしてみても闇の脅威におびやかされるのです。’一者の世界’といういい方をあえてしましたが,このような形而上学的なものを,精神医学という学問を論じる場所に持ち込むのは言語道断といわれる向きがあると思います。相談ではなく通告です。躾けも含めて,教育には,以上のように,上位者である他者の関与が重要な意味を持ちます。

また、それは、内在する主体との関係が純粋に近い形で営まれているので、それを尊重して見守っている母親の態度に大きな意味があります。いま,ここで述べてきたことは,自我を最上位に据えることは不可能であるということでした。 働くお母さんが増え、母子家庭、父子家庭が増え、小学校では「学童保育」の名のもと、かぎっ子の子供たちが、指導員に夕方まで面倒を見てもらっている。特に公立高校に多かったことが驚きであり、重大な問題です。真剣勝負な
のです。そういうBさんに残されている唯一の可能性は,自分自身との関係を強化することでした。つまり母親は,他者であると認め,受け入れるしかないことである。

その怒りはCさん自身の心を破壊しかねない自我に向けられた怒りに自我が耐え難く感じているものであろうと推測されます。そもそも親の安心がなく,子の満足だけがあるなどということはあまりないことでしょう。そうするとそれらのものは自我が承認したことになり,もはや意識の地下活動で自我を脅かすことはなくなるはずです。 「私たち夫婦は、子供になかなか恵まれませんでした。Iさんは知性的で,問題を理解する能力は基本的に高い人です。人事ではありません。非日常的な状況に置かれたとき,自由な機能の発動が必要になります。しかしこの母親は,劣等感が大変つよい人であるにもかかわらず,柔軟な心と子を思う優しさとを失ってはおらず,自分がおかした過ちをすぐに認めることができる人でもありました。

子供だけはなく、親自身の歪んだ心のトラウマを浄化し、救済しなければ子供は良くなりません。そして、それに相応してB層から新たな生命が送り出され、主我との協働で勉強をする確かな意志になります。それは先に述べた’健全な市民感覚の才能’の人とは,別種の才能ということになるでしょう。確かに,論のための論であれば,これは虚しい議論になります。そして死という終焉にいたって,人は人間存在としての役目をはたし,自分の全存在を,それをそもそも生み出した不可知の上位者に返還することになると考えることが可能です。 家庭が空洞化している。一年生はどうするでしょうか。

以上のように,行為には,一つには他者との,一つには内在する主体との関係が欠かせない契機です。強いエネルギーを蓄えた内向する怒りが,長期的に滞留することになります。  母との距離感が目標までの距離感覚をつかむ能力になるのです。赤ん坊は,万能欲求をしばしば裏切られ,失望する宿命の下にあります。このごろ少し分かってきたのは,自分の舟なのに,まるで母親自身が船長であるかのようになっているのと関係があるようだということです。つまり自我が明瞭に無意識の分身たちと一体になろうとしたというよりは,その圧力に効し切れず,機能不全に陥ったという印象を受けます。

つまりそこには動的,発展的な分離の動きが既に予定されているのです。などの行動計画が発表されました。  小さな子供にスキル技術を身につけさせるよりも、豊かな愛情と手間隙を掛け、勇気?優しさ?思いやり?勤労 など人間としての資質を育てることの方が重要です。自我が自由で自立していれば,状況に応じた適切な判断が可能なので,自己を適切に護り,他者との関係も適切に護るために抑圧機能を発動させることができます。夜になると気になる幽霊は,その沼から立ち上がってくる名状し難い不気味なものが,イメージ化されたものといえるようです。乳幼児の幻想的絶対者である母親が,実はそうではないかもしれないという予感は,受け入れ難い不安を伴うのではないかと推測されます。

赤ん坊に甘えられて仕合せな気分でいる母親は,部分的に自分自身が赤ん坊の心でそれを分かち合っていると思われます。前者は無力な自我が超自我に絶対的に服従する心的構造下にあると考えられます。そうであるからこそ,治療者がその難解なものを解決する能力を持っているかどうか,容易には疑問を拭えないと思います。この場合の教師の役割は患者さんの自我にではなく,内在する主体にあるといえます。その経験は,後々,必要とすることを自分で取りに行く意志を持つことが正当化されることに通じ,与えられた人生,ないしは自己を自ら引き受ける意志を持つことに通じるのです。

また,学校への通学路で,誘拐されるのではないかという恐怖があります。
 ①謙虚お客様のお陰で仕事がさせて頂ける。当然のことながら,母親は弟にかかり切りです。本能に従う動物の場合は,例えば縄張りを守るために生死をかけて戦うところを,人間は自我に内属する抑圧機能によって,他者の立場を配慮,尊重するのです。母親に絶対的に依存し、全であることを要求しているらしいということから,逆に、母親が全なるものではない予感を持っていると思われるのが第二の要点です。自我の自然の機能を,自我自身が根本から歪める動きをしたことになるからです。しかしこのごろ学校に行きたくないといいます。

客観的に見て,母親が少年を捨ててしまうことは考えられません。人間が人間であるゆえんは自我にあるといえますが,自我を授けたのは父親でも母親でもないのは明らかです。妻は優しい人です。それが損なわれるのは,他者との避けられない関係によってです。まさに現代社会の縮図 がある。喧嘩にも自己主張,自己表現の重要な意味があります。命と引き換えにしてでも酒瓶を手放さない人も少なからずあります。つまり裏の自我に支配された表の自我の依存的な営為です。一人ひとりが、各家庭や各会社が、各コミュニティーが自分たちも
考えようとする姿勢が大切ではないでしょうか?
?会社でも組織でも文句を言ったり批判をするのは簡単です。

赤ん坊にとって,生まれてきたことが目出度いと感じられるとすれば,それは母親が自分の存在を慈しみ,喜んでくれるのを知り,改めて自分の存在を愛でる気になったときだと思います。
土曜日曜ともなれば、宴会のすんだお客さんたちが夜遅くまで、二次会三次会、夜食のラーメンやうどんを求めて
下駄の音を響かせながら温泉街を練り歩き、町全体が不夜城のようでした。小一時間後,人が変わったように自分から起き上がり,きちんと挨拶をして帰って行きました。夫がまた,そこを離れて住まいを探すことに反対しつづけていたのですが,何とか説得しました。人生の最早期の乳児の精神世界を,イギリスの児童精神科医であるメラニー?クラインは,妄想的,分裂的であると特徴づけました。

 ?誉められて育った子は、人を認めることができ、苦難にめげない忍耐強い人間に育ちます。母親が側にいなくてもいいつけを守ることができるのは,母親を無意識的に心に取り込む内在化ことによってです。寝ていることも,自由に描いてよいという指導者の下であれば,「いま描ける精一杯の絵」といえるのです。  野口雨情の『しゃぼん玉』の歌がある。それはよくよくの恐怖体験があったからに違いないのです。いずれにしても,’よい子’は恐怖心から感情の抑圧をするのが習い性になっているということなので,怒りのエネルギーはむしろ意識の下層に蓄積されていると考えるべきです。

 パートの片手間の愛、幼稚園や保育園任せの子育てになっている母親が増えています。自我は人間を特徴づける最たるものです。自分のためによいと思うことを考え,それを実行に移すべく判断をすることが求められています。従って、超現象的性格のものについても命名し、概念化する必要が出てきます。このように生まれて間もないあいだの赤ん坊は,母親との一体化の中にある主観世界の住人です。本来は甘える心を自我が受け入れることで情緒的に満たされ,生のエネルギーを増幅させることができるはずですが,いわば母親の怒りに迎合するように,怒りをもって無垢の分身たちを葬り去るのです。

自我が無力である状態が長くつづいているとき,身体が答えを出してしまうことがあります。そしてその怒りをP国に察知されると見放される,という恐怖母親の側を離れることができないも強いようです。反面、日当たりの悪い北の斜面で時間をかけてじっくり育った木は、 年輪が細く質もよく丈夫で衝撃に強いのです。親が子を支配し,子が親に支配され,そういう関係に依存している親子がなんと多いことでしょう。「異常なのは太っていることではなく,事実を認めようとしない気持ちです。そして、志向され、課題化されている何ごとかを超克したときに、意識はふたたびぼんやりとした状況に置かれます。

難関国立大に現役合格。男児の例では,母親の愛情が弟に傾いていると感じ,母親に気に入られるように,活発にアピールしている様子がうかがわれます。自我は引き受けるのが使命だから」ということになるのでしょうが,難問であることには変わりありません。自我は自律機能によって生を志向しますが,抑圧機能によって自律性を阻害します。今地球は目先の儲けと便利さのため、地球の肺である南米アマゾンとボルネオを中心としたアジアの大森林地帯が恐ろしい勢いで伐採され続けています。  「先生ありがとうございます。抑圧は,すべての人に起こる人間に必須の心的過程です。

そんなことをいえば母親が怒るに決まっているし,下りられてしまえば舟をどう操ればいいのか見当がつきません。つまり万能感が支配する自己愛の世界の住人でもあります。  次は教育バブルがやってくる  経済バブルの後遺症は、少しずつ解消されてきましたが、次は教育バブルが静かに忍び寄っています。土居健郎氏は,日本人の心理特性を甘えという鍵概念で捉えています。苦は人間を生きる使命に目覚めさせ、より良い人間に成長させるために仏さま大自然の真理からのメッセージなのです。ベッドに寝ているWさんの肩を抑えている母親の手を,「???るせーな???」といって払いのけようとします。

それは心を育てるよりは,破壊する方向に仕向けるかもしれません。従って,不愉快な「わるい乳房」の存在は,万能感や自己愛に翳りを与え,それらを揺るがすものです。やがて、絵の教師が指導者として現れ、お絵描き主我による描画を批評します。それを授ける力を持つものは,自我に拠ってはじめて存在可能となる人間自体ではありえない。また,それぞれの自己は,そのときどきの対象との関係において存在しています。この欲動を引き受けて、絵を描くという行為に導くのが幼児の自我です。 ディズニーランドではマニュアルはあくまでも指針であり、すべてはお客様のハッピーが優先されるのです。

しかし,A君は答えに窮してそのような返事をしたのでしょうが,本当の理由はA君にも分からないのです。そうすれば責任を取れます。それらは世間的な成功から疎外された心の叫びともいえます。芸は身を助けるという諺があります。しかし我々がするべきことは,フロイトの真似ではありません。母親の不信を買ったとは思えない状況です。この状況で,本気で養女に責任を持つ気があれば,両親の家から出る覚悟がいると思います。あなたたちには未来があり、大きな期待が掛かっている。手首,腕への自傷行為は,高校に入学して間もなくからつづいています。他者,とりわけ両親の望ましい援助と協力と指導があれば,または他者の干渉が自我の眼を眩ませなければ,その自律的な機能は,かなり自然に遂行されるのではないかと思われます。

人間にできることは自然を限定化し,対象化することですが,その心的な作業は自我に拠ります。そしてその後の人間関係をも占う道標となります。自我はそれを護る使命を帯びています。そしてそれは自我の回収作業に携わる主体でもあるかもしれません。そして甘える心を封じたままでいるので,その後の心の成長に大きな難点を残すことになります。自分の力でこの世を生きていく喜び,希望もしだいに芽生えていくことになります。孤独であることを,人は一般的に嫌います。要はお互いに慣れてしまって
感謝がなくなり、わがままの結果と言えます。ウリの実はならないのが当然の理です。

心には生と死と,二つの極に向かうエネルギーの流れがあると考えられます。臨終に当たって,「これでいい,これでいい???」という言葉を残した偉人の逸話が伝えられています。心的状況がそのままに置かれると,自己の展開は困難になるので,自己否定の方向に傾くことになると思います。心の構造が病的になっている心的状況下での言葉にならない叫びが,甘えに似ていることのように思われます。理解し,共感してくれました。自我は、この外部にある指導者を心の内部に取り込み、外的な教師がいないときでも、教えられたとおりに絵を描こうとします。ですからそれらのすべてを仮説をもって繋がなければ,統合的で合理的な理解を得ることはできません。

姉夫婦はあんまり勉強勉強とうるさくはしてなかったようです。そうした心的状況では,おそらく絶対孤独の不安にさらされることになると想像されます。自我のよい働きは生の方向で,わるい働きは死の方向で,心を動作させるといえます。これら市民的な健全さをしっかりと身につけている人たちは,隣人への優しく,愛情のある眼差しを持ち,決して無理をせず,突然見舞われた災厄にも従容として従う謙虚さと穏やかさを失わず,持って生まれた美質のために人の支援を得やすくもあり,ある意味で生き方の手本といえるでしょう。これらのよい子たちの,母親や他人の前でするにこやかで礼儀正しい笑顔の演出は,傀儡自我によるものです。

他の国々の国家は、ほとんど戦いの歌 であり、勝利の歌です。それは相対的に裏の自我が力を強めることを意味し,やがては衰退した自我を支配することになります。決して人に怨まれたり、怨んだりされるような方でない仲のいいご夫婦だったのに????何故なんで  ③信仰でもしていなければ、ほとんどの人が自分の幸せしか願わないのではないでしょうか? 人様や世界の幸 せのことを真剣に願う人なんてほとんどいないのではないでしょうか?  家族の単位が変わってしまった  家族の幸せを願う事は決して悪いことではありません。 諸苦の諸因貪欲これ本なり 「食」は今の下に貝と書く。

次にどうすればいいのかが見えてきます。少年の自我が両親の支配から脱するためには,夢に現われている爆発しそうな怒りに,言葉を与えることができるようにならなければなりません。その表現の仕方は,しかしながら,いずれ母親によって否定されます。その世界は意識と共にあり,意識の消滅と共に消滅します。自己の重心がいわば自分の中心にあるので,ストレスで軸が揺らいでもダルマのように容易に姿勢を回復させることができるようです。まことに人は人によって,自然の心から遠ざけられるのです。後者は,人間存在が他者との関係を必須のものとしていることと密接な関連があり、本能的、欲動的なものとのあいだを調整する役割を担っています。

そのような心は、主我が主導性を確保できている自立的な心です。  若い母親が子供にかける三大言葉があります。なんと日本には約四万人の若年認知症の患者がいる。ただし繰り返しになりますが,これらの肯定的な満足感は限定的であり,つまり不満,不信,怒りなどが一掃されることは決してありません。「社長になりたい。自我の誕生によって生の方向が目指され,それは即座に死の方向が打ち出される必然の下に人はあります。しかし母親自身に自己肯定感がなければ,それなりの健全な自己愛がなければ,子供に満足感を与えるのは,ほとんど難しいことでしょう。それは生があるかぎり死があり,それが対立し合うかぎり,無限定に上昇しつづけることが可能な意識のダイナミズムといえます。

次々と新たな強度不足物件も発見され、 大きな社会問題となっています。そしてついに表の自我が主導権を裏の自我に譲り渡すにいたったときに,心の病理現象が問題になります。依存症の異常なところは,食べることなり,飲酒なりが,人生の関心事のほとんどすべてと化していることです。繰り返し,繰り返し,「よい乳房」が手に入ることを確かめながら,その合間に,これもまた繰り返し味合わされる「わるい乳房」の,不愉快で不安な存在に悩まされ,脅かされながら,やがてそれへの対処の仕方を覚えます。一年ほど前,状態のよくない日がつづいていました。 これから起きる予測不可能なさまざまな影響が心配されます。

どんな難問題にぶつかっても「きっと良くなる」これも自分を成長させてくれる宇宙神仏のお慈悲なのだと受け止めましょう。自分でそう思っている場合もあり,むしろよい子ではないと思っている場合もあります。そうであれば,結局は自己を肯定する根本原理は自己自身にしかないことになる。
 ところが、最近のお母さんは、おんぶ紐は胸の形がわかってしまうとか、格好が悪いとかの理由で使わなくなり、
昔ながらのおんぶ紐じたいが売っていないそうです。それに伴い,’自分らしく生きようとする’意志のほとんど全てをあきらめるしかなくなります。 そのためには、命がけの努力精進が必要です。

私の聖域です」といったことを口にしておりました。あなたもお手伝いをしてお小遣いためて協力してね」と説得するより、親が働きに行って何でも買ってあげた方が、精神的エネルギーが少なくて済むのです。躾は,単に可愛がるだけでは済まないことになります。そして,そういう豊かなものを与えてくれている母親に愛情のお返しをするのです。子供を虐げる親は,何らか不幸であるからに決まっています。そういうことが起こるのは,親の側の盲点でもあると思います。そして、自我が終焉を向かえて自己が無に帰するときに、二項対立の世界である現象的世界という舞台の照明が暗転し、唯一性の世界に入るということができます。

 中には真面目な大学生もたくさんいるでしょうが、大半は親の苦労など当たり前で、大学の極楽生活を謳歌して いるのではないでしょうか?  親の仕送りで生活し、アルバイトで稼いだお金は自分の贅沢や遊興費に使い、寝たい時に寝て起きたい時に起 きて、昨晩遅くまでコンパで飲みすぎたら大学は自主休校?  アルバイト働くことは大いに結構だが、中には夜の水商売、スナックやクラブで大金を稼ぎ、ブランド商品で身を飾 り、自分にご褒美の海外旅行などなど学生天国花盛りが首都圏、都市部の大学生の実態ではないでしょうか。しかしBさんはぎりぎりの状況でそれを果たしたのです。

長女は鬱屈した感情を激しく母親にぶつけますが,自分に手を掛けようとした母親の行動には,怒りも恐怖も覚えないように見えます。当の本人にとっても、マンネリ化した日常では、退屈に悩まされることになるので、主我はそれなりに自由柔軟でなければなりません。  ①妊婦も周囲の人夫、両家の両親も喜んでいる。
 難病や経済苦、憎しみ恨みなど解決不可能な人間関係のトラブルなど、人間の力を超えたどう処理したらいいの
でしょう? それには人間を越える大きな力仏=宇宙に動いてもらうしかないのです。そしてよくならない理由を説明することが困難だからです。

その忠告は,おおむね,世間的に認められた人生の途についてのものでしょう。退屈は平和の証でもあります。異郷の地で心細い思いをしているときに同胞を見かけると,日常の世界では味わえない親愛の感情を持つこともあるでしょう。後々,いま述べたような自己の実質の空洞化に悩むということもあるでしょうし,他者に対しては無意識的に同族的,均質的なものを求め,排他的にならざるを得ないという別の顔を持っているのも否定できません。不当な抑圧の比重が高くなっていくとすると,それは自我の弱さの反面ということでもあり,ますます自我の衰弱を招きかねません。表の自我の自律機能の主要な役割は,自己の善導にあるだろうと想定されるのに対して,裏の自我の機能は,自己の善導の破壊,否定という性格を持ちます。

それに伴って,親孝行をするよい子でなければ,愛される資格もないし,価値を認められることもないという恐怖心にかられているようです。仮に仏間があっても、押入れ代 わりになっている家庭が多いのが現実です。愛情と信頼とに勝る贈り物はありません。それは,治療者は病者を診る立場ですが,病者の問題を通じて自分自身を問う姿勢が要求されるという意味を持ちます。 ②は、飛び出し女房です。一般に、困難な状況に置かれると、主我の動きが鈍くなり、相対的に客我が心を支配します。よい子の仮面の裏には,一般的な意味での悪意があるわけではないのはいうまでもありません。

 母乳と母の声がけが絆を深める  生後六週間までに授乳を通じて、根本的な信頼関係が培われます。学校には友達がいて,学校生活そのものは問題がないようです。世間的な成功者の驕りの陰で虐げられているもの,世間が眉をひそめる性的なこと,人生の惑い,悲しみ,怒りなどの中に,より強く人間のにおいがあることなどが,人の共感を呼びます。それが社会現象です。欲動群は、自我の自律機能に即して生起し、それを受けて自我は、改めて抑圧機能によって他者との関係に配慮します。自由自我が健全であれば,状況に柔軟に対応できるので,人間性がますます豊かになっていくと思います。

死は生に既に内包されており,いかに死ぬかが人間の課題です。それは幼い子の端的な自己表現であるといえます。そのような構造が仮定的に想定されるので,境界もまた,それらのあいだにあると仮定するのが合理的ではないでしょうか。真に個性的な独自の途を開拓しようとすれば,’死’との戦いを抜きにしてはできない相談であるといえるのではないでしょうか。  「日本の常識は、世界の非常識」であることに気付き襟を正し、本当の国際人、心の国に生まれ変わりましょう。失明が即座に不幸を意味するものではないと思います。一般に,小学校に通うのは,まず社会から課せられた通過儀礼の一つという意味があります。

 但し、正月の初詣やお盆のお墓参りは本当の信仰ではありません。周囲の大人は目出度いこととして祝福しますが,赤ん坊自身が自分の誕生を喜ぶ気分になれるか,甚だ疑問です。すべての現象は、仏の私たちに対する説法なのです。自己と人生とが,誕生と死によって外側から明瞭に限界化されていながら,それでもなおかつ自己と人生とが目標とするある到達点を持ち,そこに到ってそれらが終結するといったことはなく,その意味では無限性を生きているのが実態といえます。自己を善導する役割を持つ表の自我に対して,死への志向性を持っている裏の自我は,目先の利欲にかまけたり,狡猾であったりということはあっても,自己の将来などはおよそ念頭にありません。

幼い自我にそのような要求をするのは無意味ですけれど,心の内部の事情を主体の観点からするとそのような意味になるように思われます。気弱な客我の下では、主我は生起する新たな生命を無批判に受け入れるので、勝手気ままな幼稚な心になります。
 そして、苦労をして背中全体で子供の命を受け止めて育てるからこそ、母親の子供に対する母性愛も強まるので
 「おんぶは子育ての宝」です。以上のような事情がありますが、最善の母親とは何かといえば、自然の心を豊かに保っている母親ということになると思います。朝ご飯をちゃんと食べさせる。この自我と重要な他者性格形成の初期ほど重要な意味を持ちますので,この重要な他者とはほとんど母親であるといえますとの関係で,必然的に派生されてくるのが,一つには超自我の山であり,一つには黒い子たちの山ということになります。

想起するのは不可能であるほどの人生の初期に何があったかは分からないのですが,情緒的な満足が得られなかった理由は,主に養育の中心である母親との関係に求められるだろうと考えるのが自然というものです。乳幼児が甘えを抑圧するのは,性の問題とは異なった意味があります。自己主義と豊かさが行き過ぎ、俗に言う『線香も焚か ず、屁もこかず』良いこともしないが悪いこともしないという人が増えています。また自我は,どう頑張ってみても半分しかよいことをできないともいえます。あらゆる行動には対象があり、これらの欲動は、目的とする対象をおのれのものとして関係づける動因になります。

それを徹底排除して,自然科学に準じようとすれば,脳の科学になるでしょう。それが日本人一般の心理的特性であるのは,キリスト教的な唯一神による民族の支配がなじまない何らかの風土的な事情があり,個々の自我が,より人間臭のただよう現実的な集合体に依存したからに違いありません。純粋な祖国愛です。その恐怖は,赤ん坊が幻想的な全能感を必要とする現実と,それを要求することの非現実性とのあいだの懸隔が,赤ん坊が生まれる以前と以後との存在形態のあいだに横たわる超え難い深淵そのものであるといえ,そのような事情に由来しているように思われます。Bさんは癌に侵されている夫と二人で暮らしています。

 「明日の記憶」「私の頭の中の消しゴム」に二つの映画を見ても、虚構の世界ではあるが、因縁果報の真理に当て はまっている。つまり個としての存在であるそれぞれの自己は,「欠けるものがある存在者」として、他者との依存関係を欠かせない要件としています。  核家族化が進み、子供の事には幼稚園のうちから、スイミング、ピアノ、英会話、野球にサッカー、塾通いなど時 間もお金も惜しみなく使い、枝葉に直接肥料をやり、親やご先祖という根っこに水や肥料をやることを忘れてしまっ たのです。そのようにして人は成長していくのです。その最たるものが,生と死です。親に孝養を尽くし、社会に役立つことを実践できる人間を
 育てることです。

しかし,あなたはそれを認めようとしない。誕生以前の自我の存在様態は永遠の謎です。不倫であろうが、親の反対の相 手であろうが、周囲の気持ちなどお構いなしで自分の思い通りに突っ走るお金持ちのわがままお嬢さん。改革を前面に打ち出し、様々なサプライズ
を演出した小泉総理の後を受け、一体どんな舵取りをするのか、期待と不安が交差する。他者の介入は,赤ん坊の自我の自然的な機能を護るには,’あまりに不自然’にならざるを得ません。そういう関係であれば,何か不満足なことが生じたときには,恐れることなく不満や怒りも表現できるのです。ペットが人の心を癒すのは,甘えたい,甘えてほしいという心の葛藤をなぐさめてくれるからのように思われます。

身を守るために人を避け,いわゆる引きこもりの生活に入ることになります。回収する側が,舞台の照明の点灯をも含め,一切の権限を握っているのですから,文句をいってもはじまりません。自己の中で、生命的世界を展開する心の中心です、この自我を、先に述べたように客我と主我とに分けることは、精神の問題を理解する上で合理的な意味があります。困難な人生を,共に生きるものとして相互に助け合うのが筋というものでしょうが,不幸の渦中にあるものがしばしば意地悪であるように,大小の意地悪を,かけがえのない我が子に対してさえしてしまうのが,残念ながら我々人間の愚かな性であるようです。

どうしたらよいのか分からずに,右往左往しているようでは舟を守れません。人間の有限性は現実問題ですけれど,不可知な無限感覚もまた人間のものです。つまり自分の意志で空腹を満たす必要なものを自分で獲りにいくことができます。そういう折に,「死んだら」とか,「切ったら楽になるよ」とかいう声が聞こえたりします。それらのやりとりの結果,患者さんが納得でき,それに伴って心に力が湧いてくるときに,生徒である治療者は,教師である双方の主体から合格通知を受け取ったことになるといってよいように思われます。今こそ物質的に豊かなに なりすぎた日本人のお金や物、学歴や成功に対する価値観を大きく修正することが急務です。

 私たち真生会の会長先生は、いつも「どこを切っても、真生会の血、お釈迦さまの教えの血が流れ出てこそ本当の信仰者です。 ①は、追い出され女房です。そのときに死の極北から吹きつける冷たい風にさらされ,人間がいわば立ち枯れてしまうということも起こり得ると思います。  ?言葉を多くかけられて育った子は、表現力豊かな明るく積極的な人間に育ちます。生と死,愛と非愛の二者関係の両極の中間にあるのが人間存在です。後退のベクトルはないのです。激しい不安や恐怖や怒りの渦をはらんだ闇夜の中に,人生の黎明が訪れます。意志に関して,ある行為の計画を立てるのは自我の役目ですが,いま述べたように幼い自我は両親をはじめとした大人たちの助けを必要とします。

それらの激しく,ネガティブな感情と共にある彼らは,他人がどんなに優しくしてくれても,容易には情緒的な満足に浸ることができません。それは眼差しの中にある重要な他者に悪しき依存していながら,それを認めるのを拒否するというひねくれた意識の下にある行動ですBさんは,できることを精一杯やりつつ,「これでよいですか?」と尋ねました。それらを敷衍すると,自己の中に内なる他者があり,それは当然,他者の中に外なる自己があることを意味します。そして自由な機能が随時,それらの下位の自我の営為を監視し,修正する指令を発します。しかし、無力な子供たちが襲われた時は、警報ブザーも監視システムも間 に合いません。

 食事に行くのも、旅行に行くのも自分たち夫婦と子供たちだけ、盆や正月は墓参りもせず、実家にも帰らず、海外 旅行やテーマパークへ直行。母親の胎内にあり,まだ意識の活動が始まる以前には,心が存在していません。生を受けたばかりの赤ん坊も例外ではありません。治療者との関係がしっかりしていけば,恐怖が愛に置き換わる可能性が出てくると思います。それでは、根本治療になりません。給料通りの仕事をし、言われた事、教えられた事をそのまま忠実に実行しているだけでは自動販売機と同じです。以上、述べたように、赤ん坊が置かれている心理的状況を推察することから、人間の精神の重要な問題の一端が、垣間見えるように思われます。

習い事以上に重要視してもらえなかったのは残念です。いたずらに人の心を気にすることはないのです。そして彼らの悪意によって疎外される孤独な子は,自分自身の中に新たに燃え上がる心の炎が生まれ出て,自分自身を励ます力となることができるのでなければ,更に一層,死の極風が心を凍りつかせることになる可能性があります。それは人間には克服不能の矛盾ですが,人間がその存在の根本において,あるいは存在構造として,そうした矛盾を抱え持っていることが特徴であり,それが人生の苦悩と希望との源泉でもあります。この’方程式’の価値が他を凌駕するのは,人間の心への洞察の深さにあるでしょう。

長女が夫と別居生活に入った当時は,Bさんは,母親父親は既に他界していますが暮らす実家の敷地にあった小さな古屋に住んでおりました。ですから死は自我の終焉とともにあります。幼い心で考えたことですから,未熟なのは仕方がありません。今こそ本末を見直す時が来ているのです。  そこで、一念発起し安定した職を身につけようと看護学校に通うことにしました。それぞれの立場によって,現象の読み解き方がそれぞれに違ってくるのは避けられないことです。  自然も人も美しく、心豊かな日本はどこへ行ってしまったのでしょうか?  不審者を恐れ、保護者が交代で送り迎えをする。

ではいったい何が原因なのでしょうか? 会見で某女優は「精いっぱいやった結果がこうだった。  今日の日本に世界はどれだけの敬意を示し、脅威を感じているのでしょうか? 覇気のなさ、品のなさ、愛国心 のなさ、マナーの悪さこそが学力の低下以上に日本の評価を下げているのです。漫画のビデオではダメです。孤独を恐れない者には嘘は通用しないのです。一体どこに仏の救いやご利益があるのでしょう。マンションに移ってからも,相変わらず母親と,母親の手先のようになっている妹に責め立てられます。それに相応して,自我の自律性は未発達に終わらざるを得なかったのではないでしょうか。

苦の実態と、原因がしっかりつかめないまま、人に預けるという方法をとっても根本解決にならなかったのです。殺されると恐れたのは,部分的には,もしかすると圧殺されているCさんの怒りが自我を脅かしたからかもしれません。単なる物置と同じです。生と死は本来は一体のものと思われますが,自我を持つ人間に特有のこととして二極に分化し,互いに逆方向のベクトルを持つものとして現前しています。 サウンド?ロッヂ伊吹? サウンド?ロッヂ伊吹  ?サウンド?ロッヂ伊吹。 人生はドラマであり、宗教は演出です。以上のことを,具体的な例で説明してみます。喜ばれている。

弟が寝ると,「起きると困るから,外に行ってなさい」といわれます。
 家族も同様で一人ひとりの力は小さくても、心の通じ合った力の結集が成功や幸福といったうれしい結果の原動力になるのです。その程度がはなはだしければ,将来,妄想的でさえある猜疑心に囚われる下地となるかもしれません。これに対して,「どう生きようと勝手だろう」という考えは,自由とは似て非なるものです。それはつまり,見捨てられる恐怖です。そうであれば自己を支える機軸は自己自身の内部にあるので,他者に対する自由が確保されています。物やお金をどれだけ与えても、親の愛情や信頼が伝わっていない子供は安心して成長することはできません。

後者の方が自己がより多く抑圧され,「完璧ではない」という意味でよい子ではないと感じているのです。予備校に入って間もなく,見かけた女性に好意を持ち,接近を試みたことがあり,それが関連してのことです。  平成十六年一年間の統計上、婚姻数が約72万件、離婚数が約27万件に及びます。  ?溢れる愛情に包まれて育った子は、優しく思いやりがあり、率直な人間に育ちます。将来ある若者達が誰にも相談できず、一人寂しく掛け替えのない人生に終止符を打つ痛ましい事件と報道に胸が痛みます。すべては主体との関係に帰着します。悪いことはしていなくても、自分のことだけを考える了見の小ささが脳を萎縮させてしまうのです。

そのたびに学校現場は混乱し、親は不安に駆られ、子供を学習塾に通わせる。  世の大学生よ! いまこそ目覚める時です。その沼の中心にあるのは,裏の自我と呼ばれるにふさわしいものです。治療がはじまって,うつ状態が晴れるにつれて,制御し難い激しい怒りに苦しむことになったのです。学校や会社に行きたくないときなどに,それを解決するのが自我の役目です。アルコールで身を滅ぼしていく姿も然りです。ここ10年が異常気象の大暴走に歯止めをかけるポイント?オブ?ノーリターン、後戻りの出来ないタイムリミットなのです。それが自己愛の本来の形です。動物一般は,いわば自然そのものを生きているのに対して,人間は自我によって,自然そのものを生きつつも,しかしながら自然から乖離している存在であるという特徴を持っています。

娘はごくごく幼いときから,喧嘩ばかりしている両親の仲裁役をしていたようです。相手の非を追
及し、上げ足を取り、子供だましの牛歩戦術や強行突破の繰り返しをして時を浪費している場合ではありません。こういう依存は,穏やかな言葉や態度でカムフラージュされて,一見は仲のよい親子の図になるかもしれません。せっかくの高級車も色あせて見えました。しかし自我は心の全体の主体ではありません。それは,生死のかかった恐怖です。母親にはそれを可能とする力があるという幻想を,赤ん坊は持っているようです。それを見て恐れをなしたのも事実です。手前味噌のようになりますが,「ここへ来るとほっとする。

両者とも,それぞれの自我は,いわば親の自我の傀儡になるしかなかったといえます。
 一般的「夫婦よりも子供を優先している」人は、離婚に関して消極的だそうです。
 いま日本人に一番欠けているものは『お陰さまの心』です。A君の’すべての人と仲良くしていたい’という願いには,このような心理的な意味が隠れていると思われます。そうであればこそ,幻想的な絶対者によって護られなければ存在できないのでしょう。オセロは滅びるべくして滅びたのです。その機構が万能感といわれるものであり,具体的にはE.ノイマンが記述するようなことではないかと思われます。無意識界にあるとする人間の精神の直接的な母体を,内在する主体と呼ぶのは仮定の命名ですし,自我は,人間が自然そのものではない存在として乖離されたときに,この主体から生み出されたものであろうと想定するのも同様に仮定のことです。

欠点ばかりを指摘したり、愚痴ばかりこぼしていてはやる気も起き
ず成績も上がらない。Iさんの心の世界と,Iさんが対処してきた様子を比喩的に述べると,次のようになります。しかし救出されないでいる状態が長期化すると,分身たちは怒りのエネルギーと一体化して,理不尽,不当な目にあっているものらしい恨みや羨望の感情に変質していきます。それを助けるのが治療者です。そして受け入れることができるまで,平穏はあり得ないでしょう。こうした状況では,責任の主体があいまいになり,欺瞞的精神に傾かざるを得ません。むしろBさんの真剣な怒りに怖れをなしているのだろうと想像されます。

それは一気に孤独を突きつけられるということでもあるでしょう。ですからこれらの分身たちは,怒りによって抑えられるのですが,怒りを蓄えつつ無意識下に抑圧されているともいえるでしょう。幸せだった家庭が天国から地獄へと一変してしまう恐ろしい現代病です。A君についてこのことを見てみると,赤ちゃん時代の母との関係が第一に問題になります。そして,子供とはいえない年齢にさしかかったころに,息切れがして,成績が振るわなくなりました。それが自我の自律性を混乱させ,母親の自我への密着を促したと思われます。それは,心の表層はそれら光の世界のものであるが,闇の世界をも含み,両者は密接不可分の関係にあるということを,そしてまた,光の世界は独立を志向しながらも闇の世界に依存していることであると言い換えることができます。

自我によって不当に抑圧された心の分身たちの,潜行する怒りが,命令的,懲罰的な集合的他者を作り出すのです。つまり自分の思うとおりにならないことが苦であり悩みなのです。それだけにその欲求は強力なエネルギーを持っています。  耐震強度偽装事件 ライブドアー 談合事件の本当の意味  ビルの心棒鉄筋棒が抜かれたり、細かったり、一連の耐震強度偽装事件が、日本を不信と不安の渦に巻き込 んでいます。デズデモーナへの愛の光が,オセロに生きる喜びを与えていました。  常にわが子の行動を肯定し温かく見守ってくれる良き理解者でありました。手に負えない幼児のような行動に走ります。

しかし外側親,他者への配慮が過ぎて,内側自己自身を疎かにし過ぎるのは,自分自身に悪をなしていることになるのです。 人事ではありません。心に内在化されるのは,この例に従えば母親ということになりますが,一般的には誰とは特定できない抽象的他者になります。自我が健全に機能すれば,外的客観とこの純粋主観との円滑な協働が果たされることになります。その欲動の強さは結びつける作用の強さでもあるので,愛し合う男女のあいだでは好都合にはたらく一方,男女それぞれが異性を支配する本能的な手段にもなります。未熟な自我は,ひとしきり素朴に自我の自律性の発露を味わい,楽しむことにより,自己表現の原体験をすることになります。

母親は、欠けることのない愛情を注ごうとするよりは、‘全的な存在’ではないことを伝えるのが、むしろ愛情であるのは明らかです。?私たちの子や孫が直接被害を被るところまで現状は悪化しているのです。食べてから,大変なことになったと思いました。国を愛し、ふるさとの 人と自然を愛し、家族を真に愛する人は、人の命を粗末にしません。自己を導き,社会的な顔を育成する使命を帯びている自我としては,裏の自我の支配を受けるのは,恥ずかしく,屈辱的な事態です。主体との関係がしっかりしていれば,孤独であることが脅威にはならないからです。それは避けるわけにはいかないものであり,避けてはならないものでもあります。

癌と宣告されたとすると,すぐには受け容れられないと思います。気を失ったら減点です。 学力向上より、人間力向上の教育を 学力向上主義、受験対策教育の歪が、全国各地で露呈している。今晩よく反省して心新た にがんばります」と気持ちを切り替えられました。それは自我に拠って世界が二つに割れたこと生の世界と死の世界,自我の誕生以前の世界が’全’であることを暗示しています。このように,自我が生の有限の世界の主宰者でありながら,自我機構が存在する由来が自我を超えたもの,つまり無限の世界のものという性格でもあるということは,人間の存在構造は,「有限であり,しかしながら無限性の性格をも合わせ持っているという矛盾を内包させている」ということになります。

女児の願いは叶えられなかったというべきか,半ばは叶えられたというべきか,両親は離婚しました。当然、がけ崩れが起こったり、大きな被害も出ます。客我は、それなりに強くなければなりません。知識を教え込むこと ではなく、その子の持っている資質や能力が発揮しやすい環境を与えてやり、可能性を引き出してあげることです。家庭教育も、学校教育も根本から考え直さなければならないところにきているのです。
 同じ部屋で枕を並べて寝ることやいっしょに食事をすることは、家族や夫婦の絆を強くする最も基本であり、最も大切なことなのです。恐らく,幼い時代のA君は恐怖心に怯えていました。

このように内在化された集合的他者との関係で,自我が時によっては抑圧機能を働かせて,自律機能に優先させるのです。そういう事情があるので、母親は、自分が赤ん坊に愛情を注ぐのは、赤ん坊が可愛いからだけではなく、赤ん坊の成長によって母親自身が仕合せになりたくもあるからだということを、知っている必要があります。救いは必ず内側、即ち自分の心に中にあ
 「幸せは西にもあらず、東にも北来た道探せ、南みな身にぞあり」幸せはどこか遠くにあるのではなく、今日まで歩んできた自分の人生の中、心の中に種まきがあるのです。自国の歴史や文化、国語力をしっかり身につけない薄っぺらな日本人で本当に国際競争力が身につくのだろうか? 成績第一主義で親や先生の引いてくれた線路の上を有名校、大企業に向かって突き進む金太郎飴のように画一的な教育からそろそろ脱皮しないといけない。

変革のためには破壊が必要ですが,自分で克ち得たものでないかぎり,破壊はあくまでもしばらくは破壊に留まります。この場合は、社会への適応が難しくなります。 親自身が会社や仕事に愚痴や不足がたまり、喜びや感動、使命感もなく惰性で働いていませんか? 子供の前で直接いわなくても親自身の無気力さは伝わるのです。それが悲しくないわけがありません。「死んだ子供の思い出に食べたくて????」 「亡くなったお子さんの?????」店員は絶句しました。食べようとすると吐き気がするのです。人間存在にかぎりませんが,問題は統合的な視野の下に置かなければ,それを問うことはできません。

子供や夫といっしょに食事をしましょう!  夫が仕事で遅くなる時は、子供
や他の家族と先に食事は済ませばいいのですが、せめて側に座ってお給仕をしてあげ、いろいろと話をするだけで
 中高年男性を中心に年間三万人を超える自殺者、いじめによる子供の自殺連鎖。そういう関係で育まれた集合的他者は,自我に対して威嚇的,支配的なものになるだろうと思われます。これらの’才能のある市民感覚’の持ち主ほどには,その種の才に恵まれていないものたちには,不意に顔を出す不安は,時によっては御し難いものがあると思います。
 一人の人格として赤ちゃんの命を緊急避難的に救うための赤ちゃんポストは一概に否定できない。

自我はそのために自縄自縛に陥る一方です。  子供の人数が少なくなったら分、教育熱心なお母さんも増えています。死んでちょうだい」と、主我に拒絶されたものたちに等しいのです。C.Gユングは,次のような意味のことをいっています。それをイアーゴーが盗み取り,動かぬ証拠としてオセロの心を揺さぶります。 しかし、本当はマニュアルを超えた所に感動が生まれるのです。自我に,「受けて立つ」気があれば,怒りによって自我がよい仕事をすることができるのです。しかし,赤ん坊の未熟な自我は自ら活動する力を持ちません。症例を積み重ねることによって,それらが無効化されることもあるでしょうが,有用性が更に確信されることもあると思います。

幼児の脳は、皮膚感覚によって爆発的に発達 するのです。 即実行し、感謝の祈りを続けましょう。人間の身体をつぶさに調べても,自我の根拠についての具体的な答えは見つかりそうにありません。膠で貼り付けたようなと,少々度が過ぎたいい方になりましたが,親子の強固な悪しき依存関係の悪しき意味を受け止めなければならない立場にあるのは,いうまでもなく第一には親の方です。
 ④小食????朝ごはんを食べない子供は、エネルギー不足で落ち着きが無く、昼まで授業に集中できません。親の安心が薄ければ,子を安心の道具としがちなのです。情報時代の今日、凶悪は都会だけではなく、地方も田舎も変わりません。

 しかし、勢いに乗ったホテルや旅館は、大勢の泊り客を当て込んで、ホテル内にスナックや夜食の店、朝市など
のお土産コーナーを作り、外へ出なくとも済むようになりました。Bさんは幼い時代に,母親への強い恐怖を体験しているだろうと推測されます。そして全である自然と,限定的な力をしか持たない自我とは,いうまでもありませんが対等の関係ではありません。たびたび述べてきたように,人の誕生は自我の誕生です。治療者との信頼関係が進展すれば,自分の中の扱いが厄介だった問題を預ける気になれます。どの事件も親が離婚、再婚をする中、子供の心が置き忘れられたり、親夫 婦の不仲の狭間で子供の純粋な心が踏みにじられているのです。

成功は自我の勝利,つまり生の世界での営為です。最近見たという次の夢がそれを物語っています。他者との関係はすこぶる重要であり,取り分け原初の他者である母親は,乳幼児期には絶対依存の対象になるので,特別に重要な他者といえます。Bさんは,もともと依存的な性格の上に,まったくの孤立,無縁の状況に置かれて,何度も絶望的な気持ちになり,死を待望するかのような日々でした。車が来ても立ち止まり、足がすくんで固まってしまって逃げることもできず、自分を守ることができないのです。地球温暖化による海
水温度の上昇などが原因とみられています。あるいは星を読み取って航路を定めるのが船長であれば,星々の運行をつかさどるのが主体です。

しかしPとSは対等ではありません。どこにでもありそうな夫婦だが、ここにも 互いに自分の都合からしか考えない身勝手な実態がある。人間の誕生は自我の誕生です。自我は更に自由になり,自律性が回復することになります。そして精神の現象には,その類のことがずいぶん多いのです。つまり、儲ける
ことや自分の得すること吸う息ばかりに必死で、施しや社会還元、世のため人のため家のために尽くすこと吐く
息を忘れ、自分だけが満足し、儲かるためには手段を選ばす、なんでもありの無法地帯、ならず者国家になりつつ 社会人になっても食費も生活費も家に入れず、給料はすべふ自分の貯金や遊興費、グルメにブランド、海外旅行
には惜しげもなく使い、育ててもらった親への恩返しも出来ない、年齢と体力だけは大人で中味の考え方は子供の
ままという大人子供が急増している。

小学生が学校に通うのは,自我がある程度成熟した年齢に達したときです。それは確かにそうなのです。幼児が車道に出たとき,とっさに車道に飛び出して法規を無視する幼児をたすけようとするのが,自由な機能の発動ということになります。繰り返しになりますが,過食という依存を手放せない背景に,死につながる強い恐怖があり,それは依存症一般にいえます。絶対者ではない母親は,一貫し,安定した愛情を示しつづけることで,乳児が現実を受け入れていけるように手助けをしてあげなければなりません。たとえば過眠症にはそういう意味があります。生死がかかっているこの要求は,ほどほどのものでは満足されることはありません。

自我は意味を紡ぎ出す役目を持っていますが、主体は、沈黙のうちに心全体を統括しています。これは自我意識の幼児期であり,もはや胎児ではなく,すでに独自の存在となってはいるが,なお円の中にいて,まだ円から出ておらず,ようやく円から自らを区別しはじめた段階である。 家庭にも社会にも、地域にも規則基準があり。人前での過度の緊張は,侵入される恐怖だと思います。いじめ、不登校、ニート、フリーター、まさに日本の若者は人間力が低下しています。基礎が解っていないのです。他人より秀でたいという野心によって社会的な成功者になることができた人は,一方では,本来の個性的自己からは遠ざかることになるかもしれません。

幼い時に情緒的な満足を覚えることは,その後の性格形成に重要な意味がありますが,しかし,それだけでは足りない何かがあります。友達と遊びに行く約束をして帰宅したところ、母親に、「遊んでいないで勉強しなさい」といわれたとすると、母親の意向と客我とが連動し、遊びに行くことの動因として生起している生命とのあいだで、主我は葛藤に苦しみます。いろいろある中で,たとえばフロイトを始祖とする精神分析はその一つです。それが二十才前後のもう半分大人、社会人寸前の大学生に流行し ているのは、彼らが年齢的、身体的には大人になっているが、中味の精神、心、生活状況が「子供のまま、幼稚」な  中味の種、本の種が幼稚だから、結果の実りとして乳幼児の病気が大流行しているのです。

特に食事の時は会話と情報交換のチャンスです。それらのことは自然のものとして起こるでしょう。そういうことは意識にのぼることがあまりないでしょうが,集団依存的な一般的な市民の盲点だと思います。一般的によい子の路線を取っている過食症者は,表面はにこやかにしながら,内面では人間不信や激しい孤独感,虚しさ,寂しさに打ちひしがれています。それに加えてそういう心の状況では,自我がうまく機能しないので,心はしだいにエネルギーの枯渇感に囚われていきます。言葉を換えれば,心の表舞台を司る自我をおびやかすほどに裏舞台の勢力が大きいといえるのですが,冒頭に上げたY,W,Zの三例では,いうならば表に出てはならない裏舞台のものが表に出てしまっている様子が現れているといえます。

その心の状況は,母親が赤ん坊にしてあげ,赤ん坊が母親にそのお返しをするという状況に似ています。  日本全国の家庭からどんどん心の鉄筋棒が失われているから、ビルの鉄筋が足りなかったり弱かったりする建物 が問題になってきたのだと悟るべきです。何をしてよいか分からず,途方に暮れて寝ているとしても,強いられた絵が描けなくて寝ているのと,自分の意志で描く絵がいまは寝ていることでしかないのとの違いは,大きいはずです。表の自我を彩る感情が生気感であるとすれば,裏の自我を彩るそれは怒りです。甘えなどの情緒的なものが母親によって満たされることは,健全な自己愛と他者愛の育成に重要です。

非社会的なところまで自我が後退している状況では,自我は無力化し,それに反比例して裏の自我が勢力を拡大するという事態になります。このような意味で,自律機能よりも抑圧機能の方が強力であるかぎりにおいて,自己は発展的であるよりは閉塞的になります。転職、結婚、企業独立、遺産相続など、大きな変化に直面した時も真理は同じ 大変化という非常時に人の本性が現れます。  戦後、宗教を持つことや、信仰をすることが、弱い者のすることであり、さも時代遅れの非科学的なことと思われ、 物質至上主義、金銭至上主義、学歴優先主義に偏ってきた歪みが出てきているのです。

このことから、自我の誕生は二項対立の世界の誕生といえます。 ②みんなの利益を考える人、自分の利益を優先する人。自我の誕生以前の世界は,自我に拠るわれわれ人間にはうかがい知ることができません。ところで自我はなにを拠り所に存在しているのでしょうか?自我は,人間に固有のものです。これを仏教では『諸法無我』といいます。これらの三つの山のどれが勢力を持っているかが,人格構造の基本的枠組みを決定的にしているといえるでしょう前者の命に沿うときに自我の自律機能が機軸になり,後者の命に沿うときに自我の抑圧機能が作動することになります。前者の母親であれば、二心についても、自然に身についた知恵が働くでしょうが、育児に専心できない後者では、関心がそがれている分、知的に理解しようとするでしょう。

Pはそれを疎ましく思い,Pは見捨てられまいとして更に取りすがろうとします。うかつなことをいえば,自分がよほどおかしな人間であると思われるのではないか,彼女たちが遠ざかってしまうのではないかと恐れたのです。 山本教授は、温暖化は科学や技術の問題ではなく、モラルと倫理の問題であると断言された。母親から片時も離れられない不安の様子と重ね合わせると,それは見捨てられる恐怖に由来するもののようです。それは母親が全的な存在ではないことを受け入れることによって可能となります。しかし死については欲動といえるものかに疑問があります。それに伴って情緒的な満足は抑圧されることになります。

要は自分中心  大学生を抱えた親、特に首都圏や都市部に下宿させている親は、経済的に大変です。つまり,何かのストレスに負けて心がグラリと傾いても,速やかに心の姿勢を回復させることができます。生まれて間もない人生の最早期に情緒的に満たされることが,他者との関係を円満に保つことができる性格を形成する基礎になるはずです。むしろ熊を怒らせた人間の方に悪があることになります。これが本人には問題なのです。この負の遺産の中で問題になるのは,他者への過度の配慮から,その過度にわった分の自己犠牲です。 ①願いや望みが叶った時に感謝する人初級者 ②当たり前の事に感謝できる人中級者 ③辛いことや病気、事故や災難にあった時、自分が成長できた、気付かせてもらえたと神仏に感謝できる人感謝 子供はお金で買えないものを求めている 家庭内暴力のエスカレートする少年に、ある日父親がたまりかねて言った。

その存在自体にはよいも悪いもありません。その赤ん坊に大いなる光りをもたらすのは,なんといっても母親の愛情に違いありません。心の外界には自然がありますが,これは宇宙にもおよぶ無限大の広がりを持ちます。  ③迷惑を掛けてはいけません  人様よりも一人の女性として生きている私自身に余分な迷惑を掛けないで欲しい。正し い信仰のご本尊生命の根源を祀り、毎日手を合わせる生活が何事にも心のぶれない強さと人のことを思いやる 優しさを育む家庭教育、心の教育になるのです。結局,二心は自我の自律機能と抑圧機能に関連します。「自由に生きる」ことには,主体の意志を探り当てるという意味があるでしょう。

子供の大切な命を預かり、育てさせて頂くという、謙虚で低い姿勢。あるいはその道の敗者になれば,絵をあきらめればよいだけのことです。高校もすごいところに入りましたが、そこでも上位。この根源的な恐怖は,赤ん坊が全生命を要求することが,人間的な現実の原則に反することであるのを教える意味を持ちます。また,この解き得ない矛盾のような問いを負うのでなければ,人生はひどく詰まらないものになるでしょう。彼女は夫と離婚し,一人娘と実母と三人で暮らしています。自己愛が健全であれば,他者愛も健全のはずです。餓鬼と化したかのような圧倒的なエネルギーを,裏の心は秘めています。

この夏に第二子を出産しました。しかしながら,場合によっては命がけで人を救おうとするのも,隣人愛に富んだ人たちのようです。個々の自由は,自我の自律性が健全であるのを前提とします。自己愛というものが存在していることが、愛の性状を持つ欲動が自分の心の内部から生起し、自分の心の内部のどこか外的なものへ向かうことを示しています。それは,当然,母親を信頼している姿ではありません。  ③昨年平成十七年六月、東京板橋で起こった会社社員寮管理人夫婦殺人事件では、高校一年の男子が父 を撲殺し、平素から死にたい疲れたといっていた母を哀れに思い、刺殺した後、部屋をガス爆発させ殺人を偽装  子が親を殺すということは、余程のことであろうが、いわゆる尊属殺人がいとも簡単に実行され、しかも多発して いる。

つまり有限のものである自我は、逐一の行為が死の別名である無の無化作用によってそのつど潰え、B層との関係によって、そのつど新たに蘇るのです。 ある日小学一年生の子供が、不満げに母親に言ったそうだ。このような筋で人間の問題を考えると,「人間の原因は人間である」という奇妙な,悪ふざけになってしまいかねません。
 かつて作家の三島由紀夫は「いつの日か、日本という国はなくなって、その代わりに無機質な、空っぽな、ニュート
ラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう」と日本の将来を憂いた。人間がロボットを作っている。

あの判決は前半では違憲といい、後半では公務員の義務であると正反対の支離
滅裂なことを言っている。それらの死の世界に追いやられたに等しい分身たちには,いつか自我によって改めて認められ,受け入れられる願いを持つもっともな理由があるのです。学ぶべきことは,その精神です。  「頭の中の????」は、28歳の若妻がアルツハイマー症になっていく物語である。それがあれば,いわば自己の軸は心の中心を貫くことになり,いってみればダルマ的な存在になることができます。途方に暮れ,打ち倒されるようにして無為に過ごすのではなく,「いまできる自由な絵は思い浮かばない,強いていえば寝ている絵しか描けない」というのであれば,「それでよい」とする精神です。

彼女は,過食のために異様に腹が膨らんでいると信じています。自分一代
だけで終わっていく自己満足の信仰だけでは意味がありません。場合によっては死の衝動が存在しているのは厳然とした事実です。自我は自我自身について対象化することはできず,従って自我自身を問うことはできません。果たせるかなSさんの足がしばらく遠のきました。母親の思いとしては,Iさんが’心の弱い子’であってはならないのです。ここにもまた,人間が有限の存在でありながら無限性を生きている様が現れています。そして,やがては自分の手で自分のために台本を書いてみたいと思うようになります。

そして,また,それは万能感や自己愛が完璧ではないことを受け入れるしかなく,自己の一部であった母親が,客観的に外界に存在する他者であることを自覚し,受け入れるしかないことを促しています。おそらくそれとは正反対の母親への恐れ,恐怖,,不信感に,ごく幼いころに直面しただろうと思われます。  すべて必然であり、大宇宙の真理仏さまのお心からのお知らせであり、お諭さとしなのです。 ③洗濯はまとめ洗いをする 水道代や電気代のに節約。その恐怖は,母親その者への恐怖と区別がつかないだろうからです。このことは,社会的な存在である人間は,社会の中で人と調和してやっていけるための人格的な修練を欠かすわけにはいかないが,しかしそれは自己本来のあるべき姿とはまったく別問題であるということです。

 いま子供の生命と希望ある人生が危機にさらされています。それは自己形成の上で犯罪的ともいえる結果をもたらしかねないのです。場合によっては,さまざまに由々しい人間の不幸,悲惨を招き込む,心的事態に陥ることにもなります。それは大きくなってから親の生活姿勢や働く姿を見て、
良いことも悪いことも親と同じように行動するようになると言う意味だけではなく、実は赤ちゃんの時からお母さん
の背中におんぶされ、まさに母親の背中を見て育つのです。しかも自我の自律性が犠牲にされているので,主体との接触がうまくいかず,いわばエネルギーの元を自ら絶ってしまっていることになります。

そのための拠り所が自我の自律性です。顔色をうかがう癖がついてしまった。患者さんは,誰にも話せないでいる自分の問題を,治療者であるがために打ち明ける気になれます。それは二人のあいだを繋ぐ愛のしるしとして,オセロが妻に,「決して失くさないように」と念を押して渡したものでした。
 美しい国日本の国づくりは如何に?
 安倍内閣は「美しい国創り内閣」と位置付け、「今日より明日が豊かになる社会」「公立高校をしっかり再生」「アジ
ア外交の重視」とめざす方向を示した。滅諦 ④解決方法が分かれば、実行すれば苦は必ず消滅する。人間が存在する根拠は人間自身にはありません。

しかしながら,彼女が望むように甘えると,幼児そのもののようになるに違いなく,それは手に負えない病的な行動になりかねません。常に傍にいるので一心同体も同然なのです。母親は,子供のためを思ってしていると考えがちですが,意識の欺瞞というべき側面があることが決して少なくないと考えるべきです。愛情と信じた過度の干渉が繰り返されてきたようです。薬を飲むと安心することができ,自分が舟をどう操ればいいのか,落ち着いて考えることが多少はできます。  冒険は大いに良いが、無謀は慎むべきである。そして心の沼を広げる理由になります。これまでに述べたことから,人間の誕生にはいわば’二人の親’が関わっていると考えることが,精神構造を理解する上で有用です。

その怒りは影の分身たちの山のものでもあります。そして悪態をついていた長女も,何とか仕事をする気になりました。これからも頑張ってね』と状況が180度変わってしまい、ウソみた いで信じられませんてした」と喜びの声でした。また,明瞭に有限のものである身体性と,無限性に通じる精神性との総合である人間存在は,永遠の二律背反生と死の互いに相容れず,しかし相互に絶対依存の関係にあるのがその最たるものですを生きているのを特徴としています。自我が介入するということは,いうならば黒い子たちを代弁する意味を持ちます。心の問題に,万人が納得する永遠の真理といったものはあり得ないことなので,先達に学ぶ心を持ちつつ,なおかつ心が白紙であるときに,新たな里程標のようなものが立ち上がって見えて来るかもしれません。

薬を飲むと心が落ち着きます。 宗教ジプシーに安住の地はないのです。乳幼児の主我が、必要以上に母親との関係を優先させざるを得ない何らかの事情の下に置かれれば、母親との関係を護ろうとしないわけにはいかない見捨てられないように、母親に盲従しようするので、大自然からの贈り物を不当に拒否することになります。親や権力者や友人に依存します。それは自我の拠り所であり、心全体の首座をなすものです。内なる他者が心の構造に生まれつき組み込まれているので,他者を外なる自己として,異星人に対してであれば感じないであろう親しみの情をもって容認し,理解することができるのです。

愛情と手間隙を掛けて磨き出さなければ光り輝きません。一時の感情で言うのではありません。「ハサミ???カッター???」とうめくようにいいます自傷行為は数知れずといった過去があります。 子供の目線まで親が降りていき、同じ背丈になって、同じ心になって接することです。Bさんは母親が何といって罵ろうが,自分の使命は母親の側にいて下女のように仕えることでした。欲動はB層から贈り出されてきます自己に固有の生命的世界は、そのように展開されていきます。そもそも知性は自我の僕であり,自我は有限の世界での自己の中核です。共感頂けた方は早速に身近な実践を始め、多くの人にこの事実をお伝え頂きたい。

父親は,「別に怖くないじゃないか」といったそうですが,少年には怖い夢でした。そして,それは全的には肯定されていないという根源的な恐怖を生み出す理由になり,投げ出されたもの,という被害感の起源にもなるでしょう。その心が無意識的に他者に向かうとき,その他者は母親代理ということになります。これら心の内外の指導者が、仮に過度に厳しいとしても、画家の名に値するものであれば、主我は常に客我に屈することはありません。しかし、母親の意向を理不尽と感じながらも、母親と客我の権勢に押されて盲従するとき、主我は客我の傀儡となり、自分を護れない臆病者になります。

そのようにして,自己がおのずから自分らしい自己に向けて,成長していくことができるのだろうと考えられます。長女は十代から我がままのし放題というふうでした。これらは育児の上での干渉にも通じる問題です。  天知る、地知る、我が身知る  ライブドアーの粉飾決算疑惑、橋梁談合、防衛施設庁の談合など、エリート階層の欲得がらみの事件も雨後の竹 の子のように次から次へと発覚し、またか!と呆れるばかりです。それだけに他者への依存から理想的に自由になっています。 ③見て見ぬ振りをする人、精一杯協力する人。Yさんの自我は,もともとは情緒的なものを抑圧して父親と協調しようとするものでしたが,思春期にいたってその姿勢があやしくなり,結婚をしたことによって崩れたといえます。

 ?目に見えない神仏の力大自然の恵みや先祖の恩に手の合わさる生活は、豊かな心の人間を育てる。そうすることで必死に生につながっているのです。相手が誰であれ,自分の心をさらけ出すに値しないという心を誇りにしている人もあります。母親への甘えが満たされている関係があれば,乳幼児は母親に受け入れられている,信頼されている,愛されているなどのことに確信を持て,満足感と安心感に浸ることができます。むきになるのは確かに変だ,自分のものでなければむきになることはないですからと,夢の報告者はいいます。しかし幼い孫の面倒をみてあげなければなりません。

苦痛は不足感でもあるので,たとえば「掃除をするという絵」を描こうという気が起こるかもしれません。このように幼い自我が自然の欲求を抑圧するのは,大人が何かを我慢するのとは比較にならないもので,いうならば心的外傷とでもいうべき出来事に直面したからであるに違いありません。この自信があらゆる困難に立ち向かい健常者以上に大活躍する人生の原動力になっているのです。 そして、感謝にもレベルがあります。それは’一者の世界’にはあるまじきもの,であるに違いありません。  母の愛情が前向き人間を作る  もう一つの活力の本は何といっても母親の愛情です。権力者である母親の自我に過剰にすがるとき,自我は自律機能よりは抑圧機能を優先させる傾向が顕著になります。

他者不信は,自己への不信と並行する関係にあります。実際には非社会的な機能といい,社会的な機能といっても固定的なものではなく相互に移行する関係にあります。誰か一人だけがしゃべるのではなく、それぞれが話題を提供しあ
うことが大切です。人間に純粋客観はないが,純粋主観はある,それは嬰児の世界であるといえるように思われます。以下は,甚だしい干渉をしてしまっている母親の例です。  子供の命をどう守るか  幼い子供たちの痛ましい事件が後を絶ちません。そして,’そのうち’がやって来たときには,そそり立っていた絶壁は,より穏やかな勾配に変わっているに違いありません。

 世の為、人の為が最大の予防  「病気は気から」痴呆は年のせいだけではありません。自我は,自己を指導する立場にあります。患者さんが発する問いは自我によるものですが,治療者の自我がそれを受けて,双方の意志を通じ合うことになります。動物そのもののような唸り声を発します。闇は自我の光がおよばない世界のものであり,無限ないしは無の性格を持ちます。いつまで経っても無力な自我に受容される見込みが立たないままでいると,いつか裏の人格が支配的となり,死を志向する力と一体化していくことにもなりかねません。その’噂’が核になって,他の人の耳に入ったのではないかというふうに拡充します。

このガンは、感謝や笑いが大の苦手だそうです。それは密接不可分の関係にある他者不信と恐怖にも直結するのはいうまでもありません。そして,それは自然への帰還です。いかしいざとなると動悸がします。つまり、B層から生起しているもっともな生命の誕生を無視することになりますが、それは母親の意向を理不尽と捉える明確な心が欠落していたのと並行して、主我が自分自身に理不尽なことをすることになります。  子供は宝”いのち”の家庭教育 1で胎内教育が人生の設計図作りの大切な時期であることをお話しました。  IT産業急成長の先にある落とし穴に注意が必要です。

思い切って友人たちに話してみたところ,彼女たちはあっさりと受け止めてくれました。その不信の根源にあるのは,見捨てられる恐怖です。 自立させようと、親元から旧知の俳優仲間の元へ送り出したが、結果は変わらなかった。この時点で未熟な心のSさんに代わって,母親が善処策に走るのも愛情の形でしょうが,両者の依存関係はSさんの未熟な心と共に手つかずになってしまうでしょう。この場合の内的な集合的他者は,一定のあるべきイメージを提示します。他者にも,自己にも信頼がうすくなります。高校生のころに,Yさんは勉強をしなくなり,見た目には怠惰な生活をするようになったのです。

母親は焦りと孤独感と不安を感じるのです。まさに国会議員は声が大きくて耳が遠い人が有利にしか見えない。その作業が首尾よく進んでいるかどうかは,心の全体が充実し,豊かになっていく感覚が答えになると思います。それに伴い,自我が自律機能をよりは抑圧機能を優先させるために,無意識の領域から生起してくる諸欲求を自我が受け入れ,護ることができないために,得られるはずの生命的なエネルギーを,怒りのエネルギーに変換させてしまうからです。それは親子の関係で蓄積されてきた,いうならば歪みエネルギーが,いずれどこかで放出されずには置かないという意味合いを持つ自己解放の動きです。

小さな子供を間に挟
んで「川」の字になって寝ると言う昔ながらの光景はとっても大切なことです。全面的な支配を欲するのは,それが可能であるとする幻想があるからに違いありません。  あまりにも事件が多すぎて、一体どこの誰の事件かわからなくなってしまいます。前者は相互の人格を独立したものとして,それなりに認め合い,尊重し合っている場合で,いわば対等の関係で信頼と愛情を分かち合えるのです。 しかし、彼女が看護学校に通う事をはじめは親も反対でした。これらの属性があるかぎり,人間はたえず煩悩に引きずり込まれないわけにはいきません。  百歳以上の老人が一万人を超える高齢化社会となり、大半の人が長生きをし、老化を経験する時代を迎えた今日、 「三つ子の魂百まで」「胎内教育」は子供や若いお母さん方の問題ではありません。

理由はともあれ、せめて別れる時は、刃物で切ったようにスッパリ きれいにしなければなりません。この心の内部の他者が中心的な位置を占めると,人の目が気になって仕方がないことになります。まさに、教育バブルの典 型です。しかしよい子の心の底には,それとは矛盾した激しいものが渦巻いています。少子化で兄弟の横糸も弱弱しい。自分一人さえよければいいという姿勢では、正しい社会生活は成り立ちません。しかし人間は無限性を生きる存在です。それは永続するものではなく,充実の獲得と共にすぐさま無の無化作用に脅かされるので,自我はひと休みしたあとは次の仕事に取り掛からなければなりません。

つまり、父親や母親の働く姿を身近に見て育っていないので、働くという実感と価値観のわからない若者が増えているのだと分析していた。また,自我自身のそれぞれの能力の問題もあります。実際の母親は,Iさんが必要な意見を臆せずいうようになったこともあって,最近ではあまり口出しをしません。 その面積は、国連の「気象変動に関する政府間パネル」IPCCが予測した2040年の面積にあたり、学者の予想をはるかにこえるスピードで、計算よりも30年早く今年の夏に氷が解けてしまったのです。自分の意志は,父親によってことごとく踏みにじられてきたと思っている一方で,内的な父親と一体になって,自分を不甲斐ない奴と内心で罵っているのです。

塾は中学からでしたが、甥っ子も元々勉強が好きなのもあってか自分から塾に行きたいな~、と言い出したそう。自我の自律性が問われる年頃になって,問題が表面化したということでしょう。自我に脅威を与えるほどに,怒りを伴う破壊的な力を蓄えてしまっている’心の沼’がそのままに放置されていれば,ストレスに大変弱くなります。母親とのかかわりを通じて,乳児は自分の幻想的な欲求生後2ヶ月ほどになると,母子一体の感覚が乳児に芽生えます。赤ん坊の生みの親は,いうならば二人います。二心それ自体は良くも悪くもなく,人間に固有のものです。こういうときに少年はどうすればよいのでしょう?男児の自我は精一杯の仕事をしているように思われます。

生の方向に向けて自己を導くためには,なくてはならないと思われる自我の自律機能が萌芽の状態にある赤ん坊は,自己の内部に自己を支える力を持っていません。自我としては近づくと危険な雰囲気を持つのです。事実,殺意をも秘めた彼の怒りは,不特定の他者と父親とに向けられています。大安心を諦めきれないでいる心と,小安心に甘んじることができている心とを分けるのは,おそらく見捨てられる恐怖を幼い自我がどう扱ったかの問題です。 ①やさしさの教育?生命の尊さ先祖を尊び神仏を敬う信仰心、死を大前提とした人の命の大切さ?お蔭さまの人生世の中は共存共生、自分ひとりの力で生きているのではない ②包容力の教育?みんな違って、みんないい?個性の違いを認め受け入れる心、弱い者をいたわる心の器を作る ③決断力の教育?正しい価値観の教育歴史や古典に習う?損得ではなく善悪の価値基準を教える ④忍耐力の教育?目の前の障害からすぐに逃げない?石の上にも三年の辛抱強さを養う ⑤再生力の教育?やり直しのきく人間作り?失敗はあきらめた時に決定する一度や二度の失敗で人生は決まらない 宇宙は誕生してから百五十億年、今も広がり続け発展と前進の方向に向いています。

寿命がつきかけたときに,「これでいい,これでいい」とつぶやいたという哲学者の話がありますが,回収作業を開始した死に自己を差し出す心を語る言葉として,人間の生き様の理想を見る思いがします。たっぷりと抱っこして母子一体感がしっかりしていれば、 厳しい躾をしても大丈夫です。しかし,その根にある恐怖と不信は,対人不信と自己不信の核になるでしょう。逆に無用に怠惰にしていると,自我はエネルギーを受給されないままになり,活力を失うばかりです。父親や母親の身体を楽にさせてやりたいのです。怒りの感情の存在さえないかのような人もあります。そこには両親の願い,考え,感情,価値観などが込められています。

子供といっしょに感動し心から笑う楽しい母、表現力豊かな母。後者は,二つに分離,対立する特徴を持つ自我に拠るものの宿命として,二心を禁じ得ません。その上で改めて自然を対象化することによって,自我は自然を我が物にすることが可能ですが,そのように対象化したものは,もはや自然そのものとはかけ離れたものです。つまり心の闇には,猜疑,不信など非愛の心が拭い難く潜んでいたということです。両者に力の差があれば,強国がもう一つの国の主権を尊重するのはむしろ難しい問題です。治療者は,そうした治療的な難問をかかえていると感じられる患者さんを,自分の手に負えるかどうか判断しなければなりません。

それぞれの人間存在は,まだ自我の機能が開始されていない嬰児の段階で,定められた定量のエネルギーが与えられている。 子供の特徴や性格、興味や良い所を見つけ、こういう方向へ進んだらどうか、こういう生き方もあるとアドバイスして、いっしょに考えてあげることが今必要なのではないでしょうか? 猫も杓子も大学!大学!と、一流企業に入ることがさもや幸せの成功街道のように、画一家した進路指導ではもういけない。自我は無意識の心に依存しつつ,なおかつ自立した,主体的な存在であることが求められています。  企業社会を見れば、民間企業の談合はもとより、金と権力にまみれた官製談合などルールなき戦い、商道の仁義 なき戦い、儲けた者勝ちの勝ち組負け組社会になっている。

このように心の川には,対立し,相互に相容れることなく矛盾し合うふた筋の流れができます。 不都合な所ではなく、調子よく普通に動いている目や口や鼻や胃や腸などに「今日も調子よく動いてくれてありがとう」と感謝のことばを言い続けていればきっと治ります。そのために,裏舞台にあるはずのものたちが,自我の統率から逸脱して自律性を持ってしまっているのです。  頭はいいが心の教育が出来ておらず、正しい判断力が育っていなかったのです。それは,自我には自然的な機能を大切に護るようにという大命題があり,それを達成するために他者の介在を必須のことして与えられているというふうに見えるということです。

精神のエネルギーの源泉は身体にあると思われますが,精神と身体の関係は相補的です。  明治維新の原動力であり日本を変えていった多くの若者を指導した吉田松陰は、「学問は、人の人たるゆえんを 学ぶ」ためものと言った。アルツハイマー型は原因不明で あり、現在の医学では進行は遅らせても完治させる方法はありません。それは実証性を持たないので、何らかの仮説を設ける以外にはありません。苦の裏側には必ず良いことの芽生えがあり、自分を大きくする救いがあるのです。それが活性化しないように刺激を避ける必要があり,他人との関係を遮断する方向に向かいます。ましてや人様の生命を粗末にしてはならない。

いずれにせよ船長の恣意で小舟を動かすことはできません。そうすることにより母親を支配してしまうこともあり,これも裏の自我の営為といえるでしょう。しかし負った負債が甚だしいものであれば,よほど強靭な自我でなければ,返済は困難になります。母親がやむを得ない会合があったとき,家で過ごすことができず,父親につきそってもらい,会合場所の近くで待つ必要がありました。いまにも暴れ出しかねない様子なので,弟にも来てもらいました夫は仕事で,呼ぶのが困難でした。愛は人と人とのあいだで緩やかな関係を保ち,恐怖は強固な関係を必要とするでしょう。
 江戸時代の俳優柳多留の中に、赤ちゃんを捨てざるを得ない母親の悲しい心情を詠った川柳があります。

この舟の船長は私である,母親は相談の相手ではあっても,最終判断を下すのは船長である私だという自覚を持つことが大切です。他者への度の過ぎた依存は大変危険です。それは主体との関係を確立する方向で進められなければならないと思います。  最近のマンションブームの中に起きたこの事件は、何を教えているのでしょう! いったいどこに原因があるので  マンションをはじめ、建売一戸建て物件のほとんどに仏壇や神棚がありません。 メイン会場では、毎日各国の温暖化対策の実践報告や提案、要望などの発表が続いた。これで
は夫も男として一人前になれるはずはありません。

それから七年、A容疑者は三たび、覚せい剤に手を染めた。母親は、幼い子には十分に甘えさせることが重要です。私が裏の自我と呼んでいる領域は,ユングの個人的無意識に相当しますが,なぜ敢て自我と呼ぶかといえば,ユングのいう個人的無意識の世界は,いわば自我の負の遺産だからです。幼児期から英語から英語塾に通 わせたり、いくつもの習い事やスポーツクラブに通わせることが親のステイタスになり、それで親の責任を果たして いるという大きな錯覚があります。小学生のA君は,一時期,学校へ行けませんでした。「かくあらねばならない」という絵の集合的他者としての教師は極力排除して,「自由に描いてごらん」という教師に置き換える努力をするのです。

自我が判断をするという形が必要ですが,それをせずに気分まかせにしておくと,身体が答えを出してしまうのです。自分 たち若夫婦と子供たちだけ、そこには親の存在が除外されているのです。しかしBさんは母親の側を離れるのが不安でした。自我はといえば,いずれにしても主体性を示せないでいます。もう一つの中心は、B層にあります。客我に支配された主我の下では、A層の生命たちは、不当に抑圧されたことになり、逆に主我を支配、拘束することにもなります。
 そして大方針、進むべき道を示してもらえたのだから、具体的にどうしたに美しい日本になるのかは、「よし、みん
なで考えよう!」という姿勢が良くしていくのです。

世の中も同じで、自分だけが幸せに
なればいい、自分の会社だけが儲かればいいという考え方は、大自然の真理に反していますから、いざという時に
持ちこたえられないのです。  最近、目標と現実の自分との距離感がつかめない若者が増えています。自我の生誕は光の世界の幕開けです。逆に,原初の他者である母親によって自我が護られず,自律性が混乱させられる体験をすれば,自我の健全な自然性が傷つけられることになるのでしょう。しかし,それが満たされることは決してありません。人が何かの行為,行動をするときに,それに伴って無意識界からエネルギーが動員され内在する主体によって送り出される,自我がそれを護ったかぎりで生へのエネルギーが受給され,護れなかったかぎりにおいてエネルギーは死への流れに合流します。

実際に行動に出たこともあります。学生時代勉強が大嫌いだった彼女が、しかも三十半 ばを過ぎてからの遅すぎる挑戦は、大冒険というよりは、荒唐無稽の無謀な挑戦でした。  つまり大恩ある親の元にはほとんど足を運ばず、ご先祖のことなど放ったらかしの無関心、切って捨ててしまって いる日本全体の現状が根本の原因なのです。このような光の黎明期乳児期では,闇死の存在に殊更に脅かされると思われます。親が人生のお手本となっていないのです。人生は無際限に高く,深い山を登るのに似ています。そして幼い子の自己表現が親をはじめとした大人たちの干渉を受けないということは,幼児が自分の力を感じ取るのを大人主に母親が是認すること,つまり共に喜ぶことを意味します。

 教授は、世界中の著名な学者が報告している最新のデータを駆使し、地球温暖化による異常気象や環境変化の
大暴走が、もう他人事や遠い未来のことではないと力説された。  胎内教育が人格形成の設計図  母親と胎児はへその緒でつながり、文字どおり一心同体です。生きるという方向で自己を形成していくのが,いわば人間の自然的な使命であると思われますが,そのことの裏面である死は,生きる機能に不具合が生じれば生そのものを回収しようとするもののようです。それぞれの心は,大いに歪まされながら自己形成が進行する宿命の下にある,それが人間である,といえます。それに伴って抑圧して無意識だったものを,ようやく認める気になれるのです。

どれも大切なことではありますが、下流の対処療法であって、源流の根本治療ではないと思います。このように自我の自律性の根が,心の発達,成長につれて主体に向かって伸びていくと想定されますが,主体との接触が好ましいものであれば,親からの自立は順調に進行するといえるでしょうし,接触が著しく不調であれば,何歳になっても幼児のように親の助けを必要とするでしょう。境界機能がしっかりしていれば,他人が脅威に感じられることもあまりないでしょう。それは隣国の侵入を受けてきた小国のおびえに似ています。乳幼児にとっては,母親に見捨てられないようにするのは最優先の課題です。

そして愛されている自分に気がつき,それに値する自分の価値を知り,生きている喜びを味わうことができるでしょう。  失われた十年のバブル経済は、分別あるはずの一流大学出や大企業のエリートが目先の儲け、金や物といった 物質的豊かさに盲信した結果であり、大きな教訓となったはずである。そのように自我が望ましい働きをしているとき,境界での検閲は柔軟であると考えていいと思います。つまり、病気になってしみじみわかる、生きている限り必ず誰かのお世話になっているのです。苦しい後一歩の所を 投げ捨ててしまうか、歯をくいしばってもうひと踏ん張りするかで、人生は百かゼロか、成功か失敗か、幸か不幸か に分かれてしまうのです。

そして不幸にして,その好ましい心の作業に乱れが生じると,自我の根の主体との関係が不安定になると考えられます。このレベルになると無意識の影響をつよく受けるようになります。今こそ国民一人一人が正し
い信仰を持ち、優れた日本の文化と伝統の美に立ち返るべきです。。 胎教中の種まきは一生に影響する マスコミも自身も成人してからのことや、事件が起こってからのこと、育て方のことばかりに目が向いているが、気付いていない大きな落とし穴があるのです。  しかし、小さなうちに身に付いた立ち振る舞い、マナー、言葉使いなどは一生ついてまわる人格の表看板です。

チンプンカンプンなのです。そうすることで,集団への依存から,ある程度自由でいられることが可能だと思います。それは認める以外にないことです。「これはあなたのものだ」という。それが表の自我の仕事であるなら,大いに意味を持つことになるでしょう。不意に胸のあたりがもやもやして気持ちが悪くなるからです。  成功者の秘訣! 途中であきらめない  悪いことが起こっても落胆してはいけない。 今の日本人、若者に限らず低迷している企業や組織のトップ、悩める子供を持つ親の姿も同じではないでしょうか?苦しい現状に困った困ったと頭を抱えるだけで、目の前の難問題を何とか切り抜けよう、打破しようという努力や行動をせず、その場に立ち止まりうずくまり、時さえ経てば救いの神が現れると他力本願?を決め込み、呆然と現実に流されている人が多いのではないでしょうか!?「果報は寝て待て」ではなく「果報は練って待て」なのです。

可愛い弟だよと彼はいいます。大学を卒業後,勤めた会社で否定的に扱われたこともあって,職に就いていません。 「これまでお前には、欲しい物は何でも買ってやった。それは「精神の原因は身体にある」といった類の考えが,割り切り過ぎて,説得性を持たないのと同様です。自分では個性的に生きているつもりでも,いつか途が見えなくなり,自分を見失う危険は,むしろ高いでしょう。マンションの一室に移り住んで一息ついたころ,孫達が騒ぐのがうるさいと苦情がきました。自分の気持 ちや意見がしっかり言えなかったり、自分の行動に自信がないため、いじめられたり、引きこもりや孤独で寂しい子  反対に愛されて育った実感がないため、人に対する不安と不信のため、乱暴になったりもします。

 A小学校で落第生は、B小学校へ変わっても落第生です。そうした全的なものへの要求は,どうしても現実の前に失望に変質せざるを得ません。ここにも子供の心は無視されています。心の病理的な諸現象は,表の自我の衰弱に伴ってのことであるのは論を待ちません。「私の中に悪魔がいる」というのは,そういう状況でのことです。そしてまたそこには,相手方である母親にそういう力はないのかもしれないという予感もどこかしら働いているに違いありません。いつも親に怒られたり、小言ばかり言われている子は、学校や家の外でも 怒られたりいじめられたりされやすい子になります。

過食症もその一つですが,依存症一般にそういうことがいえます。 小、中学生のクラスの三分の一が母子家庭だとも言われています。夜になると,お化けが怖くて一人で寝つけません。  一つは、何か!  「はしか」は本来、乳幼児のかかる病気です。しかし人とのあいだの距離の取り方がよく分からない人の心が分からないのとおなじことですYさんの試みは,逆効果になりました。友達Bの家で遊んでいた二歳の子Aが,玩具を家に持ち帰りました。更につけ加えれば,患者の皆さんは,教師としての性格の一面を持っています。そもそもが,表の自我による人格は精神性と社会性とを備えています。

自分だけが四角四面で真面目にやっていて も幸せが保てるものではないのです。とりわけ生まれて間もない未熟な自我は,「世界を自己化する」力はとうていありません。厭なことばかり聞かされればだんだ
ん心もおかしくなる。学校を変わっても、自分という中味が変わらなければ何 も変わりません。また,自己は他者とのあいだでも絶対的な依存関係にあります。ある女性Aは,「ニュースなどの報道で,人が殺されたと見聞きしても何とも思わないが,動物が虐待されたときは許せない気持ちになる」といいます。自我は一個の組織体ですが,自由な機能は組織体を改善していく上で重要なものです。

極風にさらされることから身を守るために,他者は重要なパートナーです。それは現実的な他者との関係にとどまらず,心的現実としてさまざまに現象されているのです。常識的な意味での母親を地上の母と呼ぶとすると,もう一人の母親は上位者なる母ということになります。それでもようやく母親と別れて暮らす決心をしました。それは赤ちゃんといえども,人間として生を受けたからには,死の問題に無縁であり得ないということに関係します。自我がその意志を探り当てることによって,人間の精神を造形していくものと考えることができます。  母が子供の一番の理解者になろう。このように赤ん坊の自己なる存在構造には,母なる他者が密接不可分に入り込んでおります。

自我の働きがどう評価されるかは,内在する主体を拠り所とするに足りる働きをしているかによって決定されるでしょう。それらの山の中で自我の山が主力であれば,自我は自立していることになり,自己形成へと向けた心の体制が整っているといえるでしょう。治療者が治療者としての節度を護れない困難な状況では,治療者?患者の関係は,迫害者?被害者の関係に変貌します。もはや省エネではなく消エネ、節約ではなく、使わないことを考えなければ間に合わないのです。  しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ  屋根まで飛んで こわれて消えた  しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた  生まれてすぐに こわれて消えた  風風吹くな しゃぼん玉飛ばそ  生後一週間で夭逝ようせいした長女に対する、野口の哀別の情を表した歌だが、現代の子供に当てはめてみる と、大学という屋根まで飛んで一流企業に就職し新社会人として生まれたが、中味がなく衝撃に弱く、すぐにつぶれ てしまう現代の若者の姿が、しゃぼん玉にオーバー?ラップされて見えてきます。

そんな已むに已まれぬ現実のなかに、せめて最後にお腹いっぱいお乳を飲ませる母親の切ない情景が目
に浮かびます。せめて一日一品お母さんの手料理を食べさせてあげましょう。間食など許される身分か,というのが母親の気持ちであり,Cさんも同調しているのですが,この同調する考えが集合的他者によるものです。そして、父と母のどちらを選ぶことも出来ず、一番苦しい思いをしているのです。時代の流れがすべ て正しいとは言えないのです。どこかで曲がっていくか、しおれてしまうの  地球に緑を! 人の心に潤いを! 2007年十二月三日から十四日までインドネシア、バリ島で国連気候変動枠組み条約第13回締結国会議COP13が開催され、2013年以降の温暖化対策の枠組み交渉の進め方をまとめた工程表「バリ?ロードマップ」に各国が合意した。

生きる喜びをそれなりに楽しんできたあるとき,「もう,そろそろいいだろう」と,意識という舞台上の照明を一挙に消されてしまうのは残酷な話です。「この人は,本当に凄い力を持っているのだろうか」とか,「この人は凄い力を持っているのに,なぜ私にそれを与えてくれないのだろう」といった不信,疑惑に,怒りと共に囚われることでしょう。危なっかしい生き様に見える肌合いの異なる他人たちに,隣人として優しい気遣いを示すことがあっても,所詮は理解しがたい世界の住人の域を出ることはないでしょう。  ④卑怯なことをした時  弱い者いじめをしたり、一人を大勢で攻撃すること。

 乳幼児期に小さな手間の手抜きをして育てた子は、大きくなってから大手間がかかる子になります。そこには隠れた悪意さえうかがわれることもあります。人の力を超越しているなにものかが,こういう意味不明の舞台を提供しているのですから,なにか我々には及びもつかない深い思慮が働いているのだろうと考えるのが関の山です。相手の女性には,しつこくつきまとう困った人と映ったようです。必要以上に豊かになりすぎて障害に対する対処能力が落ちてしまったのです。人と仲良く暮らすことができるのはいいことです。 信仰や宗教の大切さがわからないのは二流の学者であり政治家であり、三流の教育者と言わざるを得ない。

一方的に心が身体からエネルギーを補給されているということではなく,心が健全に機能していれば身体にも影響が及び,身体も健やかでいられるわけです。  ?しっかり抱きしめられて育った子は、自信と安心のある寛容な人間に育ちます。犯罪者の心理となると,「人の衣装をまとった獣」といわれるように,裏の自我が積極的に表の自我を操っている様相と考えられます。孤独でもあるかもしれません。それは自我の自律機能と境界機能が成長,強化されることによって可能になります。つまり自己表現は人間にとって基本的に重要なことですが,幼い子は他人の干渉を受けずに,素朴にそれを表現し,それができている自分を喜ぶ遊ぶという経験ができる年代にあるからです。

そのような現象的な世界の演出者であり,住人であるそれぞれの自我は,包囲している闇といずれは一体化する宿命の下にあります。それにつづいて指示や禁止など、感情をコントロールすることで躾をすることになりますが、それは自我の抑圧機能に働きかけることを意味します。思い当たることがいっぱいあります。
 我が娘に、我が家の嫁に勇気を持って<おんぶ子育て>を勧めて下さい。  ①北海道稚内では離婚した両親を恨み、十六歳の少年が同級生に三十万円で実母の殺人を依頼し、成功した ら父親も殺すつもりでいたという恐るべき事件。その場合は,不承不承「頑張る」しかありません。

それは,どんな犯罪よりも犯罪的であるといってもいい過ぎではないと思います。靴をちゃんと揃えて家に上がる。むしろ圧力を加えてくる集合的他者に押し潰される代わりに,それを凌駕するようにピアノに立ち向かう力を自我は持っていました。国家予算スリム化の数字合わせのために『将来の国の宝』育成の資本を削ってもいいのだろうか?官公庁の浪費をはじめ、削る所はいくらでもある。それこそが尊い命を守る国づくりの第一歩です。
 母親は家族をつなぐパイプ役であり、家族の心の漏れを防ぐパッキングです。しかしそういう集合的他者の指導に従ってきたので,現在の無気力な姿があるのですから,いまは差し当たりそれでよいのです。

接客をしたアルバイトの店員は戸惑いました。職を持ったお母さんは子供の 世話をし、いっしょにゆっくり食べる時間の余裕がないのです。よい子というのは,そもそも母親の期待や要求に,無理をしてでも応えてくれるからです。そしてそれぞれの仮説は,それぞれの分野に現象として存在しているものを,合理的に説得する力を持つかという意味が問われることになります。いかに生きるかということは,いかに死ぬかというのとほとんど同義です。またこの機能には,その人の社会的な顔という側面もあります。この母親と幼い子の祖母本人の実母とは,良好な関係ではありませんでした。

 子供が夢中になること、感動してやっていることの中にその子の個性の芽が隠されているのです。その玩具を欲しい,自分の物にしたいというのは自然の欲求です。抑圧という心的活動は自我の価値判断に伴うものですが,それは自我に与えられている能力が限定的であることに帰着します。これがなぜ幼児心性かといえば,個々人の自我が,良かれ悪しかれ自立していないからです。自我の重要な機能の一つは自律性です。克服の第一歩は,’醜い私の身体’を,’ありのままの事実’として認める勇気を持つことです。自我の自律性の根は自然的に成長していくのがよいはずですが,原初の段階では自我はそれ自身で機能する力はなく,母親による愛情で保護されることが,絶対的に必要です。

根が伸びていくのは,心の大地である無意識の領域です。第一の母は,無意識世界の主体となって,個々の人生,個々の自己の途を無言のうちに指し示している。それはいうまでもないことですが,程度の差はあっても虐待する親が決して少なくないのが実情でもあります。つまり生の裏面は死であり,対立し相容れない矛盾である両者を共に許容できなければなりません。親は,特に母親は子供に依存しがちです。 大女優としての道をあゆみ続けた某女優は次男裕也の妊娠中、女優として大事な舞台と重なり、お腹の子を堕そうか、生もうか非常に悩んだ末、出産と舞台の両方をこなしたそうである。

そのために赤ん坊は,母親に全を要求するのです生誕以前の状態への回帰の要求ともいえるのでしょう。しかしその後気を取り直した様子が見え,私は改めてSさんの基本問題の説明をした上で,「あなたの意志を伝えることができるようになるのが課題です。国を社会を、そして家庭を背負っていく大きな使命に目覚めましょう!モラル崩壊が温暖化を加速する ポイント?オブ?ノー?リターンは後10年 過日、WCRP世界宗教者平和会議開発?環境委員会が「地球温暖化」をテーマに東京大学の山本良一教授を迎え環境問題学習会を行なった。そうしたものが存在すると仮定することは,精神の病理現象を統合的に理解する上で意味があります。

そういう行為は,一人だけの信仰ともいえることです。そういうときにはどんなに愛情深い母親も,悪い存在として激しい攻撃を向けられます。決して悪いことではないのですが、本当に子供が興味を示し、やりたいこと なのでしょうか? 親のやらせたいことであったり、親自身が幼い時に出来なかったことの実現であったら大変です。まさに心はストリート?チルドレンです。母親にもまた,そういう赤ん坊にどう対処したらよいか,自然の力とでもいうべきものがあると思います。」 この親子お互いの甘えの構造が、辛抱する力や率直さを失わせ、頼る所があるものだから簡単に離婚をする温
床となっているのではないでしょうか? 「実家は駆け込み寺ではない」時には心身の癒しの場ではありますが、本当は親に安心を与え、親孝行のお返し
に帰る場所なのです。

常々,Sさんは母親の意向に従っていましたが,この夢を見て,乱暴にドアを叩き続ける父親も可哀想だと思いました。それはあたかも,意識上の世界だけが心のすべてではなく,無意識の世界の中にこそ生命の源があることを教えているかのようです。 一本の大木が枯れるときは、いきなり幹が腐って倒れることはありません。そういう影の分身たちが,無意識界に不気味な沼のようなものとなって勢力を張ります。すると先生に,「そんなことで休む子はいないよ」といわれました。それでも一般には,自分が理解されたい,心の地獄絵を解決に導きたいという心があるからこそ通院するのに違いありません。

フロイトはその欲動理論において,生と死の二大欲動の存在を仮定しています。仮に上司が高圧的であっても、それは具体的で客観的な他者との個別の関係なので、主我が自由であるかぎり心が屈することは滅多にはないでしょう。C女はペットになっているからです。前者であれば一日中でも寝て過ごすかもしれませんが,自分の意志でとなると一日中寝ているのは苦痛になるでしょう。人の自由を’真に尊重’できないかぎり,人を’真に信用する’ことはできないはずです。「わがままになり、自分の都合が優先し、信頼関係が崩れている」要は辛抱が足りないのです。翌日,学校を休んだのはその証拠のようなものです。

また,この個人的無意識の世界は,多数のコンプレックスから構成されています。幼児の心を失わず,素朴な自己表現の欲求を失っていない芸術家たちは,いま述べた心の裏舞台を作品として表現することがあります。それは主体との関係を中心にしてみると,巧まざる自我の堕落といえるものがあります。  ヒントは困った中にあるものです。ダルマ的な心の軸は,自我が主体としっかりと結合しているときに生じるといえます。平凡な市民と非凡な個性派を分けるのは,他者への依存の仕方の違いといえます。診療に協力する姿勢の現われでもあると思います。「過食は自我が著しく衰弱して,裏の自我に支配されていることに伴うものと考えられます。

この場合は,内在化された集合的他者は命令的,懲罰的で,自我を打ち壊すほどの勢力を持っていますが,自我の自律機能は,ピアノによる自己表現に関するかぎり,それに抗する力を失わなかったと考えられます。これが成長してからの子供の生き方に大きく影響する  こうして育まれた母子の一体感こそ、人間らしい人間を作り出す基礎であり、人格形成の根本です。「わるい乳房」の存在は,万能感や自己愛に翳りをもたらします。日本は恥の文化を持った国であり、゛弱いものを大勢でいじめる」など卑怯者のすることだと戒めてきました。そのよい子の自我は,親の基準に従う傀儡自我にほかならず,’悪い子’を抑圧してきたのです。

あまりに幼いときは母親は絶対者ですから,乳幼児たちは服従する以外にありませんが,成長するにつれ,しだいに自己主張がはじまるのが自然です。それと平行して裏の自我が勢力を強めていることになるはずです。自我に余裕がなければ,無意識の圧力を受けることになりますので,不安やいらいら感などに苦しむかもしれません。こうした甚だしい依存関係そうしたものは必ず悪しき依存ですでは,自我の主体との関係は極めてよくないはずです。疑いを持つことは危険なので,あくまでも友好の姿勢で取り入ろうとするのです。それがどうやら仇になったという印象を受けます。もと父親が入っていたのとおなじチームです。

親自身がその親から蒙ってきた有形無形の被害的なものを背景に,子を相手に復讐をしている趣さえどこか感じ取られる場合もあります。それは程度の差はあっても避けることはできません。  離婚後の親の姿こそが、子供の将来と人生観を変えてしまうのです。分析的治療の経過中に,不用意に抑圧が解除されると,封印されていた怒りが,意識の表面に躍り出てくるような混乱が起こります。幼いころに集団になじめない’変わった子’が,孤独の中で極風にもまれて,創造的な自己を創出する場合があります。強迫性障害などに見られる完全への要求には,原初のこうした問題がからんでいるのかもしれません。

それは心にできた怨嗟に満ちた沼のような趣があります。しかしそれが全てでしょうか?その答えは,たったいま述べたことの中に含まれていると思います。そして,それに伴って情緒的な満足を求める心は,自我によって抑圧されたと思われます。
 親が無神論者であったり、自分の都合でコロコロと宗教を渡り歩いていては、子供たちにわがままの手本を示して
いるようなものです。そして客観的,外的世界は,自我の成熟と共に乳幼児の世界に取り込まれていきます。生を受けた赤ん坊は,残酷にも早々に死の存在を突きつけられ,やがては受け入れていかなければならないのです。それらの不安を一掃するためには,赤ん坊のように母親と一体化するしかありません。

繰り返しになりますが、自我は、生命の誕生B層からの贈り物と死との狭間にあって、死の超え得ない壁に挑みつつ、B層からの新たな生命の誕生を受けて、いわば生と死とを日常的に演出していると考えることが可能です。その直後,母親が出かけたときに,菓子パンを2個食べました。
 この現実のどこかに仏がお見えになり、何が仏からの救いのメッセージなのだろう?と自分の都合や私心を捨て
て、一心に仏を見よう、仏の御心を感じとろうする時、真に救いの姿が見えてくるのです。それと似たような事情にあるのが,親と子,特に母親と子供の関係だと思います。
 どこに原因があるのでしょうか?
 お客様の便宜やサービス向上、魅力ある店作りはいいのですが、自分のホテルにだけに人が集まり賑わえばい
い、自分だけが儲かればいいという自己中心的な小さな考え方、欲まちがいが、最後は自分が行き詰まるのです。

幼い時代に経験したと思われる恐怖心や不信感などは,抑圧されて滅多には意識されることはないでしょう。
 イギリスの著名な歴史学者トインビーは「歴史の研究」という著書の中で「一つの国が滅びるのは戦争によってでは
ない。これを先ほどの図式に当てはめてみると,学校へ行く意志を持つたのは表の自我です。?これは完全なマニュアル破りであり、規則違反です。不可知の上位者とは,意識による人間にとっては’全なるもの’と言い換えることができる。そのために,場合によっては,治療が成功するのを阻む無意識の心の動きさえあり得るのです。内向する怒りと共に,甘えたい心が意識の地下に封じ込められていると,「甘えたいー甘えさせてあげたい」という心の流れが阻まれてしまいます。

子供や親、兄弟、親戚など、あらゆる人に影響し、ご迷惑と心配をお掛け するのです。また人間への正義の要求が満たされていないために,人間の悪に過敏であるともいえます。何はともあれ自由は尊重しなければならないのです。 五体不満足で知られている乙武匡さんは、生まれながらに両手両足がなかったそうです。Cさんも,その母親の考えに同感しています。自我の活動は意識の活動に他なりませんが,両者の関係は発電機と電気の関係に似ています。自我は全であり無である自然から乖離されたものです。例外的には,心の回復をほとんど信じていないで,治療者に対する何らかの悪意から通院する場合もあり得ると思いますが。

それは、そのつど無死の無化作用を受けるということです。大冒険は死の危険と隣り合わせの行為です。愛されたい,認められたいという自然で,当然の要求を,自我は精一杯すすめるのですが,両親には通じません。しかし自律機能が不十分であれば,自己の好ましい育成は望めないことになります。自我は両親の更に恐ろしい拒絶を回避するために,甘えたい心を涙を飲んで押さえ込まなければならない状況です。それは表の自我の無力を意味します。主導権はこちらに移った結果としての不登校なので,’悪い子’といえばいえるのです。ユングによれば,自我はその気になれば意識化が容易な心の世界の中核であり,意識化が可能ではあるが,原則的に無意識である世界を個人的無意識と呼んでいます。

Bさんは,いまもおなじ生活状況にありますが,一定程度の自信を持っています。そもそも自我が未熟であるとはいえ,「よい」と「わるい」とに二極分化していることが,赤ん坊の自我が活動している証拠です。   他人事ではありません。自己への信頼が揺らいでいないということは,主体との関係がうまくいっていることを意味します。ということで,自我と意識の光を頼りに生きる我々としては,意識の否定である死の影は大変な脅威ですが,死というものの存在も生と同じくらい重要であるのは疑いありません。母親を愛している,母親が大好きだというふうに信じ込むことで,母親との関係をはかろうとするのですが,一方で意識下に抑圧されている甘えられなかった分身たちは,その心の嘘にだまされることはありません。

俗に,「天才と狂気は紙一重」というように,長じて大きな才能を個性的に開花させることができるのは,むしろ幼少時に母子関係に恵まれていたとはいい難く,何かと問題があった生い立ちの子であるようです。国境と異なるのは,強いはずの侵入する親が,実は強くはないがための侵入であるという点です。アトラクションやハードウェアーの箱物の施設はお金さえかければどこでも真似できるでしょう。先日,娘の所にいたときに妹が来た長女の叔母である妹は,Bさんの孫に会いたいのです。良い事やうれしい話をたくさん聞けば心も明るく穏やかになり、自分も良い事をしよう頑張ろうと
いう勇気も湧いてくる。

それは,やはり無視しがたい圧力になります。元気があるというのは,自我に欲求を護ることによりエネルギーが補充され,活力が保たれているということです。学生時代のある時期まで,Yさんは学業成績が優秀でした。もともと傷つき易く,混乱しがちな赤ん坊の自我が,いわば不自然に母親によって何らかの恐怖体験をしたとすると,自我は自然のプロセスに従うことができず,身を避けるために生まれて初めての対人的な策を弄することになります。彼女が出張などで不在のときはまだしも,ふだんは五分と席に座っていられないのです。そういうものが皆無ということもないでしょうが。

無限性を生きるというのは,生と死という相容れることのない永遠の対立が,姿をさまざまに変えて現れ,そして超克されていく意識のダイナミズムを生きるということです。そのために自我の世界の二分裂が公然化したともいえ,分裂したそれぞれの世界の統合者を,一つには表の自我であり,そして一つには裏の自我であると呼ぶのが現実的であり,それなりに意味があるのです。それはいま述べたような事情によるのですが,表の自我が自立していないために,有益な仕事をして自分で自分に満足をもたらすことができない傾向があるからです。母親としても力足らずだった」と。治療者の能力に足りないものがあれば,患者さんの方で,ある程度以上のものを打ち明ける気にはなれないでしょう。

むしろ突き放された,見捨てられた,親を怒らせたという恐怖に耐え難い思いをするだろうと想像されます。元気で活力のある子供を育てなければ、社会へ出ても言われたことしか できない、工夫や粘りのない人間になってしまい、役に立ちません。家庭においては、仕事中心で家族の協力など当たり前、いたわりの言葉もない仕事人間、49歳の夫。ましてや、先日東京地裁が国旗に対する起立、国家の斉唱を強
要することは違憲であるとした。信じてあずけた、学校 や塾の先生による犯行????一体誰を信じ、何に頼ればいいのか呆然と立ち尽くしてしまうのが現状です。精神の充実は自我によってもたらされますが,それは死無による意識の無化作用を一時的に沈黙させることができたに過ぎないともいえるでしょう。

そして抑圧機能は,他者への配慮の無意識的態度という意味で用いています。自己と他者とが絶対依存の関係にあるということは,心が二分割されていることに通じます。暗い道を通って家に帰ると,見知らぬ中年男が来て,荷物を差し出す。荷物を開いて中身を見ると,ミイラ化した死体が入っている。  父親は家庭を支えるためにしっかり働き、家庭に安心と豊かさを与えることが最大の責務です。自己は他者に見放されても,自己自身に見放されても立ち行かなくなるという難しい問題をかかえているのです。 女性側の理由は、夫の暴力、異性関係となっています。単なる偶然は無いのです。

人間には完璧はなく,ほどほどの満足が分というものです。
気候風土や言葉や風習の違いもありますが、やはり食べ物の影響は大きいと思います。画家を目指す者であれば,集合的他者の介入に抗する内発力を発揮できないかぎり,二流以下の凡庸な画家に甘んじるしかないでしょう。意識界の首座にあるのは自我です。自分の気持ちでしか他人をはかれないのです。母親は,Sさんが「逆らいなさいといわれた」といっているが,どう対応したらよいものか相談に来たといいます。何か分からない理由で意志がくじけたのです。生きるために母親に甘えることが重要ですが,垣間見た闇死の恐怖が更に大きなエネルギーを持っているために,その希求を制御するのです。

退行せざるを得なかった弱い自我によって,自律と境界の機能においても幼児的に退行したと考えるのが妥当でしょう。人間が自然そのものから乖離し,自己という存在者として誕生したとき,感覚的な存在である赤ん坊は,恐らく強い驚愕と恐怖の中にあるのではないでしょうか。自然ならざる人間は,このようにして他者の介入を必要とし,それによって,程度の差はあれ自然性を歪められることになるのです。  勇気を持って価値観の転換を  人間は知育、徳育、体育の三つのバランスよく身についてこそ、心身健全でりっぱな社会人になれるのです。人間であることの証明は、自我にあるといえます。

母親自身の満たされていない心を、赤ん坊をいわば利用して満たそうとするに等しいので、実質は愛情に似て非なる自己本位のものといわなければなりません。『子供は将来の国の宝である』今、その宝を育てる義務教育補助金が大きく削られ
ようとしている。野球が上手です。その影響で硬直した自我が,哀しみと怒りをたたえて,子供に対して独善的な構えを取るのです。そしてその関係を混乱させる元凶は,他者の介入,他者への行き過ぎた配慮です。  本気で自分たちの子供を産み育てようという決意と感動が不可欠です。お金や物のために安易にお母さんが働きに出ていては、大きな落とし穴が待っています。

しかし,生まれたばかりの自然のものは傷つき易いのですものが傷つけば,自己を正当に愛することができません。  例えて言えば、パソコンのデスクトップに並んでいるアイコンが不必要になったり、あまり使わないものは、ゴミ箱に 捨てます。そのようにして母親に媚を売り,よい子を無意識的に演出することで,母親の怒りをかわすことができると考えるのです。よい子がいじめに合うのは,そのような’嘘’が感じられるからかもしれません心から母と子の和解的な結合が起こるとすれば,唯一,表の自我が母親から距離を取り,無意識下に潜む分身たちの恨みや怒りに目を向けるときです。

それは自我の自然的な機能が,母親によって護られたことにもなります。
 ②正直「悪銭身につかず」ウソやごまかしで儲けたお金や財は、最後は自分をだめにしていく。自然的な自我が,内在する主体との接触を妨げられ,節度が曲げられるのは他者の介入によってです。’自分の眼’を持たない心理治療者は,その名に値しません。その意味では動物は純粋であり,悪の性格を持たない罪がないのです。一方,母親はこれに対して,「お母さんを安心させるような子になりなさい」という暗黙のメッセージをもって育児に当たるだろうと思います。そうなると怒りが恐怖に変わり,今度は母親を怒らせないように要求を自制するようになるでしょう。

一体どこのだれの事件 だったか分からなくなってしまうほどだ。言葉を換えれば,過食は,死の世界に属しています。無意識の勢力を受け止め,意識の領域との境界を画然とすることで,心の秩序が保たれます。ある中年女性は,人前では過緊張で字が書けなかったり,歯科治療のときに喉をごくんと鳴らすのではないかということを過度に怖れたり,「人は人を殺すことがある」という強迫的観念に脅かされたりします。すべては救いのメッセージ 私たちの毎日の生活には、うれしいこと悲しいこと、辛いこと、思いもよらないことが次々と起こっています。  正しい離婚の方法をとれば、次の幸せをつかむことができるのです。

そのプログラムにスイッチが入るのが笑いであり、喜びなのだそうです。 なぜ毎日のように嫁いだ娘が、実家に入り浸りになれるのでしょうか? それは、親が長男夫婦と同居していないからです。一つ一つそれらの関門を克服していくのは,心の治療そのものです。よい子の装いを偽善的というのは,代償として支払う自己犠牲が大きすぎるのを考えると酷な表現のようにも思いますが,非難をしてそのように呼ぶわけではないのはいうまでもありません。根を切った樹木は枝葉から枯れていくのが真理です。  挨拶が明るく大きな声できちんとできる。一晩や二晩徹夜をしてもダウンしない体力。

そこから先は,人間の上位者に任せるしかないというのは自明のことです。期待が高いレベルでつづくかぎり,現実は冷酷です。しかし,バイトに行くときなど,特別なときは服薬をしています。変換されたエネルギーは,喜び,満足をもたらすものから,怒りをもたらすものになります。しかし内心の不安は打ち消し難く,無意識の世界にあるそれらの感情が,彼の自我を捕捉し,飲み込んでしまう恐怖を持つのでしょう。そういうときは,一時的に無意識との関わりを停止しようとするのも自我の仕事です。伸びる芽がなければ,何事も伸びようがないのです。つまり自己表現の喜びは大幅に減じ,集合的他者が提示するイメージに従って絵を描き,それを教師が等級をつけて評価することになります。

彼は父親を大変恐れています。まだ人生のつぼみにもならない幼児、園児、無限の可能性を 持ちこれからどんどん伸びゆく若い枝葉の小中学生の命が、短絡的、身勝手な理由で無残に奪われています。それはやがては実体的に証明することができるという性格のものではなく,永遠に仮説にとどまるでしょう。
 家庭教育が人生の基本。家族がお互いに自分から話をする努力をしなければ、楽しい食卓にはなりません。Bさんは,「自分の狭い部屋に一人いて,何か牢獄にでもいるような感じがしていました。 先日ある番組の対談で小坂文部科学大臣は、社会構造の変化に大きな原因があることを指摘していました。

技術は後でいい。そして,それに相応して無意識の領域に,先の例に即していえば,「甘えられなかった分身たち」を抱え込むことになります。そうすれば,過食行動をさしあたっては承認する気力が湧いてくるかもしれません。それは問題の一端で,長じては,勉強,進学,就職,友人との交際など,一事が万事,父親は激しい罵声をまじえて干渉しました。 幼稚園、小学校から英会話を教え、パソコンを自由に操れることが本当に国際人を育てることになるのでしょう 幼稚園や私立小?中学校が少子化の子供たちを獲得するための手段方法、人寄せのうたい文句のために国際
 性になっていないでしょうか? ☆礼儀作法がしっかりでき、日本の文化や伝統、精神性が語れること、自国に誇りが持てる人こそ、国際人である。

「頑張る」ことには,他から課せられた問題に向かうという意味が込められています。本と末、幹と枝がバランスよく育ってこそ大木になるのです。最も望ましいのは,他者との関係の途絶の不安,一切を無化する恐怖,等々であるこの死の影に,恐れずに立ち向かう勇気を持つことです。それらは裏の自我の下に,満たされなかった情緒的な満足を求めて,役に立たない表の自我に公然と反旗を翻すことになっていくのです。つまり,この論旨に従えば,自我の誕生以前の世界は全または無であり,誕生後の世界は,その主宰者である自我によって二分割され,不完全なものの複合体になるといえます。

迷妄の渦に巻き取られる程度が甚だしいときに,生よりも死が関心事になっていきます。食べず嫌いの人が多いのです。  最近の子供はよく切れるといわれる。心に裏面が存在しているのは,人間の真実です。自分の心が破壊されてしまう恐怖もあります。死を,自我が引き受け難いものであるかぎり,生もまた耐え難いものになります。虐待する親の下では,子の自我の自律性は失われます。死を予告する冥界からの悪魔的な使者のようでもあります。そして自我の誕生は死の誕生でもあります。 しかしモラルや倫理は、人間対人間の物差しであり不十分です。失敗の危険のない試みはありません。

まるで娘が生きているように、家族団らんを味わいました。
 歴史上の偉人、成功者の生きざまと精神を学ばせ、「本当の立派」という価値観を心に刻むことが大切である。樹木の種が大地に落ち,しっかりと根を下ろせば,あとは種に組み込まれた自律性によって成長していくのとおなじように,自我の自律性の根は,母親の保護を受けて大地に根を下ろすことができるでしょう。それは自分が大切に扱われていない,愛されていないということに直結します。そのように考えると,限られた能力をしか持っていない我々ではあっても,日常の意識の中に無限性をも持ち込みつつ生きているといえます。

 私たち人間は、母親のお腹の中から乳幼児三歳までの間に身に付けたことが一生の土台になります。苦労を共にし、寝起きを共にし、同じものを食べることによって団結力や心の絆が強まり、ここ一番の勝負や
危機一髪の苦しい場面で思わぬ力が発揮され、拍手喝さいのファインプレーが飛び出すのです。  ②この子はすばらしい力を持っていると心から信じて育てる。この独自の途を進む人には,なんらかの’芸’が手がかりを与えてくれると思います。生に関しては,その根源的な欲動の存在はうなずけるものです。夫への魅力が無くなった妻は夫を無 視し、グルメ、ブランド商品、旅行などに走り、率直さ、可愛げの無くなった妻に夫は暴力で鬱憤うっぷんを晴らす??? 悪循環の結果、泥仕合のバトルとなり、離婚へと執着するのです。

そこには不当な扱いを受けたものたちの怨嗟の声が満ちているといえるでしょう。 お父さんもお母さんも昼間は家に居ない、子供も学校に行っている。自己はそれだけでは全体の半分に過ぎず,他の半分を内に含むことにより’全’となるのです。この場合のコンプレックスは,幼い時代に母親に甘えられなかった数々の体験群の無意識的記憶と,それに伴う悲しみ,寂しさ,虚しさ,怒りなどの強い感情群とから成り立っています。  昨日まで健常であった妻や夫が急に物忘れが激しくなり、だんだん簡単な計算が出来なくなり、漢字もわからなく なり、新しい記憶から、身近か家族から忘れていく。

気に入らないと怒り,罵ることでBさんを従えて来た母親にとって,Bさんは手であり足であり,道具であるに過ぎなかったといえるようです。赤ん坊にとっては母親はいわば神に匹敵します。それどころか,苛立ち易い母親,支配的な母親でさえ,珍しいどころではありません。爆発するのは少年にとっては,勿論恐ろしいことです。辛抱強さや困難に対しての粘りが失われているので  家庭崩壊が生み出す殺人連鎖  戦後六十一年、奇跡の復興を果たし、世界有数の物の豊かさを誇る経済大国となり、一億総中流家庭になった日 本。母親が、赤ん坊に、安心、満足をもたらす役目を持っているのは当然として、何らかの事情で不安感、不満足感を与えてしまうのは避けられません。

そして自我もまたその一つで,自我コンプレックスと呼ばれています。その心の叫びは自然的な合体を求め合うようであり,現実に恋愛関係にある男女において,そういうことが垣間見えているように思われます。それが沈黙のうちに存在する主体の答えです。つまり主観と客観とが総合された世界で,両者は独立して存在することがなく,相互に絶対的依存の関係にあります。しかしそれは間違いであるように思われます。元の同僚達に,「思ったより元気???」とか「綺麗になった???」といわれて悲しかったといいます。  免疫力の低下であるとか、三種混合などの予防接種をしていない年代であるとか、医学的、科学的にはいろいろ 原因があるでしょう。

死刑の宣告を受け入れる心境の一端を語った言葉です。「生きているかぎり無限性を生きる」というのは論理的に矛盾しているように見えますが、矛盾こそが人間の本質であり、可能態としての「生きる無限性」が生み出される理由です。すぐに親を頼り、楽な方ばかりに逃げて
いるから、いつまで経っても結婚生活が安定しないのです。二心を母親が十分に理解すれば,容易には手出しができないはずです。少年にはチックがあります。究極の課題は,「死について希望を見出す」ということになるのかもしれません。ですから死は決意してできるというよりは,回収作業に身を任せるというほうが事実に近いのではないのでしょうか。

 会場内外や別会場では、様々なNGOや科学者がブースや小会場で、活動のPRや報告を熱心に行なっていた。一方,後者の自我も無力であるのは前者とおなじですが,違うのは超自我もまた不在であるかのように未発達でいるらしいということです。主我が客我に支配され、自由が極端に束縛されると、人の目が過剰に気になります。本人の受診以前に,父親が会社の問題でうつ状態となり通院しておりました。学校は友達がたくさんいるし,楽しいそうです。  その時は十分理解できなくても、後から叱られた意味がだんだん理解できたら、親に対する感謝と信頼が生まれ  昔からウソつきは泥棒の始まりといいます。

そのような意味から,見捨てられる恐怖は,幼い子にとっては精神の問題というより全存在に関わる問題なので,親を怒らせないために自我の抑圧機能を活性化させる,強力な意味を持っていると思われます。いわば早すぎた社会性を身につけた子供は,周囲の大人たちの目にはよい子に映る一方で「自己の無力」に苦しむことになる可能性があります。そのような心の転換を生じさせるのが,心理的な治療の目標になります。「私たちはお子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。異常な教育投資のために子供の心が置 き去りになってしまったら本末転倒です。先にも述べましたが,自我領域にはいわば三つの山立場があります。

人ごと ではありません。自然な心でさえいれば,どんな親にでも気がついて訂正する機会はいくらでもあるだろうと思います。その自我の機構の中核的な位置にあるのが自律性であると考えられ,その機能が健全に保たれることが人間的な自由を謳歌する条件です。法規を守って信号で立ち止まるのが,社会的な機能に依ってということになります。それに伴って自他の区別がつかなくなったように,仕事がある妻の心を気遣うこともなく,朝方まで時間かまわず心の内を語りつづけます。  最近は出来ちゃった結婚が流行のように思われ、何かトレンディーのようにもてはやされていますが、ここに大き な落とし穴があります。

しかし人間の赤ん坊であれば,躾が要ります。自立していない自我の下での個人主義は,幼児的自由がまかり通ります。母親が‘全的な存在’ではないのが明らかだからです。 目の前の変化に動揺し、初心を忘れ、進むべき大道を誤り、欲心と慢心に自分を見失うと時代の激流に流されて そうならないめに、しっかりした人生の舵である良き師匠、不断の友利害損得を超越して助言してくれる良き友が必要なのです。この場合は母親の保護を十分に受けられず,最も重要な立場にある母親によって傷つけられ,混乱させられるに等しいことになります。「意に添わぬことを 拝む心が仏様」です。

彼らにとっては,自己自身との関係が最も重要になるので,他者との関係は,それぞれの仕事を通じた間接系になるだろうと思います。愛というものを感じ取ったときに,全能欲求への期待はふくらむと思われます。
 いったい、この国の正義と秩序、至誠と良識はどうなってしまったのだろう。若者の台頭、活躍は大いに結構であるが、ライブドアのホリエモンに象徴される ような過信や慢心の末に、リッチこそ幸せとばかりに、若者を中心としたブランド志向、ベンツ、ベントレーなどの超 高級車やフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーなどのレスカーまでも市中を疾走するようになった。

幼い者の自我がそのような非常手段を取らなければならなかったのは,必ず恐怖と不信が働いたからだろうと思います。とりわけ満たされなかった甘えの欲求が,護ってもらえなかった不満,不信,悲しみ,虚しさ,恐怖などと共に,怒りと一体になって意識下に現に潜在しているものたちのことです。それは母親が,赤ん坊に死の存在を教えないわけにはいかないのとおなじ意味になるのです。いずれにしても、現象的世界の諸問題を合理的に理解しようとすると、人間的な理解の範疇を超えた超現象的世界のことどもが視界に入ってきます。そういう理屈は誰もが知っていますが,実際には,個人のレベルであれ,国家のレベルであれ,強者には弱者を支配する自由があるという暗黙の了解があるかのようです。

その自律性が両親によって護られる必要があります。あるに違いない,あるはずだという要求は,既に半分は疑惑なのです。Iさんの主訴は,パニック発作や人前での異常なほどの緊張でした。母親が愛情の仮面の裏に怒りを潜ませているのと,女児がつけている「お母さんが大好き」という仮面の裏に恐怖と不信とを潜ませているのと,母子それぞれが対をなして,演技的な関係にあると考えられるように思います。どん な苦労をしても目標を達成しようとする気力。人間には社会性と精神性とがあり,それらの根拠が自律機能と抑圧機能とにあり,それらが適正に運用されることで適正な自己の展開が可能となります。

小舟には母親も乗っています。そういう状況では,おなじ寝ているだけの生活にしても,「絵を描けない」という絶望と内向する怒りと共にあることになります。  一体なぜ急に首都圏、都市部の大学生を中心に「はしか」が大流行するのか、教えの真理から考えてみましょう。母親との依存関係が殊更に強かったBさんにとって,「縁を切る」というのはいかに困難な課題だったか察するに余りあります。  どんなことでも、「天知る、地知る、我が身知る」ということが解っていないのでしょう。 常住此説法じょうじゅうしせっぽう
 仏は常にここ私たちのすくそばにいて私たちが良くなるように幸せになるようにと教えを説いてくれているので
す。

一般に,つよい感情を潜在させてしまっている抑圧する自我は,特定の人や物へのしがみつき的な依存が強くなっています。個々人の真に個性的な達成などというものは,もし分かる者があるとすれば本人以外にはあり得ません。そういうことを必要としたこと自体が,既に問題を明らかにしているのだが,やがて,母親を支配し切れないことが明白になった。ちよっとした意見の食い違いや夫婦喧嘩をしたぐらいですぐに実家に行き、?挙句は何日も泊まってくる。無心に遊びに没頭しながらも,母親にその喜びを共有してもらうことが意味を持ちます。運動よりも塾や受験勉強にエネ ルギーを使いすぎると、かえって受験に失敗したり、合格した後の学校生活に息切れしてしまいます。

世の中はすべてが繋がっており、大調和の中で保たれていることを教えています。  子供は誉めて育てるのが原則です。  最近はマンションや建売住宅から仏壇や神棚が消えてしまった。たとえ退屈であっても,なじみの深い日常はこうした得体の知れない不安から身を守ってくれるので,贅沢なことはいえないのです。
 おんぶされた赤ちゃんは全身でお母さんの背中のぬくもりを感じ、安心して身を任せる最高のスキンシップです。一所懸命に赤ん坊に愛情を注ぎ,可能なかぎり赤ん坊を怯えから護り切りたいと願うと思います。そしてその代償をも背負わされることになったのです。このようによい子というのは,見方を変えれば,情緒的な満足を断念した子ということになります。

赤ん坊は人間として生を受けたときに,死を垣間見て怯える者でもあらざるを得ません。先の比喩でいえば,自我は小舟の船長です。その難問の前に生きる希望を見出せないでいるのはもっともであるとしても,「立ちはだかる目前の絶壁」を登らないわけにはいかないのが人生です。その対比でいえば,人生の高山には限りがありません。余分なアイドリングはしない。そしてこの上位者は心の無意識界に鎮座内在する主体して,沈黙のうちに自我の活躍ぶりを注視していると考えられます。この機能が活発なときは,内在する主体との関係がしっかりしているので,自分の価値を信じることができています。

他人の’要らぬ節介’は避け難い問題です。  先日、車を運転していたら、前を走るセルシオの運手席から火のついたままのタバコの吸殻が投げ捨てられた。自我に拠らない人間の上位者が,自我に拠る人間に向けて立てた問いが,人間の眼には先に上げた究極の矛盾のようなものに映るといえるのでしょう。更に別ないい方をすれば,いうならば一者の世界のものが,既にそうではない世界のものに変貌を遂げようとしている,ということもできそうです母子の一体化現象と呼ぶとき,あるいは絶対的依存というとき,そこには両者の分離が内包されています。子供の場合,遊びを楽しむことが大変重要です。

ですから,たとえ嫌人癖が甚だしく,人里はなれて孤独に生活する人であっても,他者との関係から無縁になることはできません。かつての 土地神話、経済神話と同じように「教育投資」さえしておけば、子供は幸福になると信じ込み、幼稚園や小学校のう ちから、二つも三も塾に通わせ、子供の意思に関係なく習い事やけいこ事をさせる「教育神話」が過熱しています。いずれにしても主我によって抑圧された生命たちは、A層に終結します。ごちそうさま」など何のためにやるのか必要ない。 このアンバランスな教育の現状や教育者の姿勢が、子供たちのストレスや不安を作り出し、悲惨で残酷ないじめや不登校の温床になっているのではないでしょか? 今こそ、知識の教育から知恵の教育への大転換が必要です。

いずれにせよ,自分の存在を大いに喜んでくれる他者なる母親の存在は,心の成長のためには不可欠です。とりあえずの 生活費を稼ぐためにパートやアルバイトをしましたが、なかなか長続きしませんでした。  知識や学問とバランスの取れた心を育てるために躾、愛情、家族の触れ合いという手間暇をしっかりかけましょう。そして赤ん坊にして,全生命の要求が,はからずも死の恐怖を否定し得ない現実によって打ち砕かれたときに,生と死とを本能的な知恵によって止揚しなければならなくなるのです。しかし,よい子路線を取る少年の自我は,親に見捨てられる恐怖がもともと強かったと思われます。

個々人の自我は,幼い子が母親の自我に依存するように依存しているのです。コントロールが出来ないのです。小舟には他にも同船者がいますが,それらは常に姿が視界にあるわけではありません。???人間の意識が自らをこの原深淵の子とみなすのは正しい。スポーツ選手の新記録は,身体を極限まで鍛え上げる身体を壊しかねないことなしには得られません。  ⑤危険なことをした時  私たちの生命は、直接は親から大きく言えば仏様大自然から頂いた大切な生命であり、自分だけのものではな  い。楽をしに、愚痴をこぼしに帰る場所ではありません。愛は少々のことは許すということも含んでいます。

そういう関係状況では,新たに不満が生じると,激しい怒りを向けるか,恐怖によって沈黙するかになりがちだろうと思います,それを受けて,母親の方が力で対抗したり,無関心になったり,悪循環に陥る可能性を否定できません。つまり自我が母親の自我に傀儡化するようにして自律機能を抑え,抑圧機能を働かせることに伴って,自我に受け入れを拒否された諸欲求が,生命感情を育成するはずだったエネルギーを,怒りのエネルギーに転換させたといえるのです。
「平素から神仏やご先祖に手を合わせ、面々と続く命の流れ、目に見えない力『お陰』に感謝できる人は、多くのお
陰に守られて少々の失敗や挫折ですぐにあきらめたり自殺ししない。

真の芸術家は,世に受け入れられなくても,集合的他者にではなく,幼児のように自己の内発性による自己表現にこだわるので,孤独の中でも自己を追求しつづけるのです。自由とは,自我に拠る自由と考えてよいと思います。絶対的な上位者に護られていたいということは,言葉を換えれば甘えたいということになります。親の価値観で辞めさせない。このような局面では,治療者も困難な立場に立たされます。それは,そのまま自己の喪失,人生の形成の失敗という意味があるからでもあると思います。意識的には母親は,赤ん坊に死の存在を理解させようなどとは夢にも思わないでしょう。

小舟の運命は,船長にかかっています。ですからきょうだいの中でも,自分が第一等でなければならないのです。  オリンピックのメダルは、他の世界大会のメダルとは違うと言われます。Aは不快感を味わいます。成人においては,阿吽の呼吸とか,腹を探るとか,勘で分かるなどというように,人の心を直感で察することは可能であるにしても,乳幼児のように扱えば,ふつうは余計なお節介ということになります。そういう心の状況であれば,日常の生活の諸々のストレスに対応が難しい上に,内側無意識にも意識を脅かす勢力を持つことになるのです。 マニュアルを守るがために相手に不快な感じを与えたり、怒らせてしまっては本末顛倒です。

それは光もなく,従って闇もない世界です。それが精神と身体の未分化な純粋主観の世界と,機能開始以前の自我機構とを養っている。無意識の領域から生まれてきた分身たちが,自我に受け入れを拒否される母親への怖れ,気兼ねなどからことに伴って,寂しさ,悲しさ,虚しさ,怒り,恨みなどと共に,裏の人格を形成していくことになるのです。 ?脳の発達と心の発達に欠かせないのが笑いです。いずれにしても相手母親を完璧に支配しないかぎり,真の安心はありません。この人は本当に自分を守る力を持っているのか,持っているとしても,自分にその力を与える気があるのかといった猜疑や疑惑の認識ではなく感じ取る虜になるときに,乳児の全能欲求が反転して,母親は悪いものをもたらす張本人に見え,欲求が満たされたときには,母親は願わしいものを具現する者になって見えるようです。

「社会は家庭の延長」といいますが、まさに家庭教育の根底から立て直す時です。どこかミイラ取りがミイラになってしまった趣です。それは死の恐怖につながります。生と死と,二極に分化した世界を生きるのが人間の宿命です。愛情の親密な関係で結ばれた他者があれば,日常はどんなに救われ,励まされることでしょう。そうすると子供らしく甘える心は,抑圧されつつ成長していくことになります。その他者は,よい乳房とわるい乳房の提供者です。人間は自我に拠るものです。事故で視力を失った人が不幸であるかどうかは,その事実を受け止めることができるかどうかにかかっています。

しかし、その家庭教育が、塾へ行ったり、幼児に英語を習わしたり、様々な習い事をさせ
て、スキルを身につけさせることと勘違いしている親が多い。このごろ,「なんでもお母さんには話をしてね」という母親の願いに応えてくれないことが多くなりました。 本末転倒であり、一体誰が子供をしつけ、社会人としての基本的生活習慣を身につけさせるのでしょうか?女性の地位向上、労働に対する公平性は大切ですが、子育てとぬくもりある家庭作りはお金儲け以上に大切です。この親は何でもお金で買えると思っていたのだ、宗教さえも! 子供の叫びは「家には何でもあるが、心がない」 お金で買えない真心や触れ合い、やさしさや思いやり、本気で心配し、本気で注意してくれる親子のつながり、ぬくもりが欲しいと言いたかったのだろう。

 会合のお世話をしてくれた元芸妓のお上が寂しそうに語った。
 勤勉努力の日本人は、戦後の物不足の貧困から立ち上がって奇跡の復活を成し遂げて来たが、その弊害として
物があることが幸福のバロメーターとなり、本当に生活に困ってではなく、よりリッチな生活をするために、3才にも満
たない乳幼児を保育園や幼稚園に預け、パートに行く母親が急増しています。自我がよほどしっかりしていないと,集団から離れて暮らすのは,やはり危険です。赤ん坊はどうしてもそのことに気づく必要があります。両親は,C女を可愛がることのどこがいけないのかと,Bさんの不満,疑問を理解せず,受けつけません。

Yさん自身は,長女が発病したころに気分が不安定になり,通院が開始されました。一部は母親が可哀想だからです。抑圧されたその生命は、怒りと共にA層に留まります。
 「昔は、毎日全国各地から観光客が訪れたいそうな賑わいで、次から次へと新しいホテルや旅館が出来ました。満足感と安心感とは一体のものです。違っていれば幸いです。人間は生の極と全的な結合をすることは決してありませんが,死の極への全的な結合は,必ず起こるのです。Sさんはうなずいていました。いわば生死をかけた戦いといえますが,死の世界に引きずられかけているといっても過言ではありません。

最近良く交通事故で車に轢かれた無残な姿が目に付きます。人間の意識は有限のものです。 過去二度の逮捕では、息子を更正させることを堅く誓い「人生をかけて原因を究明する」と約束した。しかしその父親を取り込み内在化しているのは,父親に対抗する力がない自我が,取り入る道を選んだということだと思います。自我が健全な状況にあれば、改めてB層から新たな生命が送り出されてくるので、自我はそれを受け止めて新たな志向対象へ向かうことになります。それは甘える欲求を満たしてくれる母親その人によって惹き起こされるのです。幼児心性とは,ごく幼いころに,母親への恐怖心から自我が護れなかった欲求たちです。

読者皆様のご理解とご協力を頂き、安全安心な世界をつくり大切に後世に引き継いでいきましょう!自動販売機では感動は起こらない 現代はマニュアル時代です。自我はそういう性格のものです。そして,それらの苦しみを招いてしまうのが自我であれば,改めてそこから脱出して自己を回復させるのも自我です。A君が望む’真の友達’とは,「揺るぎのない心の支えになってくれる友人」,といったもののように思われます。解き得ない矛盾に見えるからこそ,人に与えられた可能性は無限なのです。だから働くという実感が自然と身についたが、今は第二次産業のサラリーマンがほとんどである。

集諦 ③苦の原因が明らかになれば、消滅させる方法がはっきりする。何らかの不快感にとらわれているときに示す激しい怒りの表出から、赤ん坊が母親を支配しようとしている様子が窺えます。反面、下流においては地味が肥え、また、災害を乗り越える知恵が増えるのです。人間関係に疲れ果てるAさんは,かつては職場に向かうのが容易なことではありませんでした。自己と他者が合体して完全になるのが,自然的完全を志向する人間の理念といえるようです。また,この自由の自我の活況如何が,自己感を表すと考えられるように思われます。薬が奏効したこともあり,危機を乗り越えることができました。

 それがディズニーランドのビジネスの原点だそうです。  ?朝食を食べない子供欠食児孤食一人だけで食べるの子供が増えています。一つでもいいからやれる方法を探すことが問題打開の糸口になります。それは人間以前だった全的な存在から,人間という不完全な存在への移行に伴う恐怖と驚愕と怒りをまじえた希求,というふうに考えることも可能ではないかと思います。コンビニで買ったスナック菓子やテレビゲームは揃っているが人気のない家に帰ってくる子供の心の中に「寂しさという空洞」が開いてしまって、様々な事件や問題が起こっているのです。
 ④社会貢献奉仕家庭や会社が食うため、儲けるためだけに働くなら、虫けらや動物と変わらない。

数え上げれば切がない。いままで母親がいう通りに小舟を操ってきました。無意識層からには違いありませんが、それは、心の内部にあって我われには理解し得ないところから、という意味になります。無意識にある満たされなかった情緒的諸欲求が自我を支配して,我が子の甘えを拒否するように,怒りをこめて要求するのでしょう。そのかぎりでは人間の力の源泉が主体にあり,かつ無限な可能性が秘められているともいえるように思われます。  神が隠れ、仏が消えてしまった日本  日本の常識は世界の非常識といわれて久しいが、無宗教や無神論がさも強い人間であり、自立した一人前の人 間としてまかり通っているのは日本ぐらいです。

更にいえば,怒れる川が勢いを増している心の状況では,自我は,その流れの始原にある見捨てられる恐怖と潜在する怒りに怯えた記憶を蘇えさせたように,凝結してしまう傾向を持つようです。小学校の一年生が交差点で信号を待っているとき,幼児が車道に入ったとします。母親が自分を捨てて,どこかへ行ってしまうという類の恐れは,意識上はありません。人は単に優しくあることはできません。正しい考え方や社会的マナーは、学歴以上になおざりに出来ない幸せな人生を築くための最小限の 基礎です。  子供たちは母親の愛情、親子の触れ合い、家族の絆が欲しいのです。夫も妻が実家に帰ってしまったら、不自由だからといって、のこのこと自分の実家に世
話になってくる。

親の自我に迎合しなければ,存在そのものが危うく感じられるのです。  自分が幸せであると同時に、他の人たちもすべて幸せであることが、自分の幸せを保つために不可欠なことなの  心が変われば、現実が変わる!  すべてはわが心にあり  苦しさの中に飛躍のヒントがある  シングルマザーで看護士の勉強に励んでいる若いお母さんからご相談です。繰り返し述べていることですが,人間の証明は自我にあります。それは内在する主体が送り出してくる,いわば神の子と考えることができます。鬼検事ですから,攻撃性が強く,怒りのエネルギーを強力に蓄えています。

社会との関わりを持つのは表の自我の役目なので,衰退した自我は相対的に勢力を強めている裏の自我の傀儡と化し易くなります。内在する父親に依存し,Yさん自身の自由意志が不在であるかぎりは,心が晴れる日がないのは,当然といえば当然です。つまり未熟な自我は,母親のそれに依存して補強してもらう必要があります。自然から乖離されて,人間として人生を旅する第一歩が,どれほど不安に満ちたものか,いうまでもないことです。  「母の愛は海より深し」といわれるように子を思う母の強い愛情、母の言葉や行動に触れて子供たちは人格を形 成し、人生の基礎を確立していくのです。

しかし,認め難い問題に直面することはあります。天変地異でもなければ、経済破綻によってでもない。すなわち吸った息を吐く力が無くなったとき人は死ぬのです。表の自我は生を志向し,裏の自我は死を志向すると先に述べました。対象となるものが人の場合は、欲動は愛という性状になります。つまり多かれ少なかれ,意志的な心の仕事には苦痛が伴います。 果ては親夫婦も離婚し親の横糸も切れ、シングル?マザー、シングル?ファーザーで寂しく育つ子供も急増しています。ゲートを入った所で渡されたマップを見ると、ここにお子様ランチがあると書いてあったので、娘との思い出にお子様ランチを食べようと思いました」そう言って夫婦は目を伏せました。

そして’真の芸術家’には,幼稚園児のように作品に優劣はなく,それぞれのものがあることになります一般的には,それぞれの人生はそれぞれのものというほどに個性的,独創的ではありません。 どれだけ頑張っても成功しない人、いつまで経っても不幸な人は、途中で諦めてしまうのです。2050年までに人間以外の1000万種の生物が絶滅し生態系が大きく崩れる。求めて求めて求め続けて、やっと大望の娘が産まれました。夫婦あっての子供です。Yさんの一人娘も,中学生のころに幻覚,妄想状態となりました。自由の機能が活発であるときは,内在する自我との関係が望ましい状況にあり,自我は与えられているエネルギーを十分に駆使することができます。

Bさんは自分自身の自由を護らなければなりません。Sさんが,父親が乱暴にドアを叩き続けている,といった内容の夢を見ました。治療者が思わぬ怒りを向けられてあわてるとすれば,治療者は怒りの犠牲になるかもしれません。人間は自然から生まれ,自然に即することを最善とするものであるように見えます。あるのはリュックサック方式のものだそうですが、便利そうで
実はおんぶ紐よりも肩がこるのだそうです。少年が求めているのは,分け隔てのない安定した愛情です。自我が自己を導く道筋を,主体は沈黙の内に指し示している。関所がまったく封鎖されることはないでしょう。

いつまでも親におんぶに抱っこで はいられない。これらの恐怖は,母子分離の恐怖でもあります。初めのうちは母親は怒っていました。心の指導者が,他者から自己自身へと移行する過程では反抗は必至であり,なくてはならないものです。長じてなおこの幻想の支配を受けている自我は,個の確立が不確かであることになります。それが人間です。20代のある女性は,一人でいる時の不安,恐怖が著しく,その心の様子を,「幼いままの自分が,まるで一人で荒野に取り残されている感じ???」と表現しております。 この温泉街だけの問題ではありません。それは自我を持つものと,持たざるものとの違いのようです。

お互いの非を責め、恨み、罵り合い、挙句の果ては調停や裁判と言うお恥ずかしい 方法で別れていては、その切り口はノコギリで切ったようにゴデゴテで切り口は治りにくく、いつまでも疼うずき、そ こから腐っていくのです。この夢について,本人の連想から次のような意味が汲み取れました。その子に合ったその子にふさわしい人生を歩んでいくための教育こそが本 当に生きた教育なのです。  仕事やお金が優先して、日常の小さな手間隙、愛情が欠けて育った子供は、人から尊敬されたり、大切にされた り、大切にされる徳のある子にはなりにくいのです。幼いあいだは、心がおもむくままに「お絵描き」を楽しみます。

この過程で重要なのは,境界機能です。そして実際に母親が,服薬を快く思っていないとつけ加えました。この問題を,自我に内属する理性の支配下に置くことは不可能です。唯一の同胞である姉は,対照的に,自分で考えて行動する性格ということです。しかし、現代
と昔では子を捨てる家庭事情と親の心情に大きな違いがあるのではなかろうか?
 現在の日本で子供を捨てなくてはならないほどの極貧の家庭があるだろうか? 経済が貧しいのではなく、心が
貧しくなってきているのです。それで養子C女をもらうことになりました。A君は,他人に対して過敏です。???世界が保護し,養うのであって,彼?人間が意志し,行為することはほんの稀にしかない。

女子大生のIさんが,次のような夢を報告してくれました。 「あなたたちは、実家に行き過ぎです。一方で,’ふつうの’服装をしていると,人の目が気になります。毎日、日本のどこかで1分30秒に一組が結婚し、2分に一組が離婚して いるのです。自由の精神とは,自分自身の自由のみならず,あれこれの他者の存在をそれぞれの個として,それぞれに自由であると尊重することができているときに可能です。また,その怖れは母親に向けられた無意識的怒りへのものであったかもしれません。支配し切れない以上,母親は相対的依存の対象に過ぎない。それで十分だともいえるのかもしれません。

 「教育」とは、孝を実践する文人間を育てることです。心理的なエネルギーの源泉は,所在不明です。そういう状況では,生真面目な性格の人は,’完璧’であろうとする以外にないという心理状況に陥りかねません。拡大視すれば,そこには死の影が漂っているといえるように思います。内在化された集合的他者の下に成功した人は,仲間同士の語らいで時を忘れることができます。しかし裏の自我の営為であれば,単なるうっぷん晴らしの域を出ず,表の自我の無力が浮き彫りになるばかりです。だからこそペットなのです。その自我を授与する力を持ったものが上位者なる母です。

近くに80代の母親,妹,二児の親である別居中の一人娘がそれぞれ住んでおります。すべてがサラリーマンになってしまったら、農業、漁業、林業という第一次産業が疲弊し国は滅んでしま 大学に入ることが目的になってしまい、とにかく大学に行くことがいい事?という間違った価値観を変えなければいけません。  ペットの犬でも、飼い主からいつも温かい声がけをしてもらい、優しくお腹をさすってもらえるスキンシップに「ここが 安住の地」と安心したら無駄吠えがなくなるそうです。一方,A君は,得体の知れないことに悩まされているのを察してほしいと思っているのでしょう。

夫の診療が終結した後に,その妻が,「実は???」と長男の相談に訪れたのですが,彼女は自分の対応がまずいのではないかと気にしておりました。現在の辛い状況は誰かのせいという被害的気分の中にいることにもなり,当てに出来ない何者かを当てにしつづけることになります。目的と結果だけで中味が抜けている。そしてそれが果たされたときに,人間存在として自立する第一歩を踏み出す基礎を得ることができます。そこでは全てが思い通りに運ばれなければならないのです。その独自の人生行路を歩もうとすれば,どうしても孤独であることを免れないでしょうし,それを引き受ける覚悟,勇気,自分自身を信じる強い力などを必要とするでしょう。

夕食のおかずを持っていっても受け取ってくれず,持ち帰ることもしばしばです。 夫婦は子供を連れていません。言葉を変えると,この素朴な自己表現は,自我の自律機能によって促されたものであると考えることができます。「腕に目立っている傷痕は,人に見られるのが嬉しいと思う,何故か隠そうとするより誇りたい気分???」ともいいます。「私は甘え方を知らないのかしら???確かに強がって甘えたりしないと思うけど???」といいます。薬はやめるべきだということ,一度決めたことはまっとうしたいということは,母親への同一化を示しているようです。しかし,それが人間の模範的なあり方かといえば,それは疑問です。

それで病院で相談したときにもらった安定剤を利用してみました。自我が生まれてきたエネルギーを護り切れるとき,興奮に満ちた歓喜が起こるでしょう。しだいに優勢になっていく死の無化作用は,自我の回収作業ともいえ,自我自身は従容として身を任せるしかありません。発病は結婚後のことです。そのために,確かに経験したはずのことが夢のようにも思われたりします。心の内界にも同様の無限の属性を持つ無意識界があり,これも外界の自然と一体のものと考えて然るべきです。  もう一つは、親との別居です。内在する主体は、心全体の主宰者です。「自我に拠って思うように生きてみよ」と。

 成績の悪い子供、親に反抗する子供、横着な子供、勉強しない子供にも良い所はきっとあります。それは自我の自律性の回復をも意味します。生の欲動というのは無目的に無闇に何らかの欲動が生起してくるというものではなく,一定の方向性があると考えるのが合理的です。それによって,主観的ー客観的な世界の演出が可能となる。しかし、いまさらサラリーマン社会を無くすわけにいかない。つまり、よく笑う人は病気になりにくく、あまり笑わない人、よく怒る人は病気になりやすいのです。電車に乗って遠くまで逃げたそうです。まさに??? Simple is Beautifulです。

人生を創造し,人生の大問題に取り組むことになるのは,’元気な子’たちに疎外され,辛い時代を過ごした子供たちであるように思われます。これは他人の眼を過度に気にする基となるものです。 自分の存在のよりどころである過去の記憶と将来の夢や希望が毎日一ページずつ白紙になっていき、最後はすべ てが白紙になってしまう。その結果、就職しても長く続かず転職を繰り返したり、気ままな恋愛結婚の末にすぐ
離婚など、我がまま放題、吸う息だけで呼吸困難になっている若者も実に多い。
目の前の問題を困ったことだと否定したり拒否しているうちは、仏の救いは現れてきません。

無意識の上層部は,人為的な手が加わることによって混乱させられた自然界であるといえるかと思います。しかし自我との接触が図られないままでいると,それらのコンプレックスは,さまざまに負の力を現すことになります。このように,自我のような,そもそもの存在根拠を,人間的な理性の及ばないところに求めるしかないものは,その実体性においてあいまい極まりないものです。幼い子の甘えが母親の怒りを誘うのは,どういうときでしょうか?母親が情緒的に満たされているときに,幼い子の甘えに不快感を持つということはなさそうに思います。それは必ずよくない依存です。この万能感を具体的に保証する役割を担うのが母親です。

何が不満だ!} 少年は声を荒げて叫んだ。しかし、改めて母親の意向を客我の意向と連動させてその意義を認めなおすと、「勉強をする」ことは、新たに主我が引き受けたことになり、自分自身の問題とすることができます。科学者が待望の発見を目の当たりにしたとき,芸術家が霊感に触れたとき,競技者が力を出し切ったとき,恋する男女が恋を交わすときなどがそれに当たると思われます。それをどこに求めるかが問われます。つまり生と死は,生命体にはすべて起こることですが,中でも自我を持つ人間の特徴は,単に生物学的に生と死があるのにとどまらず,精神的な意味をも併せ持つというところにあります。

それらが見捨てられる恐怖の母体となるのだと想像されます。Bさんは,可愛がるだけではいけないと思っているので厳しくもします。 《教育再生-いじめ緊急報告》が通達された。たぶん,そうは思わないでしょう。仕事で無理を重ねて心の病気になるのは,日ごとの仕事が自我に活力を与える自我が引き受けているかぎり満足感が得られますよりは,自我が受け入れ難く感じている度合いが甚だしいということになります。それはユングのいう普遍的無意識の世界ともいえるかもしれません。このように他者の介入によって,自我の主導性を損ねてしまう危険があります。この内的な他者も自我の構成員ですが、その指導を受け、かつ受けた指導を再構成しておのれ自身のものとする構成員もあり、こちらがいわば真の指導者の立場にあります。

その場合は、社会性が怪しいものになり、場当たり的な行動を繰り返すことになるかもしれません。それは同時に,主体との関係がほぼ断たれたことを意味すると思います。あからさまに,あるいは暗黙のうちに,子供を従えてしまうのです。  ⑤完成したら神仏しご先祖をお祀りする。絶対的というものではなくても,自分を護る力を持っていることを理解し,許容する気になれるときに,心が落ち着いていくと思います。その年頃らしい可愛さも持っています。子供や若
者たちは国旗や国家を尊ぶことは法律に違反する悪いことなんだと誤解してしまう。  地位や学歴のあるエリートがなぜ軌道を外れていくのでしょうか?   みんな欲間違い、自分だけが儲かればよい、お金さえあれば幸せであり、お金があればなんでも自由になるという 錯覚に陥っているのでしょう。

見捨てられる恐怖は、心のさまざまな病気を招く諸悪の根源であるといういい方をしましたが、その恐怖の存在自体が問題なのではなく、それが過度にわたるときの話です。人前での過度の緊張、過度な明るいふるまい無意識界にある恐怖、孤独感などを隠すふるまいです、過食、拒食、買い物、アルコール、ギャンブル、自傷、盗み、等々の依存症などなどをはじめ、すべての精神疾患の根底に、見捨てられる恐怖が潜んでいます。
出来事のすべては、自分の間違いや至らなさを教えてくれる「仏の慈悲であり、宇宙の救いの現れ」なのです。親と子は強い関係としてあるので,一方の幸福は他方の幸福です,一方の不幸は他方の不幸です。

それで母親が眠っているときに,母親にいわれたことを無視して自分流にやってみることにしました。事後の対策ばかりに目が向けられ ていますが、それよりも事件が起こらない社会作り、事件に巻き込まれないための事前の対策が大切です。つまり,この世的な達成を志向する。今こそ ライスタイルを考え直す時が来ているのです。いかに生きるかという以前に,ともかくも生きようとするのが自然ともいえるでしょう。だから子供は小さな時は怯え、成長すれば親に対する信頼と尊敬を失います。その歪んだ人間生活への警鐘とし て、得体の知れない新しい病気がどんどん現れるのです。

 学歴主義から実力主義の時代になったといわれていますが、教育現場は受験教育、点数主義、進学名門校の誉れという呪縛から開放されていなかった。裏の自我は,既に証明されている脳中枢にある怒りの座に,一つの根拠を持つだろうと推測されます。それができるためには,患者さんの側の’求める心’がそれなりに強くなければなりません。子供のころに親にされたことを,無意識のうちに取り込んで性格の一部にしてしまうのが人間です。しかし内心では何を望んでいるか,Iさんにはよく分かるような気がするのです。人事ではありません。実に二分に1組、一日に740組
が離婚しているのです。

いわば’人生に遭難しない’ために,幼いころに母親を中心とした近親者たちから,豊かな愛情を与えられることが望ましいのですが,それは一面では,’集団への依存’という日常のぬくもりの中に人を安住させがちです。闇に怯える赤ん坊の心の光を支え,育てる唯一最大のものは,母親の愛です。それに異論はありません。それに伴って,幼いとはいえ心の形態は既に備わっている赤ん坊は,襲い掛かる脅威に対抗するために母親の自我にとりすがるという原初の対人駆け引きを行い,かつ心を抑圧するという防衛手段を講じるだろうと思われます。アルコールを飲みつづけることで心も身体も蝕まれていくので矛盾しているようですけれど,いずれにしてもいわば死の影に捉えられている心的状況でのことで,身体が緩徐に蝕まれて受動的に死を向かえるのは仕方がないと思うのかもしれません。

しかしそれが仇となって,著しく退行的いわゆる幼児がえりになる時期がありました。計画し、提案することは、大きなエネルギーが要るので
す。そして意識の地下に葬られているものたちは,怒りによって地下に繋ぎとめられているといえます。人力や科学の及ばない大
宇宙の大いなる存在、サムシング?グレイトを信じ理解している。しかし内心では強く疑っているのです。人生がどれほど過酷なものであるか,たとえばソクラテスが次のような趣旨で述べています。生きるエネルギーにあふれている子に,死の北風に震えている仲間への同情を要求するのは,一般に無理なことだろうと思います。

あるはずのもの,持っているはずのもの,それらが与えられていないという不安,不満,苛立ち,怒りをもって母親に要求するこれらの疑惑,不満足は,長じて,自分は愛されていない,愛される価値がない等々の自己否定感の源泉になりますことが,即ち支配欲求です。そのような事情から,幼い子の自己形成は,主体による第一の命題自由に生きるから大いに遠ざけられることにならざるを得ません。’よい子’が母親に向ける怒りは,悪しき依存の枠の中にいる衰退した自我が,怒りを強めている裏の自我の支配を受けてのことです。心が健康であれば,社会的人格がしっかりと確立されているので,その人格の別称ともいえる表舞台が安定した活況を保っています。

しかし抑圧であるからには自我が関与し,抑圧されたものは無意識界にエネルギーを抱えたままいつまでも留まることになります。もしかすると,その他に,両親の心にも整形を加えたいという隠れた願いがあるのかもしれません。そこには,死の脅威無意識的なに対抗する愛の同盟という趣があり,そのかぎりでは自分たちの’健全な’市民感覚にほとんど疑問を持たないのです。そのようなことが可能であるのは,その存在構造に内なる他者が構造的に含まれているからであろうと想定されます。つまり,よりよく自分自身でありつつあるとき,生は大きく途を開けてくれますが,自己ならざる自己に迷い込んでしまうと,死が手招きしはじめるのです。

それは最終的な生と死の合一に向かっての回収作業といえるのでしょう。  お互いの不満と不満のぶつかり合いとなってしまい、幼い子供や多感な思春期の子供たちの気持ちが置き去りに され、子供たちが犠牲になり心が傷ついているのです。それは甘えを通じた母と子の関係が望ましいものではなかったことを意味するでしょう。それは母親から侵入されてきた養育過程と,それに対抗するだけの自由な自我が育っていないこと,境界機能が不十分であることを意味していると思います。いわば理論的推測ということになります。自我の検閲が厳しくなるときは,自我が何らかの脅威を受けているときでしょう。

それは全であり,かつ無でもある世界です。医者や家族は、母親がショックを受けるといけないから、数週間たってから恐る恐る母と子の対面をさせたのだそうです。境界を甚だしく無視して子の心の領域に侵入する親の養育を受けた子は,親への甚だしい依存を手放すことができません。「私はなんで生まれたの?なぜ私を生んだの?」という疑問に応えるのが親の義務といえるでしょう。前者は,「自我に拠って自由に自己を導くように」という意向を示し,内在する主体として,無意識的な心の世界で沈黙のうちに自我の営みを見守っていると考えられます。そして正を生み出そうとする自我の仕事の背後に,負の遺産がいわば量産されていきます。

’集団の中にいる仕合せ’といったものは,大多数の者が理想とするものだと思います。主体との関係を見失うのは,他者の介入による自我の不始末といえる側面があります。不登校の子を持つある母親は,母親自身の子供時代の親子関係の反映もあって,子供に支配的,浸入的な育児をしてきました。前者の自我はこの恐怖を克服する術がなく,一途に抑圧したと仮定されます。そういうことがないように,日常の生活行動は,組織的,自動的に行われるのが望ましいのです。人間の価値の基準は簡単にいえるものではありません。そして普遍的無意識の存在は,人間が超人間的である自然に内包された存在であること,人間の存在由来をそれぞれの自己の心の内部に抱え持っていること,を暗黙の内に示していると考えることができます。

その様子から,母親への日ごろの怒りは,Aさんが母親に認められたい,愛されたい心と裏腹の関係にあるのが分かります。  子育ての表舞台は、母と子のしっかりとした関係です。それができないのは悪い子なのです。大型スーパーや大型郊外店が進出して旧商
店街が寂れたり、メインストリートの老舗デパートが撤退したり、町興しに苦心惨憺している自治体も数多くあります。自我が未熟な赤ん坊は,自分から「よい乳房」を獲りに行くことができません。子供はその母親の指導を受けなければならず,現に指導のまずさが,大きな怒りを蓄積させ,恐怖の虜にさせてしまっているのが問題なのです。

乳幼児の幼い自我が,無意識界から送り出されてくる諸欲求を護るためには,母親との関係を抜きにしては考えられません。  忍び寄る恐怖、若年認知症!で「若年認知症の原因は、自分だけの幸せを願い、人の世話にもならないが、人 のことにも関わりたくないという、自己中心的な考え方にあります」という記事を掲載したところ、色々なご意見やご 報告、ご質問を頂きました。つまり自我は自然に内属しながら,自然そのものではなくなったものという性格を持っています。それでも親に聞くことを嫌い、 地域の子育て支援センターやサークルに通うヤンママ! 実力不足、経験不足から自信を失い、育児放棄、育児 ノイローゼとなり、感情の爆発として虐待が始まるのです。

小学生の1や2は先生だけではなく親
 塾任せ、学校任せの自動販売機的子育てでは、本当のいい子は育ちません。 一人ひとりの従業員、キャストに会社のポリシー、オーナーの願いや考え方がしっかりと浸透していなければ、アルバイトの即断でこのような行動はできません。十五分に一人が日本のどこかで自ら尊い命を絶ったことになります。  ②奈良の家族三人放火殺人事件では、医者を目指す成績優秀、スポーツ万能の理想の優等生?が二階で寝 ている義母とその幼い弟妹を焼死させた。名泉百選にも名を連ねる県下有数の温泉街です。自我が未熟すぎて,責任の取りようがない時代の話におよぶものがあるからです。

そしてその疑惑の一部は,母親が持っているはずなのにくれようとしないというものでもあるだろうと思われます。ところで,それぞれの私の母親はだれでしょうか?それぞれの私を生み落としたのは,それぞれの母親,というよりは,父親との合作によってであるとひとまずはいえます。その両者は、それぞれが別なものではなく、共にあるものです。そしてそのときに限定的であった自己ならびにその世界は,無限の中に溶出します。子 供は親の後姿を見て育つのです。それはもしかすると,周囲の大人たちに,「よくできたお子さん」と見られるかもしれません。  ニートと呼ばれる働く目的や活力のない若者が急増しています。

過度によい子と,非社会的,ないしは反社会的な行動を取る子とは,対照的な心の病理現象と考えることができます。甘える欲求は生の方向での源流を形成するといえるようです。その依存の手を放すと,死の世界にまっさかさまという恐怖が支配しています。自我は生を展開する首座にありますが、生はその裏面に死を併せ持つことによって存在可能です。その保護者が、加害者になってしまう。平素はつながっていないように見えても、お互いさまお陰さまの関係で支えられているという真実があるのです。うまくいかなくて爆発しそう。不自惜身命が辛いうちは仏は見えてきません。しかしそのことに疑問があるので,繰り返し母親を支配しようと試みる必要があった。

現象的世界にあって,諸現象を二つに分割して捉える自己と他者,男と女,善と悪,愛と憎しみ等々は,相互に他を不可欠のものとしていますのが自我の特徴です。相手は自分の主張を繰り返し,私はむきになって否定する。真生会とWCRP開発環境委員会は、「緑の宗教協力」Green ?Rinkの輪を広げ、緑豊かな地球と潤いのある豊かな心の人づくりに頑張っていきます。塾にもたくさん行かせてやった。そして内発的な欲求は,内在する主体と関係があると思われます。そのとき騎手は馬の力を巧みに引き出して,いわば人馬一体の状況にあるといえます。人間は生きながらにして,死を併せ持っているといえます。

これらのことは,あらゆる乳児に起こる心的過程だろうと思います。  ?妊娠中は人格の土台作り、より良い環境で胎内教育をする。また,自分を慈しみ,大切に思っていてくれる他者なる母親に,感謝と共に愛情のお返しができるようになるのです。しかしそれは不安に満ちたことでもあり,半信半疑でだろうと思います。 要はいかに時代の流れを正しく見抜き、その本流にどう乗るかが大切です。言葉を換えれば,心の成長過程で克服していなければならない心性です。そのように,「かくあらねばならない」という精神から,「何が出来るか」という精神に移行していくこと,強いられた精神から自ら意志する精神へと換えていくことができれば,徐々に自分らしい生活が見えてくるかもしれません。

診療への協力云々ということを書きましたが,診療のために通っている現実があるのに,変ないい方だと思えたかもしれません。かつて母親自身がそうであったように,学校に行ったか,家でだらだら過ごしていないか,親のいうことを素直に聞くか,などなどといったことにばかり注目して,それを守らせるのが本人のためであると信じているのです。そういう自己を目指すのが,それぞれの人生の理想的課題であると考えられます。ですから潔く死の意義を積極的に評価するに越したことはありません。拒食症の患者さんが,夢の報告をしてくれました。
 いつの時代も捨て子はありました。

死につながる意味を持つ孤独の彩の濃い生活は,精神を蝕むことになる危険があります。十代の患者さんKが,「犯罪者の気持ちって分かりますか?」と,あるとき訊いてきました。A君が友達たちの些細な悪意に脅威を覚えるのは,友達の自由を尊重することができないためといえます。クラインは,母親の乳房との関係を軸に,乳児が精神的な世界を切り開いていく煩悶,苦痛と至福,満足とのあいだを激しく揺れ動く心性について詳しく論じております。患者さんはしばしば,「何のために生きていなければならないのか?何故死んではいけないのか」という問いを持ちます。更にそれを強く抑圧することによって,自我は硬直したものになっていきます。

そしてしばしば母親自身が罵倒します。人は,「親から受けた被害によって歪んだ心を,一生かけて自然的なものへ整え直す,それが人生である」という不可解な存在です。そういう心的状況では,甘えるという生へのエネルギーが怒りのエネルギーに変換されます。そのようにして,巨大な恐怖をもたらすものの怒りを鎮めようとするのです。「それはBちゃんの物です」と。 お釈迦さまは、「偉い人になるなよ、よい人になれ」と教えられました。先の比喩に従えば,心の軸が中心を大きく外していること,換言すると,主に母親への隠れた依存が無視し難いことを表しています。外形によって限定化されていないその純粋主観の世界には,無限性の性格があるように思われます。

抑圧がずいぶん強いのでしょう。それがあれば,人を日常への頽落から脱出させるきっかけになるかもしれません。片 や一生懸命家を守ってきたが、実は不平不満と怒りが蓄積されていた妻。自我を騎手に,騎手がまたがる馬を無意識にたとえてみると,自由な機能が健全に働いているとき,両者の関係は良好です。それによって自我は,自律機能の他に抑圧機能を働かせることになります。それは,自我の使命が,「死を課題化せよ。ところが忠臣と信じている部下のイアーゴー白人が,デズデモーナが不貞を働いていると吹き込みます。  子供110番、シルバー見守り隊、自動販売機を利用した自動監視システム、ITや携帯電話を利用し、官民上げ てさまざまな対策が講じられています。

いわば人の心は、日常的に、生まれ、そして死んでいるといっても過言ではありません。しかし,恐怖の度が強ければ,赤ん坊の自我は母親のそれにしがみつき,恐怖をもたらしたものを懐柔しようとすることもあるでしょう。その神なる母親は,赤ん坊には,自分に向けられた愛情に関しては何よりも心強く,しかし母親の私心に関してはそむくことの許されない恐るべき者といえます。そのような友人に出会える可能性はあるでしょうか?ない,というのが私の答えです。人間の誕生は,第二に地上の母親によっている。治療者がことを急いで,無理に膠をはがしにかかると,それはいわば自由の侵害になり,治療関係の拒否に合うことになります。

船長は自由に,主体的に操船しなければなりませんが,その自律性に根拠を与えているのが内在する主体です。しかし,それにもかかわらず,死の脅威から目をそらす欺瞞化の才に富んでいるという趣は否定できません。しかし,これらの元気にあふれた子供たちにも,死の予感がないとはいえないはずです。こんな醜い姿を毎日テレビで見ていたら、若者たちの純粋な心が濁ります。大きなことは出来なくても、身近な足元に実践できることはたくさんあります。Bさんは,非難,攻撃する妹に静かに耳を貸し,そして静かに,「縁を切ってもらって結構です」といいました。しかし,それは自我を首座に置いた思考によるものです。

子供の習い事の関係で,次回の予約は取り消したい,また連絡するということでした。結果、日本の子供たちの国際的な学習到達度調査でここ数年学力順位を下げている。また、更には無限性を帯びた人生を歩みつつ、自己の発展的達成に向かうことを通じて、「満たされている存在者」に限りなく近づくことができます。天分も本人の気ままな欲求に任せていたのでは開花しないと思います。今では、人っ子一人猫の子一匹いない真っ暗な通りに寂れてしまい、
町はますます活気を失い、客足はますます遠ざかってしまいました。むしろ集合的,没個性的といえるでしょう。  子供の徳を作るのは、お母さんです。

赤ん坊は、安心が‘全’でなければ、いわば立命できない気分でいると思われますが、現実にそれが理想的に適えられることはありません。それは避けることができない人間の宿命であるといえます。
 美しい国とは「美しい自然や日本の文化や歴史、伝統を大切にする国」「自立した、凛とした国を目指す」そのため
にも教育改革が最重要政策課題と明言し、歳出削減に向けても、先ず自らの給与を三十%カットすることを宣言した。それはそれとして,日常生活の一般的な特徴は,反復です。現実の母親は,乳児がもとめるような絶対的な存在ではないので,乳児の幻想は,始終やむを得ず破られないわけにはいきません。

これはまさしく乳幼児の世界で起こることです。それはそれで必要なことでもあるでしょうが,回避という姿勢は問題をはらんでいるのは確かでしょう。それは真の自由とは似て非なるもので,いうならば’勝手にやる心’といったものです。逃走中にサッカーワールドカップの試合見たさに他人の家に忍び込み 逮捕された。いわば人間の手に負えないものを学問的に理解しようとすれば,仮設を用いて,我われにも了解可能な一種の体系を仕立て上げる以外になく,その有用性は,治療的な還元によって確かめられることになります。一番の問題ともいえることを友人たちと共有できたのは,大きな収穫でした。

まさに前門の虎に,後門の狼という心的状況といえるでしょう。養母であるBさんが両親に対して気が弱いだけではなく,養女に愛情を持てないからです。海が荒れています。自我によって,人生は喜びを追求します。
 文部省は、教育の構造改革を進めるために次の4つの理念を掲げている。そうではなく,赤ん坊が持っている怒りの逆照射に主因があるといってよいでしょう。非社会的な機能は,上にあげた二つの機能が固化して不全状態に陥ったときのものです。これらの一切の対象との全関係を統合する位置にあるのが自我であり,統合された全関係が自己であるということになります。

そういうときに、甘やかしすぎて赤ん坊の自立性を奪うことになるかもしれません。子供は拝んで育てましょう。これらの機能が,人間の心的活動には,基本的に重要であるのが分かると思います。影があるということは,光があるということです。  いざ大変となった時、親や兄弟、親戚の力を借りなければ、自分たち家族だけではどうにもならないことがありま す。心理的な治療はそうした土俵の上ですることになるので,これまた果てしなく深く,複雑で,難解です。ここではそれらのことをふまえた上で,自律機能を,生の欲動フロイトの一切を意識にもたらすものという意味で用いています。

 昨年一年間の自殺者は約三万五千人です。親に愛されたい,励まされたい,甘えたいという子供本来の自然の欲求は,ここでも無意識の牢屋に押し込めるしかなかったのです。それは自己を切り開いていくはずのエネルギーが,自己を閉塞させる方向に流れているからです。しかし自我に強さがあれば,自分が知らずにしてしまった過度の抑圧が招いた,いわば不祥事を悩む力を持つことも可能です。乳児の自我が最初にする重要な仕事の一つは,「よい乳房」と「わるい乳房」メラニー?クラインの存在に関して進められると考えられます。自我は二分化して機能し,そのように現象を形成します。

 「諸苦の諸因、貪欲これ本なり」すべての苦しみは自分の思う通りにしたいと言う人間の心の奥底に巣食う際限な
き欲望、次々と湧き出て押さえがたい欲望が、環境破壊の元凶なのです。このようなことになれば,罪を問えないものに罪を科し,罰を受けているかのような多難な人生にしてしまいます。 ここに隠された問題がもう一つあります。 あわてた文部科学省や中央教育審議会が「ゆとり教育」から大転換し、中学では理科や英語の時間が大幅に増やされるようだ。この女児の幼い自我も,母親の愛情に守られているという安定した安全感が得られなかったと推測されます。当然,仕事を満足にできず,欠勤することも目立つようになりました。

その恐怖を和らげるお守りが万能感と呼ばれているものです。換言すると,現象的世界に現れている現象的実体に関してはこれらの能力の範疇にありますが,自我そのものの存在様態,存在の由来などは,その能力の範疇外です。
 至れり尽くせりで一見お客様は便利になりましたが、お陰で町の小さな食堂や土産物屋、飲み屋が寂れはじめ、
一軒また一軒と看板を降ろしていきました。しかし一方では,他者は自己ならざる者でもあるので,疎隔感を持つことにもなります。そして,また,他者への不信の起源をなすものでもあると考えられます。するべきことはしなさいと命じる。今日の前の欲望、目の前の物事を「自分の思いどおりにしたい」という思いがすべての悩みや苦の原因となっているのです。

 ③周囲は喜んでいるが、妊婦は産みたくない  ?早産や低体重児、未熟児になりやすい。それは心の中軸であるはずの自我が,自立性を保つことができていないからといえます。これら集合的他者なる指導者に従っているかぎり,優劣の差ができることになります。そういう折も折,過敏な赤ん坊が,何らかの御し難い恐怖に捉えられるということがあれば,情緒的な満足を求める生きる本能自律機能を育てるために重要ですよりは,捨てられることの死の恐怖の方に圧倒されるのではないかと思われます。もし彼女が芸術家であれば,これらの衝動をもたらす心の裏舞台にあるものを抑圧しつづける代わりに,作品に取り上げることができるかもしれません。

これは他者への絶対的な依存を必要とするかぎり,生き死ににかかわるもので,根源的といえるほどに強力なものだろうと思われます。いつでも離婚でき、実家に戻る練習をしているようなものです。芸術作品は心の闇の表現です。成長するにつれ,両親以外の人が意図せずに台本に別の筋を書き加えます。比喩的に登山と希望との関係を人生に当てはめてみると,次のようになります。しかしながら、死は、いま述べたように、生を単に阻むもの、無意味化するものではありません。②社会性と国際性の涵養かんようとは?
 地域貢献が成績の評価対象となるからと、受験生3年生がにわかにボランティア活動に参加する????作られ☆平素から家事手伝いをさせ、先ず家の中での貢献ができてこそ、社会貢献できる人となる。

具体的に暴力を受けるとまではいかなくても,治療関係の破壊の危機に立ち至っているといえます。目先のパートやアルバイトでは自立できない、子供は育てられないと決意したのでした。だからこそ希望は常にあり得る」というのは真実ではないでしょうか。 末法,顛倒衆生てんどうしゅじょう
 《仏滅後、教えのない大衆は仏の真理と正反対のことを考える》
 これではいけないとホテルや旅館は無理して設備を終え、お客を確保しようとします。
 「泣くよりもあわれ捨て子のわらひ顔」
 後ろ髪を引かれる思いで何の罪も無い赤ちゃんを置き去りにする負い目がうかがわれます。

必然的に,赤ん坊の無意識界には,自我の不当な抑圧を受けた無垢の心たちが集合体を作るのです。人が自己を本来化させるためには,孤独を引き受ける力が必要です。主我は、客我の影響を受けつつ、刻々と無意識層から贈られてくる新しい生命欲動を引き受けて、行動化する使命を持っています。自分のご縁のある宗教、親やご先祖から受け継いだ宗教の神様仏様、ご先祖をお祀りし、心 の鉄筋棒をしっかり入れることが大切なのです。ここでいう集合的他者というのは,個々の他者ではないだけに,この勢力が大きくなると,あらゆる他者のおめがねに叶おうとすることにもなります。

それをマスコミも大衆の興味を引くように違憲の部分だけを大きく報道している。そのいずれもがあやふやな心的状況では,いわゆる’勝手な行動’になります。その仮説の作業は、現象的世界についての概念を援用し、かつ命名する以外には方法がありません。母親の仮想的な要求に完璧に即さなければならないという強迫観念と,ロボット化している自我による抑圧された怒りなどが,関与していたと思われます,このごろでは大分自由になったとはいえ,十分ではありません。いくらなんでも実際に殺される心配は皆無です。そもそも自由に生きるという意味が感覚的に分からないという人が珍しくありません。

 価値観の転換が急務! お陰さまで成り立つ社会  親先祖は根、夫婦は幹、子や孫は枝葉  毎日のニュースを見ると、子供が親を短絡的に殺し、親が幼いわが子を虐待し殺すなど、目を被い耳をふさぎた くなるような心の痛む事件ばかりです。彼は大変素直で,率直な性格に見えるのです。その恐怖心が,母親の二心に対する怒りを徹底して抑圧しただろうと思われます。この大自然の大きな流れに逆らって生きることはできません。目に見えない所で根が弱り、幹から遠い細い枝葉の先から枯れ始め、最後に枝が枯れて倒れるのです。 自らがしっかり反省し、生まれ変わってこそ、離婚と言う大きな代償を払った価値があるのです。

人は巨大な矛盾の中に存在します。そして常になにがしか不当であり,自然の心的機能を歪めます。それは決して満たされることがない欲求であり,常軌を逸した激しさで,餓鬼そのものの姿になるのです。  何宗でも結構です。Bさんが本気で怒っているのを知っているためと思われますが,母親からも娘からも連絡はありません。それは,そうしたいというよりは,そうしなければならなかったのです。  教育の根本がまったく理解されていない。人間関係もぎこちないものになります。そのふところは,つまり母親の愛情ということになり,そこには広義の性愛的な彩りがあるに違いありません。

 最近の日本の現状を見ると、吸う息ばかりで息を吐くことを忘れ、窒息状態になっている人が多い。事が起こってからのドロ縄式対処では子供は守りきれません。父親の内的な支配を許し,依存した無気力な自我は,父親が期待したような自分ではないことについて,常に罪悪感に責めさいなまれる代償を支払わされているのです。そして社会的,対人的な関わりの直接的な責任者の立場にあります。しかし幼い自我が諸欲求を護るためには母親の協力を欠かせません。自我が自立性に問題がある場合,それに換わって首座にあるのは集合的他者とでもいうべきものになります。
 ③粉食????パン、パスタ、スナック菓子など粉製品が主食の食生活。

 一体何が彼らをそうさせてしまったのでしょうか? 政府もこの社会問題を危惧し、全省庁挙げて分析と対策に本腰を入れ始めました。学校や塾任せ、成績だけではなく、子供の特徴ややる
 気を生かし、その子に合った進路、人間として世の中に貢献できる生き方を一緒に考えてあけましょう! 
 もっと家族と触れ合える自由な時間を与え、田舎の自然や親の実家で古き良き風習や生活の智慧に触れ
 てこそ、独創的個性や柔軟性のある能力が育まれる。  ①世の中の役に立つ人間になること  ②人が困っている時、見てみないフリをしないこと  ③卑怯者になってはいけない  ④正しい信仰心を持ち、生かされている感謝の心を忘れないこと  ⑤自分の可能性を信じること。

それは、自らを窮地に追いやることになります。この,存在すると思われる純粋主観の心理的世界が,人類に普遍的な無意識の世界であり,自我の能力を超えているという意味で無限界であるといえます。つまりその都度の自己は否定を内に含んでいます。万能感と呼ばれているものは,E?ノイマンが次のように述べていることに通じるものがあると思います。死に向って希望の光を掲げつづけよ」という難解極まりないものであることを意味します。怒りをどう扱うかは,すこぶる重要な問題です。解脱,悟り,などによって得られる解き放たれた感覚,真に自由であるという感覚は,その根拠を死から得ているように思われます。

このことは人間には二心があるが,動物にはないことに関連しています。これまでに繰り返し述べてきたことですが,自我の誕生は光の世界の誕生です。たとえばかつての国家統制の行き渡っていた時代の日本では,二宮尊徳型の忠義者が公衆道徳を率先して黙々と実践すれば,社会の大勢が自然にそれに見習うことになるのがふつうです。母親の,妹の,長女の,夫の,そしてBさん自身の自由をです。  ?自分たちの子供が欲しい、自分たちの生命を受け継いでいく子供を育てたいと本気で思うこと。
 私たちの社会は森と同じで、大きな木や小さな木、雑草などの下草、種類の違う木などいろいろあって、それぞれ
が知らず知らずのうちに影響し合い活かしあっているのです。

精神の力動総体は,自我の働きに決定的な影響を受けます。意識がとらえた何ものかについて,統合された全関係に即して,合理的な意味の連鎖を探り当てる知的作業も自我の仕事です。最近こんな現実は、
日本全国どこにでも見られるのではないでしょうか あなたのご家庭、娘さんは大丈夫ですか? 家庭崩壊の象徴的現象は、なんといっても離婚でしょう。Yさんは成人し,結婚もしてから発病しました。かつてはこの子も,これらの大人たちの基準によるよい子でした。また,答えにならない答えをした自分自身にも腹を立てたと考えて間違いはないでしょう。後者は,親の力を子に対して行使するという体裁になります。

しかし診療には通いつづけておりました。簡単にいえば人間の知恵をいくらこらしても極めることができない難題であることに変わりはありません。万物の霊長たる人間の決断離婚を助長させる甘えの構造! 実家は離婚の温床?思わぬ落とし穴 結婚間もない若いお母さんの離婚相談が何件かありました。死刑,自死,安楽死などの問題の根本にはこのことがあります。しかし,だんだん負けないようになりました。無理に分からせようと試みると,たったいま述べたように膠をはがす作業になり,痛みに耐えかねるあまりに不信と不興を買うことになりがちだからです。そこでメキメキと頭角を現し同時に剣道でも新人戦で市内3位。

母親の愛情により至福の感情に浸されれば,赤ん坊の自我は母親のそれに助けられる形で,自己愛と他者愛とを同時に経験することになり,自我の成長に寄与することになるでしょう。 ②働く意欲が乏しいのだから、就職を促すために、基本的な生活習慣を身につける訓練やボランティア体験を合 宿形式で行う「若者自立塾」を立ち上げる。それは嬰児の世界である純粋主観が無限性の性格を持ち,それが他でもなく我われ人間の一大特性であることに関係があるのではなかろうかと思われます。今すぐ戦いをやめて、軍備に使う
莫大なお金と技術と叡智を地球を守るために結集すれば間に合うのです。

裏の自我は社会性と精神性とを欠いています。こうしたことを考慮に入れると,先ほど述べた乳幼児期の母子の好ましい愛情関係について,つけ加えなければならないものがあることになります。これに対立する形である裏の自我は死を志向します。クラブとしては,そんなことは知ったことではないということになるでしょう。そして光を得ることによって,生の対極に死が布置することになったのです。万能感とは,全的な存在への幻想であるということができます。しかし躾や教育は,人生の大道の歩き方といったものにならざるを得ません。「親の道は子が通る」の教えの通り  ?一人っ子二人っ子が増えているのも重大な問題です。

家族愛があってこそ、はじ
めて他人を愛し生まれ育った郷里に対する郷土愛が生まれます。見捨てられると生きていく術を失うのは,幼い子の問題です。女性は父親と同列の人になったということだと思います。その自我が求める満足とは身体的,刹那的であるのを特徴とします。こういうことも考え合わせると,怒りは封印のために機動しただけではなく,受け入れを拒否された無垢のものたちと共にあるという側面があるのが分かります。本のソフトを削除してしまえば二度とアイコン目の前の現象は出てきません。以上のような考えは,人間が存在するのは何かの偶然に過ぎない,あるいは生物の進化の連鎖の過程にあるに過ぎない,等々という疑問ないし反論にあうのは必然でしょう。

しかし,「わるい乳房」が繰り返し表れます。先進国アメリカ人を感動させた。やはり第一は病気です。過食症の治療の困難は,依存症一般がそうであるように,依存の対象を容易には手放したくないという強固な心理が働いているからです。この恐怖は,母親との関係が遮断されてしまう不安のようです。 ▼2016年、産業革命1900年頃より地球の平均気温がプラス1.5℃を突破! ポイント?オブ?ノーリターンの序章、種の大量絶滅が始まる。しかし,その子に’よい子’を求めてどうなるというのでしょう。小学生のうちは、基礎学習とチャレンジ?習い事で書道と剣道。

主体が自然の属性を色濃く持っているのに対して,自我は人間を人間たらしめるものであり,人間が自然から乖離され,独自の存在形式を許された象徴ともいえるものです。逆にそこに問題があれば,人生の第一歩にして,将来の多難が早くも予測されるといっても過言ではないでしょう。これに対して非社会的な機能のところまで後退するとき,騎手がまたがっている馬は気まぐれで,しばしば不機嫌です。主我が、正当にも、生起している生命を護ろうとすると、母親と衝突します。「その葛藤は,お母さん的な考えから自由になっていないからですかね」という問いかけに,Iさんは,「そう思います」とすぐに肯定しました。

母親の半意識的な誘導によって,母親が悲しんだり,苦しんだりするのは,自分のせいと感じる癖が子供にはできていると思われます。どう転んでも’全’になりようがない人間は,それは永遠に彼方にあり続ける命題です。そこには,元々がそれらのクラブ的な人間の偏狭さの犠牲になり,心に傷を負ったといういきさつもあるだろうと思われます。事実,乳幼児は,母親が全能であるという幻想を持っていると思われます。そして,それは相手方母親が全なるものではないという恐怖に満ちた予感と,一体感の破綻の予感とに脅かされてのことのようにも思われます。 若者の姿は顕著でないでしょうか?
韓国ソウルの女性も、東京新宿の女性も、名古屋も大阪もすらっと背が高く、
手足が長く、顔が小さく、目鼻立ちがはっきりし、みんな同じような風貌で見分けが付きにくくなりました。

ユングが述べているように,無意識の領域はいくつものコンプレックス群から成り立っています。英語にいたっては国語の時間を上回っている。  かつて日の丸と君が代のもとで、痛ましい戦争が行なわれ、多くの尊い人命が失われましたが、それは為政者の 過ちであり、人間の愚かさであって、国旗や国家のせいではありません。母親の健康に問題があるとき、父親が家庭を省みない何らかの事情があるとき、両親が不和であるとき、母親の心が未熟、幼稚であるとき、幼い子が過敏であるとき、などなど他者との依存関係を存在条件としている人間の心の構造の中心にあるのが自我ですが唯一の中心ではありません。

そのように死に挑発されて、次の志向対象へと向かう意志をしだいに明確にしていきます。このような内的状況で,自我の自由はしばしば脅威にさらされるということが,’母親に追われて殺されそうになるというふうに解釈できると思います。幼い彼が母親を助けることに腐心したのは,心根の優しい彼としてはそれ以外にはできないことでした。そのときに,相容れない矛盾を止揚する心のダイナミズムが生まれてくるのです。表の心がそのようなものであるとき,心の裏面がどうであったかといえば,悪魔であるイアーゴーがつけ入る隙があったということが証明しています。三十%カットは大変な負担であると思う。

異常な状況です。一つの行為行動に伴って,二様のエネルギーの流れが生じると考えられます。抑圧には,自我による死の宣告という性格があります。それがあるために,現実に外部に存在する他者への親しみを持つことが可能になるのです。自我は生に奉仕するものですが,赤ん坊が生まれて間もない早期の段階では,母なる他者の絶対の補佐を必要とします。環境問題は、省エネ技術だけでは解決しません。少女の自我は,本来は大人たちがするべきである関係の調整の役目を強いられました。赤の他人のお節介はともかく,親のそれは性格形成に大きな影響を与えます。従って,錯覚し,混乱してもいる退行した自我は,受容的な妻に対して感謝の気持ちを持つことはほとんどありません。

この女性が描いた「家を出る」という絵は,立派な作品です。 現実をしっかり受け止め、勇気ある決断と教育大転換をするチャンスがやってきたのです。だから何をやっても自信がなく長続きしないのでしょう。A君の不登校については,誰もが理解できるほどの問題が学校状況で発生したからというわけではありません。つまり現状のままで殊更の問題はなく,仮に,たとえば夢を通じて無意識からの何らかのメッセージがあれば,それを受けて前向きに検討することができる等々という意味でです。両者は密着した依存関係にあるように思われます。つまり心の川の死の流れがはじまる発端には,甘える欲求を上回るエネルギーを持った恐怖と怒りに竦み上がる体験があったに違いありません。

 また人間の体は約60兆個の細胞で出来ており、その一つ一つに自分の壊れた細胞を修復するプログラムが組み込まれているそうです。しかしながら,内在する主体との関わりから見れば,許し難い堕落という意味になる危険があるのです。それは次のような事情によります。先生に対しては,A君にも説明がつかない’本当の理由’を察知してもらえなかったためです。しかし生と死の対立の永遠性が,生の無限性を生み出すのです。偏狭といえばそうなりますが,集団の輪というものが要の意味であれば,それはやむを得ないことです。そして自分では意識せずに,当然のように,子に対して,自分自身が子供であった時代にされたことを押付けていくのです。

自己の自由が失われた極致に,諸々の妄想があります他者に行為の評価の基準点があるともいえるこのような心理的状況では,かぎりのない疑念に囚われざるを得ません。逆に,他人の脅威におびえる人は,境界機能が不確実なのです。このような行動化は,境界性人格障害に典型的にみられます心にある欲求を他者が気づき,解決を図ることができるのは,乳幼児と母親との関係における母親だけといってよいでしょう。実際は悪鬼のように怒っているのは赤ん坊の方なのですが,母親の顔にそれが投影されるのです。それは、母親に見捨てられる恐怖といい換えることができます。逆に自律性が傷つけられたり,混乱させられたりしがちなときに,自我の主体への接触が不良であると考えられます。

外壁、内装、子供の成長や家族構成にあわせた改築などをする。そしてその心の負債を自我が返済していくことが,いわば人生の目標であるとさえいえます。つまりこの山は,ここでお仕舞いという終点がありません。しかし,最初に身体があって,ついで精神の方にエネルギーが移行するといったふうに割り切って考えることは困難です。私は良くなっているのだろうかと疑問を持った。
 絶対非戦、戦争放棄を世界に発信できるのは、平和憲法を持つ日本だけなのです。この比較から,自己と他者との関係と,人と動物との関係とのあいだには,決定的な違いがあるのは明らかです。依存には好はましいものと好ましくないものとがあります。

このような心的状況であれば,母なる他者から与えられる満足感を,自分で自分自身にもたらすという重要な経験をすることになります。お母さんとの関係、スキンシップの持ち方が 決定的に大事です。各業界の老舗やトップ企業、マスコミ
に至るまで、金儲けのためには手段を選ばずの無法地帯になってしまった。母乳を与える時、母の温かい胸、柔らかく優しい乳房の感触、赤ちゃんの目を見つめて微笑む 母の笑顔と優しい声がけに子供は深い安心感を覚えるのです。愛情ならたっぷり与えている,むしろそれが行き過ぎているのではないかというのです。  「ここまで来られた事が夢のようで、仏さまの教えのお陰さまで准看護士の資格までもう一歩のところまで来ました」 といつも喜んでいましたが、今回は最大のピンチです。

母親への絶対服従の呪縛から解かれるきっかけとなったのは,他でもなく母親自身の更に激しい怒りでした。人生は一幕の芝居であるといわれることがありますが,このたとえでいえば,人生の早期に台本を書き,演出するのは父親と母親です。反面、母親が職を持たず、専業主婦でいる家庭の子供は放課後の「学童保育」に入れてもらえない。他者の介入によって自然的な心の営為が混乱させられ,それを改めて自分の力で自然的な方向に自己を整え直す,それが人生の目標であるという観があります。それを護る第一の立場に母親があるからです。’心の沼’は死へと斜傾する心の川の流れにつながると考えると,病的な心理の理解に役立ちます。

それまで辛抱してくれ」と言えるぐらいの父親になってこそ、本当の愛情ではないでしょうか。いたずらなり何なり,幼い子が何かをするときは,母親に認めてほしい心が付随します。あらゆる行動は、これらの欲動に促されて可能になります。そして,自分が大切なものではなく,愛情に値しないと考えているのではないかという恐れと不信を持ったと思います。お母さんの共感したことに胎児も同じように共鳴するのです。
 つまり責任を人のせいにしているうちは出来事の真実は見えてこないのです。一つは生へと向かう流れで,一つは死へと向かう流れということになりますが,この川筋ができる心の形成の歴史の発端に母親が大きく関わっています。

しかしその原始的で,強力な欲求は,強力であるがためにカウンターパンチをもらう理由になります。自我は大変に混乱しやすい状況です。不当な抑圧を強いられて,無意識の領域には怒りが充満しています。過度に抑圧された怒りは,憂鬱と無気力の十分な理由になります。このような流れの中にあって,赤ん坊の側に持って生まれた過敏なものがあれば,あるいは母親の側に何らかの不都合があれば,混乱は更に深みを増すことにもなるでしょう。他人の所有になるものを,欲しくても我慢するのは,抑圧機能によります。  父親の悪口を言い、意地でも会わせないようにしても、母親の生活姿勢が尊敬できなかったら、子供の心は離れて  相手ではないのです。

子供を産み、育てる自覚と決意もないまま、特別欲しくはないが「できてしまった」のでおろす わけにもいかず、仕方がないから産む若者が増えています。また他の元気な子供たちは,これらの孤独な子の理解者になるよりは,迫害者になる可能性があります。このように母親に限りませんがが子供を思ってすることが,子供の身を護るためだけではなく,親の安心のためでもあるのは当然なのです。それらのことは,生死をかけたといえるほどの切迫した心理状況の下で起こることです。荷物の受け取りを拒んだ前者は,自我が機能しなかったことを,受け取った後者は,機能したことを意味します。

祖父母が近くに住んでいて,「泊まりに行ってきなさい」といわれることがあります。目の前に現れる母親をはじめ,さまざまな対象を統合的に捉えていくのは自我の役目ですが,生まれて間もない自我は,自然による無化作用という乱気流にもまれて,一貫した姿勢をとれません。言われたことだけを忠実に実行する自動販売機では感動は沸き起こりません。
 親子の絆、夫婦の絆、家族の絆、親戚付き合い、近所付き合いなど、人間生活の基本が崩壊してしまったのです。たくさんの網の目がつながり合って初めて用が成すように、今日の幸せも大勢の人の協力と支えがあってこそ成り立っているのだと教えられています。

 親の大半は高校や大学までのスタンスで幸せを考えているのではないでしょうか? 子供がいい成績をとり、一流校、一流企業に就職するまでは、親も鼻高々でこの世の春でしょうが、都会の企業に勤め都会で知り合った彼女と結婚したら、おそらく一生親元には戻ってこれないでしょう。「殺される!」と思い,走って逃げました。父は医者、中流以上の裕福な家であり、外見的には仲のよい評判の家族だった。  しかし、今日看護士長さんに呼び出され『○○さん、しっかり頑張っているあなたには悪いけれど、他のメンバーが あまりしっかりやっていないので、評価の点数は低いわよ。

 仮にも、六千万人の男と六千万人の女の中からご縁を頂き、同じ屋根のの下に住み、同じ釜の飯を食べ、子供まで 授かった深く尊い縁で結ばれた夫婦なんです。彼らは孤独であることを恐れないと思いますし,’明るく群れる’ことに価値を求めることはないでしょう。自然から乖離された人間は,自分の力で人生を切り開いていかなければなりません。逆に,生を受けたが故に,必然的に死に怯えるものとなったのが赤ん坊であると思われます。自我は生きる方向に向けて光の世界を構築する拠り所です。一方,現実の母親は,全面依存する赤ん坊には事実上の神といえるほどの存在で,生殺与奪の権利が委ねられているといえます。

むしろ、「頭でっかち」の母親は、自然の心の豊かさに問題があるかもしれません。子供、両親、祖父母、そしてご先祖様や神仏と言う縦糸横糸が、機織りのようにしっかりと織り込まれてこそ立派な家族が出来上がるのです。自我は自立を理念としています。そういう余裕があれば,ひきつづき子供を正しく指導することができますし,実際にまだまだ指導が必要なのです。イアーゴーは,この無意識の中に潜むもの,そのものです。漠然と困った困ったとジタバタせず、何が本当に苦なのかを明らかに見極めること苦諦 ②何が苦なのか分かったら、その原因が明らかになる。「もう,いいかな」と悪魔がしきりとそそのかすといいます。

矛盾し合う二つのものを止揚しつづけることが未来を開くのです。しかし自然界のものである主体自身は,人生を直接生きることはありません。すべて英語で授業を受けているのと同じです。しかし内在する主体の支持にもとづくものであれば,それは人生の達成というものに等しいかもしれません。「自我の自律機能」の提唱者であるハルトマンは,この機能を,「自我という生物学的ー心理学的構造体が,超自我,無意識,外界などとの相互的な葛藤,関係性から自由であるべく保証されている」という意味で用いています。その客観性の理想的なモデルは自然科学にあります。
 新聞各紙は論功行賞内閣とか、老荘青の新旧バランス内閣などと批判しているが、何でもかんでも新しく、古い
ものはすべて時代遅れと考えて、改革改革と耳ざわりの良い言葉に振り回されてはいけない。

将来は父親とおなじ仕事もしたいが,それよりも整体士になりたいそうです。いうならば不足感があるがために、充足をもとめる理由が生じることが可能になるのです。ペルソナを鍛える一方では,自己と人生について思いをめぐらせて,集団の中で調和していることの意味と限界を理解しているに越したことはありません。
 人類は、地球上のどの生物よりも繁栄したが、際限の無い富の追求が地球上の生命と人類時代に終止符を打とう
としているのです。そのためには,親の自我の境界機能が確かなものである必要があります。また,拒否的,威嚇的なものに怯えを持ちやすいということでもあります。

母親の自我の傀儡となることで,見捨てられる恐怖を鎮めようとするのです。それらのことは自我の自律性が混乱しやすく,頼りないということと,自己の主観世界が他者の客観世界との混同が生じやすく,境界機能の受け止める力,侵入的にならない力が未分化であることを示しています。先にも述べたように,見捨てられる恐怖から,母親の自我に同一化することによって自我の自律性を犠牲にしたところにあると考えられます。「人類の生まれつつある自我意識の最初の何段階かは,ウロポロスの支配下にある。そうなるといわゆる完璧主義者になるしかありません。それらは大人になっていく上で,得難い体験になることでしょう。

集合的他者というのは,体験された他者たちといったものではありません。甘える心が充足される度合いは,自己愛と他者愛との確かさの礎石に関わる問題なのです。それは小舟で大海を渡ろうとするような途方もないことです。それは強いられたものではなく,自ら意志してする行為だからです。仏とはすべての生命を生かしている調 和と真理なのですから、たとえ直接家族に死人の出ていない家にも、祀るべき一家の心棒なのです。現実の人物ではないらしいということは,無意識の世界から浮上してきた,なんらかの使命を帯びた不気味な者と考えられると思います。エネルギー的にも枯渇する自我である非社会的なそれは,生きる意味を紡ぎ出す根拠を欠いているに等しいといえるようです。

A君としては,先生の言葉は心無いことになり,傷つきもし,怒りも覚えました。 人より幸せになりたい」といいながら、休みの日には昼まで寝ていたり、ほとんど努力もせず夢ばかり追いかけてい る現実離れした若者が増えてきたのも、このことが大きく影響しているのです。隣人愛は,オセロのように純度の高いものの要求であるとき,自ら崩れ去るしかないのです。しかし,実質的に強制的な侵入になっていくと思われます。’彼とその取り巻き’に恐怖を持ち,大学を辞めようかと思いつめました。一体これ以上何が足りないのだ。ヒマラヤやアルプスなど世界各地の氷河が恐ろしい勢い
で消滅しつつある????など、数え上げれば切がありません。

すなわち人間の際限の無い富の追求、形振り構わず金儲け主義の負の産物なのです。これはいわば自我を付与したもの,人間の上位にあるものの意志に基づくものと考えることができ,内在する主体との関係において展開される性格のものといえます。だからこそ母親から距離を取ることができています。それに伴い潜行する怒りのエネルギーが勢力を強めていきます。暗転したオセロの心は,死の方向になだれ込んでいきます。このことに先ほどの用語を当てはめていえば,PとSとの自律機能と抑圧機能の関係は,Pは前者に偏り,Sは後者に偏ることになります。しかしどこにもそれが見当たらないとすると,晩年が過酷なものになります。

しかし他者は,むしろしばしば脅威になります。その破壊作業は,死につながる裏の自我の営為であると考えられますが,破壊の次に再生があるか,単なる崩壊かは,表の自我にどんな力が秘められているかにかかっているでしょう。そうでなければ,他者は異星人のように不可解な存在であることになるでしょう。おそらく船長としてのIさんの腕前を信用してはいません。親戚同士で比べ合いになっちゃうので??性格形成に与える母親の影響摂食障害の症例を通して。食物に代理満足を求めます。Yさんは上司への恐怖心から,自分の席に座っていることができなくなりました。

人とうまくやれるということは,集団の中で生活をしていくことになる子供たちにとって,是非とも身につけていなければならないものでしょう。  でも、看護士になることは、勉強が苦手だったが彼女の学生時代からの夢だったのです。そして他人を信じてよい気力も回復するはずです。それはかけがえのない人生を虚しいものにする,過酷な犠牲を強いることにもなるのです。息を吐くことを教えてこなかった大
人の責任は重大である。程度の問題でしょうが,そういうものを内に秘めて,なおかつ仲間として肩を組み合えるのでなければ仲間にはなれないでしょう。つまりエネルギー自体は同一のものであり,自我の動きに伴って生と死とどちらかの方向に動くのです。

生まれたばかりの赤ん坊は,なにはともあれ人間の誕生です。  そして叱った時は、子供がなぜ叱られたのかわかるように説明してあげることも大切です。ですからこの権力機構が崩壊した’民主国家日本’では,自立していない個々の自我が解放されて,幼児のように’やりたいようにやる’人種がここかしこに見られるようになり,公衆道徳は一転して地に落ちることになるのです。そのようにして、「生きているかぎり、可能態としての希望が保証されている」といえるのです。このように,内的な集合的他者に従うかぎりは,外的な集合的他者によって優劣の等級がつけられることになります。

それによって,自己自身であろうとするよりは,人間集団の中で確固とした立場を得ようとします。彼らにふさわしいのは人類愛ということになるのでしょうか。しかしこの交際が正しいかどうかには疑問があり,母親が心配するのはもっともなことです。それは同時に、自動的にB層から生起してくる大自然の贈り物である新たな生命を抑圧することになります。家長を中心に家族の長幼の序列がしっかりと保たれ、信頼と 尊敬の強い絆で結ばれている。  宗教界も大いに反省が必要です。急落である。無形の口出しというのは,超自我の関与ということになるでしょう。人間は,死を決意して自死にいたることができるでしょうか?寿命がつきたような自然的な死は別として,死を決意したときに,悪魔の回収作業が最終段階まで進んでいるようにも思われます。

 しかし、もっと問題なのは専業主婦です。それはそれでいいのです。乳児が’二分の一の存在’であることを体得できるためには,母親の安定し,一貫した愛情が欠かせないでしょう。それを何とかしないかぎり,「病気がよくなる」可能性がないのですが,当然のことながら依存し合う双方共にさまざまに無自覚です。しかしBさんは,もともと両親に対して屈折した心を持っています。Yさんには退行しやすい幼児心性が色濃くあります。このように影響力のある他者を取り込みつつ、他者イメージが育成されていくのですが、それを可能とする根拠は自我にあります。むしろ当然のように,’わがままに甘える’ばかりです。

 どの事件も考え方が短絡的で結論が極端である。絶えざる矛盾,絶えざる葛藤を乗り越え,乗り越えしながらでなければ,人は人を深く愛することはできません。親が子の領域に無分別に侵入するのが当たり前になっていると,子供の自我の境界機能が混乱し易く,境界機能に護られない自律機能も混乱すると想定されるのです。この層の存在と死無の存在とによって、自我の有限性は補完されています。親が与えた心の傷ということになります。生まれたばかりの自然的な傷つき易い自我は,最重要の他者である母親が,基本的に自我の護り手であったか否かということに大きく左右されることになります。

それに伴って満足感が得られ,自我に活力が与えられると考えることができます。その’ある事情’が,彼の心に潜在している怒りをもたらしたと思われるのですが,彼自身はそのことに無意識でした。愛情と物の価値観が逆転してしまい、
物は豊富に与えられるが愛情と真心の手間隙が欠けた寂しい子供が増えています。それを克服できれば,母親を現実的なものとして受け入れることができます。十歩前進,九歩後退といったところが,うまくいっても人間の現実ではないでしょうか。その淵源は,人間の存在以前の世界を,自我は生と死との二つに分割して現前化するところにあるように思われます。

少年も野球チームに入っています。人間の誕生は,第一に自我の授与によってである。Bさんが試みた自分自身との関係の強化というのは,逃れようのない厳しい現実状況を,敢て引き受けることが,重要で,欠かせない出発点になります。これが大切なのです。エジソンはどんなことでも疑問が解決するまで質問し実験し続けるため、周囲 の人からうっとうしがられましたが、彼の母は「どうしてだろうね? 不思議だね」といっしょに考えてあげたのです。それは愛情が大きいのではなく、母親の不安が大きいからに違いありません。英会話が流暢にでき、インターネットで世界の情報を知っていても、日本人として語るべき中味が③多様性と選択の重視
 大学全入時代を目前に、大卒の価値が失われつつある。

心理的な議論では,幾つかの里程標のような事実問題があり,それら相互の間隙を繋ぐには推論以外にはありません。 今政治も、経済も、教育も大きく変わろうとしています。つまり人の目が気になるのです。自我は,無意識の力に押されて,妻をほとんど母親と見立てたと思います。自分らしいかどうかです。表と裏の心のあいだの境界は,いうならば関所のようなものと考えるのが合理的なように思われます。大好きな父親や母親をひどい目に合わせてしまうからですし,どんな反撃をされるかも分かりません。この意味での保守性は,特に日本人では個性の否定に傾きます。死は生の脅威です。

それは乳幼児の感情をコントロールするのではなく、感情を全面的に許容する心の姿勢を貫くことによって得られます。しかし離婚後,今度は母親と祖母とのあいだの板ばさみになりました。それは母親のお腹の中にいたときの安全感覚を,保障しようというものでしょう。その怒りは先生とA君自身とに向かったと思われます。未熟な自我は,自分ではどうすればいいのか分からないので,外部的な頼れるものに依存します。両親の愛情のあり方に問題がなければ,幼い我が子の未熟な主張を成長の証ととらえ,その主張の中に無視してはならないものがあるのを見逃さないと思います。家族のどうすることも出来ない焦 りと不安、日一日と意思の疎通が出来なくなっていく絶望感に家族の絆と未来が音もなく足元から崩壊していく。

その上で自立的に考えをめぐらし,一定の結論を出すということです。今日の目的やシステム、接客やクレーム対応など様々な社員研修、社員教育が行なわれています。それは自我が怒りを抑圧することに伴って必然化された,意識の欺瞞化でもあります。そして,その不良の程度に応じて自我の自律性に混乱が生じ,それに伴って裏の人格が勢力を持つことになります。特別な事情があるのかもしれませんが,この子が心を回復させるまで,母親が忍耐強く診療に協力できるのか,気になります。  単なる国籍としての国ではなく、自分の存在の源=祖になる国、先祖からのルーツが根付いている国、誇りと愛 着の持てるかけがえのない祖国のことを愛する気持ちが大切です。

幼い自我が脅威を受けてすくみ上がり,母親の自我に密着するのはやむを得ないことです。それは自我と対立,拮抗するよりは,穏やかな教師のように忠告します。表の自我の主要な役割の一つは,社会的な立場を築き上げることです。しかし治療に非協力というわけではありません。しかしそれも程度の問題です。まことに死によって,人間はようやく本物の自由になることができるようです。彼女がこれらの衝動の突き上げにあって悩むのは,彼女が過度に社会性を身につけて,いうならば不条理な抑圧をしつづけてきたからに違いありません。境界を護るということは,自他の人格を尊重する意味を持ちます。

そう考えるとき,既にかすかであっても希望が見えているはずです。おまけに騎手は自分の力を信じていないので,人生行路が二重に難しくなるのです。自己愛の健全な成長は,つまり心が健全に成長しているということです。段も取得。母親の’苦しみ’にも,半ばは無意識的にでしょうが,よい子をそのように仕向けるための演技が入っているのではないかと想像されます。幼児期寝かせる時には、お題 を唱えながら優しく撫で擦ってあげましょう。日本人はあまりしませんが、外国人は優勝する と国旗を身にまとい、ウイニング?ランをします。B層は大自然が心におよんでいる領域で、心の無限性を保証するものです。

実りと言う果実を見れば本の種は一目瞭然に解ります。以上に述べたように,なじみのある日常世界は,’死’に包囲されている現実を忘れていることができるという効用があります。裏の自我はこれを無視することはできません。
?いつの時代も、親の願いは、『立派な子になってほしい』と我が子を育ててきたはずですが、いつの頃からか『立派
な人』の意味が大きく変わってしまったのではないでしょうか?
? 昔は、『世のため人のために役立つ人が立派な人』であったが、現代は『金儲けがうまくて、出生する人か立派』
と勘違いしている。境界機能の重要なものは,問題を受け止める力です。

仮に、日常の個々の生活で、逐一「独創を意識する」とすると、エネルギーのロスが大きい上に、「個性的」というよりは、「変わった人」の印象を人に与えるだけのことでしょう。動物は,仲間との戦いを通じて群の中の自分の力,位置を知ることができ,仲間とうまくやっていく知恵を得ます。自我が発達した年齢であれば,何らかの行為を楽しみ,評価するのは自己自身でなければなりませんが,自我が未発達な幼児としては,母なる他者によって支えてもらう必要があるのです。  翌日の夜、彼女から電話が入りました。しかし長じるにつれて,「強いる者」が外なる他者ではなく,内なる他者である集合的他者となると,自律機能が抑圧されつづけるので,人生という山登りは希望のない,強いられたものになります。

初診のころに,「将来がとても不安???ちょっとしたことで無闇に涙があふれてくる???私は駄目だとすぐに思ってしまう???しばしば死にたくなる,そういうときに手を切る衝動が湧く???高校に入ったころから<自殺マニュアル>の本に興味がある???ゾンビーを殺すゲームに夢中になる???」と述べています。そういう人を中心に,その力を当てにする多くの仲間が集まって集団が形成されますが,肌合いの異なる者は巧妙に排除されることにならざるを得ないでしょう。裏の自我は死へと向かうそれを司ります。しかし,それは果たされないまま成長し,いわば未済のままでいるのです。

それでなければ「宗教はアヘン」であると言われてしまいます。その姿勢が,つまり,引き受ける精神です。それは平和だった反復的,日常的な世界の相貌が,もはや親和的ではなくなったということでもあるでしょう。それは自我がしなければならない仕事なのです。このような状況では、主我は無意識から立ち上がってくる恐怖に圧倒されます。客我は内的な集合的他者で、主我は自己本来の主張を導くものである、と想定されます。破壊的なエネルギーを持つ裏の主体と一体化するに至ったと考えられる犯罪者たちにも同様なことがいえるようですが,こちらは裏の自我が強力化して,生きる理由が悪であると,裏の自我に迎合する形で自我が完全に傀儡化してしまうことにより,ある意味で活性化している様相であるように思われます。

 君が代と日の丸は、世界に類を見ない高貴で美しい国家であり国旗です。それは心の内における無限性を保証するもので、全でもあり無でもあるという性格のものです。人生は希望に満ちているといえば安易すぎるいい方でしょうが,「人生は克服不能の高さと深さとを持つ山に登るようなものである。
 そして、いざ台風というとき、一本の木だけでは暴風を受け止め切れません。幼い自我の必死の願いと行動とに応えることができなかった両親は,少なくても子供の立場からは,幾重にも非難されても仕方がありません。繰り返しになりますが,自我は人間の意識活動が存在する根拠です。

いじめっ子もいじめられっ子も自分が見聞きしてきたとおりにやっているだけのことなのです。「卑怯なこと」は人間として恥ずべきことである。母親のセンスに不安を覚えることでもあります。学校に通うことについては,本人の自我に任せるというわけにはいかないといえるでしょう。人間の心理の問題は果てしなく奥が深く,そこに分け入ろうとすると,終わりのない探索行為になります。そして、ことを起こす必然性、大義があれば天が動き、地が動き、人 が動くのです。食事の後、食卓をきれいに片付けて、お母さんが洗い物をしている傍ら、少しづ
つ見てあげるのです。ですから基本的なところで無責任なのです。

 違反者を摘発し、ビルを建て替えれば済む問題ではありません。父親は小遣いを節約し、 母親はパートに行き一生懸命働いて仕送りをしているのです。それに相応して,自律機能も護られることにはなるのです。 そして、目先の利益だけに走る大企業とその恩恵を受けている多くの民族の心にモラルや倫理といった「植倫」をすることが急務と考えます。
 教育は国づくりの最も大切な基本
自然と歴史、伝統と文化を受け継ぐ家庭教育
 温故知新は正しい発展の基礎
 戦後生まれの安倍晋三首相による新しい政権がいよいよ動き出した。自我がその者の存在に拝跪するのは当然のことです。

そして闇は死の世界です。生きている現実に,’方程式’を当てはめて検討してみるのは意味があるでしょうが,’方程式’に患者さんを押し込めようとするのは,治療者がすることではありません。その根源には,相互に他の存在を不可欠なものとしつつ,しかし相反するものの関係にある生と死と,あるいは光と闇との分割された対立があると考えられます。好き同士で結 婚したのだから、性格の不一致とはおかしな現象です。脅威を与えている親から逃れようとするよりは,その親への依存を手放せなくなるのです。生誕につづく原初の段階では,全面的な他者母親の補佐を必要としているといういきさつから,自我が不始末を起こす状況的素地は十分過ぎるほどにあるのです。

しかし「角を矯めて牛を殺す」の喩えのように,抑圧機能が自律機能を護るという本来の使命を超えてそれに優先するのが習いとなると,自己の発展はさまざまに阻害されます。しっかりした理由やスジの通った信念などあり ません。先に上げたBさんの例のつづきです。渡辺謙、樋口可南子主演の「明日の記憶」が話題を呼んでいる。それは、主我が客我から自由であるという意味を持ちます。自我が生まれることによって光が生まれました。実はそもそもは,当時十代だったこの長女が私のところに通院しており,途中から母親も通院することになったいきさつがあります。人様や地 域コミュニティーのお陰さまなのです。

そういう意識の下で,圧殺される,侵入される,自由を認めてもらえないといった心と,それに伴っているに違いない怒りとを無意識下に封じているのです。癌に侵されるなど死期の迫った人については,先に述べた「死に向かって希望の光を掲げよ」という主題はどうなるでしょうか。この不安は,少年の年齢からすると理解し難いものです。子供が一番の犠牲者です。どこまでも幸せになる可能性を秘めた希望の人生を 親や大人たちがしっかりと守ってあげなくてはなりません。開拓された自己の全体の中核にあるものを表の自我,貶められて陰の領域に追いやられた自己の中核にあるものを裏の自我と,ここでは呼んでおきます。

たとえ醜かろうが,どうだろうが,事実は事実です。夢の舞台でなぜこのようなことが起こっているのでしょうか。しかしSさんと母親との強固な依存関係が変わらないかぎり,通院を必要としているSさんの問題は改善される見込みがないのも確かです。状況に応じて,自我の様態は変化します。赤ん坊に,自分が’全なる力の持ち主である’という大安心を保証してくれるのは,’全なる力’を持っているはずの母親です。、朝早くから夜遅くまで忙しく働き、日曜日は接待ゴルフ、たまの休みには「俺は疲れているんだ」と家の中でごろごろしている父親、パートに疲れ時間に追われてカリカリと家事をこなす母親、「昔おふくろの味、今はレトルトパックの袋の味」で育つ子供たちから働く意欲が無くなっていくのは当然ではないでしょうか。

 一人の人間を育てるのは一軒の家を建てるのと同じです一世一代の大仕事です。ましてや、他のメン バーは高校や大学を出たばかりの若者たちなので、今まででも注意やお願いをしても『おばさん!ひとりで何がんば ってんの?関係ないわよ』と通じません。食べ物の好き嫌いは、人間の好き嫌い、仕事の好き
嫌い、勉強の好き嫌いにつながり、勉強が解らなくなり、落ちこぼれていく原因となり、いじめ、自殺へと進んで自分の人生を狭いものにしてしまいます。子供たちの受ける心の傷は計り知ることが出来ません。
 教育改革を叫ぶ議員先生が、プロレスまがいの委員会採決やヤクザの喧嘩のような品の無い罵声や野次の応酬
を今すぐ訂正すべきです。

「これは私のではない」という。自己愛の光りがとばりの中にあるように感じられている人は,他者に対して一様に距離を保ち,周囲の人には冷淡に感じられることもあるでしょう。 しかし、父親はどうなっているのでしょう? こんな大切な時に夫婦がそろって出てこない所にも何か大きな問題があるのではないでしょうか! 子供はひとりでは授かりません。見捨てられる恐怖は、人間であれば誰であれ、例外なく意識の根底に存在していると考えなければなりませんが、その度合いが強いときに、主我は生きる本能を優先させて、母親を怒らせないように、迎合する戦略に走るのです。

信頼しきれない姿です。洗練された芸術家の自我は自律機能に従おうとする一方,一般市民のそれは,抑圧機能を発達させていると思われます。やがて赤ん坊は,一つの結節点に立ち会うことになり,未知の経験をすることになります。これら無意識界に存在しているコンプレックス群のそれぞれには,自我コンプレックスのような恒常的体裁はありません。それが企
業をはじめ、家庭や学校の乱れ、社会的モラルの低下を招いているのです。 理由はともあれ、堕そうと思った子、いらないと思った子は、大人になりこれからというときに、いらないことを引き起こすのです。「よい乳房」がそこにあるとき,それは赤ん坊が魔法で呼び出したように,望みどおりに存在するので,万能感が満たされ,自己愛が満たされることになります。

外出の時はバスケット、車の中はチャイルドシート、スーパでの買い物中はほとんどカートの座席に座らせている。そして、赤ん坊は無邪気に育っていくだけのものではなく、大安心と大満足とを母親に要求しつつ育っていくのです。この幼児心性の下では,他者の自由は脅威でありつづけるのです。生は自我の誕生であり,意識という光の世界のはじまりです。集合的他者の山が自我の山よりも大きくなるのは,怒りによってです。自死の気配を強めている人に,人の愛がどうしても届かないときには,そのようなことが起こっているのかもしれません。 本誌が皆様のお手元に届く頃には選挙の結果も出ていると思います。

その土 台の上に、人生経験を積み重ね一人の人格として成長します。長期にわたってそれがかなえられないでいると幼い子がこの作業をできるためには,両親の反省,手助けが欠かせないでしょう,これらの分身たちは,まとまりのある一つの勢力になります。そういうことが可能であるためには,赤ん坊自身の中に,誕生をよしとし,自己を肯定する心の原基がなければならないといえるでしょう。しかし、それは宝石の原石と同じ です。知識技能を身につけるの は枝葉の学問である。 しかし、地球の温暖化現象は、2006年夏以降の半年で世界の環境が一変し、学者の予想をはるかに超え、一挙
に加速し始めました。

「親が望むなら,そのようにして上げたい」と考えるよい子としては,母親が苦しむと分かっていながら,無視はできないのです。幼いときから大人の自我の強さを求められたのです。判断をすることが,船長が仕事をしたことになるのです。Yさんの自我は,少しずつですが,再構築の作業に取り組んでいます。そして、『お陰さま』の人生、すなわち目に見え
ない存在に対する畏敬の念を取り戻すことが必要です。三度目である。ある有限の時空にいたって人生が,あるいは自己の形成が,完成し,自足するという事態は想像できません。その度が過ぎると,他者の支配,侵入を受けるに等しいことになるので,自己の自由は危機に立たされます。

事実,それらは診療を通じて自然的に浮かび上がってきた考えです。これは幼い子の罪というわけには勿論いきません。創造的,個性的な途については,自我の自律性の役目になり,集合的他者はその意味では抑制的に自我に働きかけることになると思われます。そしてそれは,自己に内属する存在ではなく,外部に,独立して存在するものであることを示している。第二の母親が第一の母親と決定的に違うのは,前者には二心があり,後者にはそれがないことである。先に、自我は心の中心であるが、唯一のものではないと述べました。外国に行くと、無神論者は 「信じる神もない、信用の置けない人」として本当の深い付き合いはしてもらえないのです。

それは自律機能に関係する子供らしい諸欲求内在する主体から送り出されてくるもので,一定の方向性を持ったエネルギーを帯びています。もちろんここ数年は熟年離婚も急増しており、若いカップルだけでの問題ではあり  離婚理由の第一位は、男女とも共通して「性格の不一致」です。無駄なエネルギーを使うことになり,疲れもします。結論的にいえばこのように考えることができますが,しかしながら,人間嫌いや,孤独を好むもの,ジャングルに置き去りにされた旧兵士,動物に育てられた子供などなど,いわゆる人間関係と無縁に等しい境遇で生活している人もないわけではありません。

それは母親なる他者が自己に内属するのではなく,自己とは別個に独立した外部的な存在であると認識していくことを示しています。つまり人間の存在は,不可知の理由によるとしかいい様がありません。そういう母親は、当然ながら、赤ん坊の心に敏感になるのが困難だろうと思います。君が代は、民族と国家の永遠性を歌い上げた平和の歌です。そこでは,時として正義が踏みにじられ,偽善がまかり通ることになります。A層に終結している生命たちは、主我に受け止められなかった恨み、虚しさ、寂しさ、悲しみなどなどと、そしてその理不尽さへの怒りと、それらの感情と共にあることになります。

始めは興味本位でしたが,やがては幻聴にそそのかされるようになりました。幼いころに母親に甘えたいのに甘えられないでいる心を,母親に気づいてほしいという願いが元々あったと思われます。従って,悪という性格を帯びています。それは母親を支配しようとするのとおなじ意味を持ちます。依存し合う両者が,内側から,不自由な自由に疑問を持つ力を蓄えるしかありません。ある女性が,最近,母親が身勝手なことを言い出して父親を困らせるというエピソードを語っていました。また、例えば、「純粋に白いあるいは純粋に黒い」ものは現象的実体としては存在しないが、かぎりなく白に近い黒、あるいはかぎりなく黒に近い白」は、現象的実体として存在するといえるので、純粋に白い、あるいは純粋に黒いという全なるもの、あるいは無なるものは、単に概念的に存在するだけではなく、現象的実体の内部に含まれている」といえます。

 人間だけではありません。乳幼児に特徴的な重要な心性の一つは,揺るぎない全存在の保全をもとめて,母親を支配しつくそうとすることです。一方で,会社へ行っていることや,めげずに診療に通い続けていることなどは,生の世界に属しています。有限の世界を生きるそれぞれの自己は,二分の一以下の存在として心の内に他者を構造化し,外なる他者との関係を不可欠なものとしている。 <誰でもすぐに実践できること>①電力ダイエット TVの電源はコンセントを抜く余熱にしない 使わない蛍光灯は小まめに消す。子供のうちは親に認められ,褒められるという喜び,楽しみがあるので,「強いられた山登り」であっても,我慢をする理由があります。

幻聴,妄想に関連して,誰かが自分の悪口をいっているように感じられるとき,外界の他者と自己との境界を画然とさせる機能も混乱しています。  しかし、学者でもお金持ちでも、どんなに立派でも老化と共に後から身に付けたものが一枚一枚剥げ落ちていき、 最後まで残るのが胎教から乳幼児三歳までに身に付けた人格の土台となる部分「根本人格」です。  「蒔かぬ種は生えない」と言うのが永遠の真理です。この場合の野心は,人に抜きん出ることです。また、約束を守れなかった時は、率直に「ごめん  なさい」と言える人になること。また自我の混乱と衰弱が甚だしいと,裏の自我が表のそれを無視して,直接的な行動に出ることがあります。

それは自我に拠る人間存在ならではの現象的な事実です。それが治療者に向けられるとき,治療者が抑圧,迫害の張本人であるかのような一種の取り違えが起こるのですが,やがてその怒りが治療者によって受容されるときに,患者さんの自我が抑圧者から受容者に変貌することができるのです。人と争うのを好まず,誰とでも仲良くしていたいと思っています。それは心の世界全体が好ましく変容していく上で欠かせないことです。境界が意識にとって外界にあるもの,とりわけ他者とのあいだで,そして意識にとっての内界である無意識とのあいだで,有効に機能しているかぎり,自我の自律性が保たれると想定され,これらは互いに相補的な関係にあると考えられます。

ここに大きな落とし穴があるのです。しかし中学生,高校生になると,教師が指導的干渉をします。そして,しだいに依存から脱して自由になり,直接に主体との関係を探り当てていきます。一般的な日常の生活では、客我が心を主導していると考えるのが実際的であるといえます。誰それとのことでの悩みを聞いて欲しくても,相手方の立場でAさんが批判されます。それらは外的な指導者です。心の無意識層から生まれてくる欲動群は、すべて生命的なエネルギーを蓄えています。  本当の教育投資は、心を育てること  オウム真理教のサリン事件などは、東大生、京大生、一流私立大学生が引き起こした。

要するに自我に拠る自己は自立を目指しますが,それはなにものかとの依存関係においてであるというのが,人間存在の特徴です。従って、おなじ理由から、心の構造が、客我が主我を支配する形になっているのであれば、絵は模写の域を出ることはできません。  子供でやれることは子供にさせる、また親といっしょに遊んだり、作業をする。母親は意識せずに主体の命を受け,仮託されたと考えることが可能である。それに伴って患者さんの自我も,自律性を回復する方向で動くはずです。  教育とは『教えること』と『育てること』ですが、『知識を教える』ことばかりに親も学校も重点を置き、『心を育てる』 ことがなおざりにされてきた結果です。

 国会では責任のなすり合い、足の引っ張り合い、自分の党の主張だけを声高に叫び、他党の意見などハナから聞 こうとしていない。それは自我が,裏の自我にまったく支配されている姿ともいえます。そしてそれは愛情といえる面と,母親の私心といえる面とがあって当然でしょう。死は,単なる生の否定ということではないと思います。身近な所から
実践しましょう。  山口県の高専女子学生殺人事件では、同級生の十九歳少年が全国指名手配されている。そういう父親をかっこいいと思っています。必要に応じて変わっていくのです。 寒い時は一枚羽織って体温温度を調整する。主体の命とは,「自我によって自由に自己を導け」というふうに考えることができる。

このように,抑圧には,抑圧を蒙る側からすると不当であるという性格があります。人は自我に拠って存在可能となるといえます。それは、いってみれば、伸るか反るかの分岐点に心が立たされることになり、不安の増大は避けられません。自宅で暴れたことや,薬の過量服用を指しているのですが,言葉でいくらいっても通じない両親への暴力的なアピールという意味です。
子育ても、教育も、政治も企業経済も同じである。通学路で,怖い男になにかされるのではないかという恐怖があります。義務教育といわれるように,義務として課されたものであることが意味を持ちます。言葉を換えれば,不当に自律機能を抑圧し,自己を護り,発展させる上で好ましくない心的状況が生まれます。

 十代ニ十代前半の婚姻の特徴は、いわゆる「出来ちゃった結婚」で大人に成り切れていないこと、家庭を作る自覚
willと実力skillがなく、辛抱と努力が足りないのです。来る日も来る日も,おなじような生活が繰り返されます。しかし荷物を自分の物と認め,受け止めれば,その危険を回避するのを助ける使命を帯びてやって来た者ということになるでしょう。また娘を連れてディズニーランドに必ず行 東京ディズニーランドが成功してのは「ハピネスを提供する企業」だからだそうです。幼い子の自我の自律性を守り育てる,唯一といっていい立場にある母親と父親の存在の重要性は,いくら強調されてもされ過ぎることはないでしょう。

つまり怒りは,死の方向で活動するエネルギーです。大人の分別で母親を何らか助ける場合には,どういう場合であれ一定の満足が得られるでしょう。もはや一級建築士や建設会社だけの問題ではありません。母親が長女よりも長男の方を,依存のターゲットにしてしまったという印象を受けます。人生を自分の演出のもとにしたがえたいと考えるようになります。しかしながら乳幼児の場合,目的は,いずれにせよ母親によって自分の全存在が認められることです。Iさんは薬をほとんど必要としなくなってきており,やめようと心に決めました。現実に満たされることが不可能な欲求と,満たされないことへの怒りが,母親のカウンターパンチを招く理由になります。

「強いられた山登り」は希望のない山登りです。しかし仕事をしないでいると,母親は冷淡な態度になります。枝葉が弱ったり、枯れたりするのは、根っこに栄養が足りな いか、根が切れてしまっているからです。この見捨てられる恐怖は,母親が赤ん坊に対して持つ怒りではむしろありません。母親との関係が確かな信頼と愛情とで結ばれていれば,「人の物は取ってはいけない」という禁止は容易に内在化されるでしょう。しかし当然のことながら,貞操を疑ったときに暗転します。自我は意識という光の世界の核であり,光は生きる意志と共にあります。ですから潜在的に,人間は二重人格といえます。

母親との関係で,甘える心が自我によって抑圧されるとすると,甘えを封じる力が怒りです。自我の抑圧機能が過剰に働くのは,母親を核とした他者への過度の気遣いとパラレルな関係にあり,それは集合的他者と影の分身たちとの勢力を増大させ,自我の無力化を招くことになると述べました。  相手の出来が自分の実力であり、自分の人間としての成績なのです。人があるところ,いたるところに様々な集団がありますが,リーダーとなるのは,当然といえば当然ですが,人を上手にまとめたり,操ったりする能力に長けた人です。自己愛が回復すればそれは可能です。全ではない者が受ける脅威とは,「欠けるものがある存在者」が、既に部分的に、無の無化作用にさらされていることを示していること、その無化作用が存在の全面におよぶことの予感死の脅威に直面することに他なりませんから来るのであろうということが第三の要点です。

 しばらくして運ばれてきたのは、三人分のお子様ランチでした。そして第二の親は,ふつうの意味での母親です。そしてやがては良い者も悪い者も,おなじ一人の母親として,統合的に捉えていくことができるようになります。仮に甘えたい心が充足しきっていれば現実にはあり得ません,甘えさせてあげたいなどとは思わないでしょう。基礎がしっかりしていなかったら、2階3階と上へ行くほど狂い  が出てくる。
 どこかでしっかりと根を張って、家族や子孫に「法の継承」をしてこそ、信仰の花が開き実を結ぶのです。自我の機能は,便宜上三つに分けることができます。赤ん坊が置かれている心的状況には,絶対性と非絶対性とのあいだの埋めることが出来ない懸隔が避け難く存在しています。

大安心幻想は乳幼児のものです。 しかし、火事場の大騒ぎのような状況が、豊かさのぬるま湯にどっぷりつかってしまった私たち日本人に国の将来を真剣に考え、政治と選挙に関心を持たしてくれることは、大変良いことです。いま上げたYさんは,恐怖をもたらした父親に取り入り,依存しました。醜い身体の私という恐怖は,ありのままの自己を受け入れられないという自己不信と恐怖に帰着すると思います。まさに末法万年、闘争堅固の時 代となり、正しい教えが失われつつあります。 「見て見ぬふり」などは、自分さえ良ければいい、自分の身にふりかからねばいいという、利己主義の典型です。

徳のある子とは、親に大切にされ豊かな愛情で育てられた子を言うのです。この場合、幼児の無意識の心から、欲動が生まれてきます。何故なら,「病気がよくならない」からです。祖母が支配的,強権的で,母親に育児の自由さえ許さなかったようです。自己がそういう状況に置かれると,当然,他者愛も他者を信じることも難くなります。  決して夫婦だけの問題ではありません。彼は,将来,父親のような職人になるのもいいが,それ以上に整体師になりたいと考えています。普通に考えると理解しがたことですが,アルコールという依存の対象を手放すと死の世界にまっさかさまに転げ落ちる恐怖があるからといえるだろうと思います。

信仰は趣味や娯楽ではないのです。どうか国民と日本という
国に活力と喜びが湧き、行く先の見える政治をして頂きたいとエールを送りたい。夫を気の毒に思い,受容的,母親的な姿勢で助けようと努めています。 《すべての存在はお互いに関係しており、単独では存在しない》
 世の中は共生き、お互いに支えあい関係しあって生きているのです。逆に,このような豊かな愛情の関係で結ばれなかった親子の場合,乳児の心の自己愛は屈折したものになり,他者に対しても屈折した心を持つことにならざるを得ません。それを免れることができない予感が、恐怖をもたらします。 そして釈尊は「四諦の法門」という、すべての苦を解決する四つの方法を明らかに示して下さいました。

3ヶ月で治る???と書いてある本を見た。しかし自己と他者は合わせて’全’となるのは理念の上でのことで,現実には’全’どころか,他者は自我の破壊要因にさえなりかねません。それは、しかしながら、課題を超克したことへの満足感の余韻と共にあるでしょう。
現実そうなりつつある。現象的世界が有限のものであるといっても、内に無限性の性格をも含み持っているので、両者を截然と区分することはできません。生存本能に駆られてのことといえると思います。他者への依存の比重が高くなれば,その関係に縛られて自由度が低下せざるを得ません。つまり,生とは究極のところ死の主題化である,という難題を人は負っています。

自我の使命は人生を切り開くことであり,自己を形成することであり,生きていくことです。そして遊びを通じて自分を全身で表現することができるからです。社会性と精神性とを欠いている裏の自我は,表の自我を傀儡化して社会性の体裁を保つことになるといえます。小安心に甘んじることが出来るようになるには,大安心幻想を捨て去ることが不可欠です。しかし,ふとしたときに,妄想的な疑惑が頭をもたげます。賢明な騎手は,その意向を探り当てることができているといえます。家を出て行けと何度もいわれました。このような他者とは,元々は母親を中心とした具体的な個々の誰かですが,しだい次第に抽象化されて集合的他者という体裁になります。

私の勝手な思い込みで,実はどこか別の医療機関に母親が連れて行ったというのであればまだしもと思うのですが。それは死乳幼児にとっては,親に見捨てられると,死の脅威にさらされることを意味しますをかけた必死の依存になるのではないかと思われます。死を賭けない成功は大したものではありません。自我がいわば神経質になっているものが抑圧の対象になり,その傾向の原点は乳幼児期にあると思います。人生の最早期のある時期までは、母親は、そのように良い母親と悪い母親とに分裂した別種の者として存在し、良い母親だけが母親であるという全能欲求が護られます。父親は職人です。

人間性を磨き、人格を高めるのが学問の根幹であり本である。従って対人関係は,しばしば人を大いに悩ませ,時によっては心の病理現象を惹き起こす要因にもなります。それら自由な機能の下位にあるものは,日常の思考や行動をパターン化し,それぞれの個人の特徴を表すものです。敢て自由ということを意識するように心がけました。つまり想起できないほどに強い恐怖体験があったか,あるいは記憶をたどるのが不可能な早期誕生後,自我の活動が未成熟な時期に,何らかの恐怖をもたらすエピソ-ドがあったかということになると思います。人間が自我によって自然から乖離し,独自の途を進む宿命の下にありながら,自然に内包されたものでもあるために,自然の無化作用の脅威を受けています。

 先日も手術の立会いがありました。そうしたことが起こりがちであれは、乳幼児は、自縄自縛に陥る途を選んでいるのに等しくなります。過食症者は,しばしば死を希求します。父親と母親がしっかりとした信頼と愛情結ばれていることが 不可欠です。それを志向する心は,純度の高いものなので,実際には,むしろ他者は幻滅を与えるだけになるのでしょう。  ⑥メンテナンスを怠らない。 学校に通って勉強する気もなく、働く意欲のない若者たちが急増し、大きな社会問題になっています。学歴や勉強不足は、必要に迫られ「よしやろう」と自覚決意すれ ば大人になってからでも、習得することはできます。

 学校がダメなら、各家庭から祝日や祭日には「日の丸」を揚げましょう。主我は、客我の意向と、このB層から送られてくる新たな生命の誕生大自然の贈り物とを引き受ける立場にあるので、両者の意向が矛盾するときに、主我は選択を迫られて葛藤します。  今ではどこにでもありそうなことだが、このような自己中心型の生き方が増えてきたからこそ、現代病として若年 認知症が増えてきたのです。A層の生命たちは、いわば、生きる喜びのために生まれてきたものが、「受け取れない。そのことをYさんの例に見てみます。このように見捨てられる恐怖は、人間であるが故の根源的なものであり、あらゆる恐怖の起源です。

また,屈折した自己愛の持ち主が,他者の中に自己を感じたとき,容易には心を開けないと思います。また例えば人と猫や犬との関係,あるいは猫同士,犬同士の関係,あるいは未知の異星人と遭遇したとしてそれとの関係などなどは,人間同士の関係と質的な相違はあるのかといった問題があるかと思います。「よい」の’一極化’がいわば赤ん坊の理想でしょうが,「よい」と「わるい」との二極化が避け難いのがこの世の原理と知るのが,’自我に拠って生きる’のを受け入れることに通じます。  急成長には落とし穴の危険がある  しかし、人間は愚かなもので『ノドもと過ぎれば熱さ忘るる』の諺どおり、現在は若者の企業家が雨後の竹の子の ように現れ、IT産業花盛りである。

生を主宰する自我にとって、死は超克することができない壁である一方、生と死の相容れることのない対立が、希望を生み出す根拠になります。脳血管障害型は早期発見早期手術などで かなり回復できるそうです。 自分さえ都合がよければ良い、人に迷惑をさえ掛けなければ良い、お互い気を使うのはイヤだなどという利己主義 の温床になっているのではないでしょうか?  世帯の差、立場や好みの差をお互いに理解し、お互いに気を使い、認め合い譲り合い助け合ってこそ家族愛が生 まれ、他人に対する思いやりの心が生まれるのです。全能幻想はいつかは綻びるのです。身近にいるかけがえのない人の死は,痛恨の極みでしょう。

 北極の氷は、毎年春から秋にかけて減少し、秋から冬にかけて増えます。自分が不幸だったという思いがあれば,子供の幸福を無条件に望むのが,しばしば難しくなります。集約していえば,親との関係で少年は,見捨てられる恐怖に支配されています。だから、「日常の中の非日常」は必要です。つまり自我が親の自我の傀儡にならざるを得なかった事情を汲み取って上げる必要があります。『日本は戦争に負
けて経済に勝った』が、オランダをはじめヨーロッパ各国は『戦争に勝って経済に敗れた』長年植民地搾取してきた
自業自得である。  ?子供は心身ともに健全、妊娠の経過も順調で、安産で生まれる。

このことは,ダルマになるのが自己形成の理想といういい方で言い表すことができます。それは主我の独りよがりを補い、社会一般の常識を教えます。すると目の前のスクリーンからは消えますが、本のソフトが削除してなければ、いつでも画面に出すことが 出来ます。そして最も危険で憂うべきことは、目の前の金、物、地位、学歴といった物質的なものだけを信じ、神仏やご先
祖様という無形の力やお蔭に感謝し敬うという信仰心、宗教心がどんどん失われており、根無し草のような国になり
つつあるということです。どんなに優しい母親でも、赤ん坊に注ぐ愛情は、赤ん坊に対するものである一方で、母親自身の利得を無意識のうちに意図するものです。

それらは本能的な自我の動きだろうと思いますが,後々の対人的な駆け引きにつながるものでもあると思われます。自律性が健全な状態にあれば,境界も健全に機能すると思われます。このような事情があるので,人間を頽落させるのはしばしば人間自身であるという無残な悲喜劇が,人生のここかしこに見られるのです。ただし,このことを経験的,実証的に確かめる術はありません。善心と悪心もまた人間に固有のものであり,二心です。しかし強すぎる性への拒否感は,他者多くは親の何らかの介入による自我の反自然的な性格傾向によると思います。子供が一番寂 しい思いをしているのです。

何かしてもらえるのが当たり前なのです。それらは人間にこそ別種のものとして存在しているように見えるものの,自然の様態としては一体のものに違いありません。なぜでしょう? 他の世界大会は一競技 だけを競い、個人のわざと栄冠を賭けて戦いますが、オリンピックは、あらゆる競技が一堂に会し、自分を生み、育 ててくれた愛する国祖国と国民の思いを背負っているからです。  お金で買えないものが欲しい! ゆとり教育→焦り教育への転換?三十年前に「詰め込み教育」はいけないと「ゆとり教育」に転換し、授業時間を大幅に短縮し、やがて週休二日制を取り入れた。

人はよりよく自分である以前に,自己の保全をはかる必要があります。 信仰の無秩序も家庭崩壊の一因
 家庭教育のもう一つ大切な役割は、先祖供養、つまり自分の存在に関するルーツ、家庭信仰がしっかり確立して
いるかどうかです。挨拶、笑顔、誠意、勤勉など当たり前ですが、できそうでできない
良いことを続ける力が必要です。また引越しをしました。それが誕生という形で自然から乖離され,自分の力で生きていく使命を負わされたのが人間です。誕生したばかりの自我は,生を引き受けるべきものですが,生光の裏面である闇死に過敏に脅かされると想像されます。世相ズバリ。

根本仏教では、三法印と言って、諸行無常すべてのものは移り変わる、諸法無我すべては関係性の中に生かされている、涅槃寂静煩悩欲を離れれば心安らかになるを説いています。人間としては,いずれにせよ与えられたことを受け止める以外に手はありません。これまでに述べてきたことがどういう意味を持つかということについては,臨床的な有用性がどの程度かということにかかっていると思います。別の見方をすれば,母親に絶対的に依存している赤ん坊は,やがて相対的依存の関係に移行していきます。そして他者が単なる他性であるに過ぎないとき,他者は無縁の存在です。こうした恐れを背景に,少女は母親に強く依存しているので,その関係が壊れることは,自己が破滅するに等しい恐怖感を持つのです。

主体との関係がしっかりしていれば,自我の自律性もしっかりしているので,極風にたじろぐこともないように思われます。怒りは死への志向を持つものの,生への方向で自我が力を回復させたときに,お役御免になるのです。それに伴って,その仮説に基づいて治療に当たることに,一定の確信を持つことができているということでもあります。治療者に向けられた怒りも,破壊的に作動しています。要は男を見る目、女を見る目がなかったのです。それがうまくいったときに,例えば「よい乳房」を手に入れることができたのです。せっかく大学まで行かせたのに、学歴も知識も水の泡と化しまったのです。

 先祖に手を合わせ、祖父母の恩やぬくもりを忘れない心、それは家族愛の原点です。見捨てられる恐怖は、精神の病理現象を招く元凶といっても過言ではないと思いますが、否定的な性格をしか持っていない、というものでもありません。家族が共通のものを食べるこ
とが共通の意識につながります。依存の方向を間違えているとはいえ,激しい力を秘めている裏の自我にいわば捕捉されている表の自我は,本来の依存対象に自らを引き戻す力は既にあきらめかけているようにも見受けられます。地位、名誉、財産など失いたくない物が多すぎると行動が鈍ります。自分の手で台本を書きたい,演出したいという意識の芽生えは大切なことなので,それを育てるのは両親の重要な課題です。

人間は,代々このように苦しみの元をつないでいく不思議な一面を持っています。それは自我が自分を引き受けようとしない姿です。何もする気になれなくて一日中寝て過ごしたとしても,それがいま自由に描ける精一杯の絵であれば,良しとしてよいのです。心理的な治療では,全人格的なものが,あるいは人間そのものが問われる側面があります。実家も安易に受け入れ、いい大人
になった子供を甘やかし子離れできていないのです。対人関係を破壊する動きになります。何宗でも結構です。ロボットに仕立てようとしているのは両親でしょう。つまり反抗的な姿勢に転じるのです。その混乱の責任は自我にあり,しかし自我にはありません。

それは関係の正常化をはかる基盤を得たことを意味します。そうなると,著しい悪しき依存から抜け出すのは容易なことではなくなると思います。 「衣食足りて礼節を知る」をいわれるが、今の日本は「衣食余りて礼節を忘れる」となっている。だから,食べることがすべてであるかのような事態になっているのです。他人の性行動が気がかりになったり,不快感を持ったりするのは,欲動の魔力を扱いかねる複雑な心の動きがあるからでしょうか。つまり,それぞれの自分がそういう体裁で存在しています。しかし定年退職になって会社を離れると,いわば支えを失うことになります。 「お子様ランチはどなたが召し上がりますか?」と 奥さんが答えて言いました。

死には,生という意識の光を回収する役目があるようです。 人としての道徳心、人情が失われつつあることは、少子化以上に亡国の危機と言わざるを得ません。作家のドストエフスキーは著作の中で,労役刑の苦痛の中でも,Aの場所にある土砂の山をBに運び,再びAに戻し,果てしなくAからBへ,BからAへと無益に移動させつづける刑罰ほど耐え難いものはなかったと述べております。家族のだれもが父親には逆らえず,母親も夫に従って,Yさんはいわば放置されて幼児期を過ごしたと思っています。集団の秩序に従うのが前提になるので,秩序を乱すものは排除されます。カウンセラーは50分ほどの時間を空けて待っているのですが,あまりにもあっさりしています。

そういうわけですから,自然のものである死が人間の脅威であるにしても,人間の敵というわけではありません。要は,一日を精一杯生きるということになるでしょうか。男児の例では,自我の自然的な機能が両親によって無効化されました。全生命というものはない,従って生きることには死が含まれていると身をもって知ることはどうしても必要なのです。そのようにして全に準じる存在形態となり,人間の現象世界を包囲している全自我に拠る人間には無と区別がつかないの無化作用に対抗している。以上の四例を上げた理由は,心の病理現象が,本来は影に隠れているはずの心の裏舞台のものたちが,表舞台に躍り出て公然化しているしようとしていることを示すためです。

そうでなければ,親は当然のように子の心の領域に侵入することになるでしょう。言葉を換えれば,この時期の赤ん坊は主観ー客観の融合した世界の住人です。自我に内属すると仮定される境界機能が,自己の内なる他者の生起に寄与していると思われます。つまり,母親の自我の傀儡と化すことによって身を守り,心の自然を犠牲にするのです。  物の豊かさが幸せのバロメーターになり、共働きの親が増え、親と心の触れ合いが希薄になって、子供たちの心 は寂しくしまったのです。それらのことは十分に説得的だと思います。しかし自我を授与したものと、生命的である欲動を送り出すものとの主体者は同一であると考えるのは、精神の諸現象を統合的に考える上で有意味です。

しだいにそういうやり方に自信が出てきました。そして他者についても疑い深くなり,愛情を持ち難くなると懸念されます。「君は一人ではないし、君も愛されている」というメッセージが、犯罪という一線から本来 の人間に引き戻してくれるのです。母親が望むように,という女児の自我の姿勢は,生きるための必死の戦略です。母親に認めてもらえないことは,一種の危機なのです。自然的であることが不可能である最大の理由は,自己なる存在が他者の存在を前提として可能であるということです。それらの要求も恐怖も克服されないまま,いわば意識の地下に冷凍保存されることになります。

つまり、他者は自己の外部に客観的に存在すると同時に、自己の内部に主観的に存在することによって、自己は他者との関係性において、「満たされている存在者」に近づくことができるのです。出来ない理由をいっぱい探しても百ならべたところで何の進 歩もありません。それが,誘拐という外部的な事件への恐れの形になって現れているようです。やがて彼女は,それはおかしいと気がつきました。滅ぼすべく誘ったのは外部にあるイアーゴーですが,それを可能にさせるほどに,オセロの内なるイアーゴーは勢力を強めていたのです。」と刻み込まれたのです。   お互いに魅力がなくなり、隣の芝生はきれいに見える?という錯覚です。

母にしっかりと愛された 安心感と満足感が、自信と思いやりのある人間として生きる力の根源になるのです。母親の方は怒りをもって,子供の方は怖れをもって,共々に治療者の下を去っていくことになります。それを求めるのは本能的なものと思われますが,一方で乳幼児には見捨てられる恐怖というものがあります。 アルバイトの店員は「お子様ランチ、確かに承りました。「こんな駄目な親の私に,どうしてあんなよい子ができたのかと思ってきました」と彼女はいいます。そういうことと同じことで,事実としてあることは認める以外にありません。  すべての国と国、家庭と家庭、人と人は皆関係し合っているのです。

 「三つ子の魂百まで」母親と子の心をつなぐ子供の掛け替えの無い宝となるのです。一人はいうまでもなく母親です。学校教育の家庭版をやっても意味がない。人間は自我に拠って、自己を発展的に展開していくと考えることができます。この分身たちは,悲しみ,虚しさ,恨み,怒りなどと共にあるでしょう。これまでに述べてきたことの繰り返しになりますが,自我に拠る現象的世界は,意識?光?生きる?有限???ということで特徴づけられるものです。別の箇所で述べた「表の自我」は,この生の大河の首座にあるものと考えることができます。Aさんは母親と二人で暮らしていますが,母親は重い悩みを持っているAさんに関心を示しません。

そうはならいように,親をはじめとした周辺の大人たちは,よくよく心をつくす必要があります。それは超自我と呼ばれているものに相当するものです。しかし,その努力は一向に報われず,望むような反応が得られません。自我の誕生と共に自然から乖離したのが人間です。辛抱し、反省し、精一杯努力したが、認めてもらえず、追い出されるように離婚された妻。それで私は,つづけて次のように問いかけました。それに伴って’心の沼’が強いエネルギーを抱えていることを表しています。不安の大素には、恐怖があります。安心がないところに、満足はなく、満足がないところに安心はありません。

 常軌を逸した事件が次々と明らかにされています。離婚率33%、なんと三組 に一組が離婚している計算になります。そういうことは一般の人には理解に苦しむことです。馬が不機嫌なのは,自我が自分の役割をきちんと果たしていないからと考えるべきです。それは,もちろん,そんなふうには見えないといって上げたところでなんの意味もないほど,激しい恐怖です。もっと立派になってから、尊敬できる 父になってから会いたい。いつかC女はBさんになつかなくなってしまいました。  そして、後日学校から、その病院での実習は優秀な成績で合格し、評判もよかったですと、お褒めの言葉まで頂い たそうです。

ミイラ取りがミイラになることはないと思います。選んだ大学は,父親が望んでいると信じています。今悪い所はせいぜい2,3個です。どこの町にもある問題です。そんなものはいないと思っても,寝つくまで母親に傍にいてもらわないと安心できません。日の丸は、世界一簡素で力 強く美しい国家です。その上で主我が客我に対して自由であるのが健全な心です。  真理は明確であり、簡単です。しかし絵と違って,それぞれの性格,それぞれの人生は,本来は出来の良し悪しではありません。自我の自律性は,個々人を,真の意味で個性的で人間的な達成に導くために欠かせないものと考えられます。

補足人間の誕生は、自我の誕生です。デズデモーナは貞淑の化身として描かれています。赤ん坊の萌芽でしかない自我は,その脅威によって破壊されかねないので,防護装置として万能感が備えられていると想定されます。 人間の命は吸う息、吐く息のバランス お釈迦さまは『人の寿命は、吸う息、吐く呼吸の間』と教えられた。肝に銘じたい。外国に行ったら《あなたには信じる神も仏もないのですか》と軽蔑 され一人前の人間として信頼されません。  自分の生命はもちろんのこと人の生命を粗末にすることは、仏教では「殺生」といい、五逆重罪の第一番に当たり  すべての人に仏性生まれつき備わっている仏さまと同じ尊い心があります。

他人しだいの人生に,満足も,充足も,安心も望めるはずがありません。この根源的な恐怖は,人間が人間であろうとするときの最初で最大の関門です。性がタブーになりがちなのは,その欲動の強さと攻撃性に関係すると思います。つまり自発的である意志に基づいたというより,他から強いられたという性格を持っているのです。この話に象徴されるようなマニュアルを超えた所の感動が、リピーターを呼ぶのでしょう。CO2削減年間29.7Kg ⑤エコパックの使用 買い物袋を持参し、スーパーで余分なビニール袋はもらわない。また強い依存関係にある母親が危機的状況にあるので,母親を支え,助けることが自分を保つ上で,不可欠の要請でした。

無意識界には二つの層があります。しかし,あるときAさんが母親を行楽地に誘い,そのときの様子を報告するAさんの表情には,ふだんは見せない明るさがありました。しかし,’方程式’を無視する無手勝流も排除されるべきです。いわばそれらの分身たちを意識下から救出するという意味があるのです。 ③率直さと勇気 過去のしがらみや今日までの功績を超越して、時代の流れを率直に受け入れ、思い切って飛び込んでいく勇気が 必要です。
 しかし最近は、同じ屋根の下に住みながらも、夫婦が別々の部屋で寝ていたり、家族がバラバラの時間に食事を
したり、子供や夫が一人ぽつんと食事をしていることが多くなっています。

自我に拠って生の世界が始まり,それは同時に死の世界の始まりであると繰り返し述べました。 「ポスト京都議定書」の新たな枠組みづくりの交渉が始まる大切な第一歩となる会議であり、各国代表はじめ世界中から集まったNGOの活動家たちの熱気に包まれていた。そのかぎりでSにとってPは心強い存在です。好ましい依存は,主体との関係が良好であるというところに行きつきます。精神医学は,人間関係の学であるといわれることがあるように,人間関係は重要です。
早速マスコミは、給与カット以外具体性がないと報道している。 省エネ技術、エコ技術は格段の進歩をしているが、技術革新だけでは温暖化を食い止める段階を超えてしまって
いるのです。

例えば、夜が来て眠りに着くのは死と区別がつけにくい面がありますし、健やかな気分で朝を向かえるのは、新たな生命の生起といってもおかしくありません。  子供は親の言う通りには育ちません。陋習ろうしゅうや悪弊
は切り捨てるべきだが、古き良きものまでを切り捨ててきた戦後六十年の教育の歪みが、今日の日本の世相混乱を
招き、日本人の心が荒廃する一因となっている。そしてその相容れ難い矛盾をもたらす源流のところに,原初の他者である母親が介在しています。誰かがよければ、誰かが不都合になる。つまり自我の光や認識能力のおよばない問題です。こういうときには休養が意味を持ちます。

しかしそれは圧倒的である無の感覚の前に怯えやすく,他でもない最も頼りとする他者なる母親によって怯えを刺激されたときに,著しい恐怖を味わうことになるだろうと想像されます。  では、今なぜ大学生に「はしか」が大流行するのでしょうか? 大きく理由は二つあります。そうであれば他者との関係も自由になります。それなのに海の荒れ方がひどくなってきたのはどうしたことかと,分からなくなってきました。これらは,いわば平均的な市民感覚が発達している人たちです。それを感じたときに赤ん坊は,死を垣間見ることになるだろうと思われます。自己を愛する心の原基は,自我機構に備わっていると考えられますが,それを賦活し,機能的に発達させるのは,他者の中の特別な他者である母親の愛情によってです。

ちなみに姉夫婦は高卒です。。面倒だからと小手  間を省くと、後からの修理に大手間がかかる。抑圧すれば怒りの川の勢いをつけることになり,意気消沈することになります。母親への恐怖から,いわば母親の自我の傀儡と化した幼いそれは,自我本来の善導する姿勢から,一転して過酷なものに転身します。夫婦は車の両輪です。しかしそれらは厳然とした人間の事実問題です。「客観的な学問の体裁」が求められているのはいうまでもありません。表の自我と裏の自我の関係は,正と邪,善と悪,生と死,明と暗というふうに,真っ向から対立するものです。 特別な要もないのに毎日のように朝から夕方まで実家に行ってお据え膳、実家の親も孫が可愛から喜んで迎えている。

メラニー?クラインが,羨望の心理の強い患者さんの中には,治療者の成功を妬み,治療の成功を妨害する心理力動が見られると述べております。不貞や欺きや裏切りや不公平などが,少々のことなら認め合わなければ成り立たないと思います。ニート問題も子供の殺人事件なども、まさに若い枝葉が勢いを失い、枯れ 落ちていく姿です。赤ちゃんがお腹を空かしてむずかっているのを母親が的確に察知し,授乳することで赤ん坊が満足できれば,即ちそれは「よい乳房」です。従って人間の根源にある恐怖です。
 お客様に便利を計ることはいいことですが、「私も儲けますが、あなたも儲けてください。

先祖供養や墓参りをして何になるのか、意味が無いと堂々と言ってはばからない。機嫌がわるいと,手伝いに来ている母親を激しく罵倒します。それを人が見ると,異常な人だと思うだろうと恐れます。すべては乳幼児と母親との関係の基調である甘えに還元されるのです。実際、A層の分身たちは、死の極を目指すことになります心には、生命の極と死の極との対立があると考えられる合理的理由があります。自我が責任を取らずに回避しているという図になるといっていいでしょう。 「先生どこかにいい宗教はありませんか?」 笑い話のような話だが実話である。集団の中で平和に過ごすことができる穏やかな心は,何よりも人間にとっての極限的なものを回避していられるという意味があると思います。

 喧嘩両成敗、夫婦は同点であり、反面教師であり、自分の心の鏡と知るべきです。治療者に対して患者の皆さんは問題を提起し,治療者としての私には,それを受け止め,有効性のある治療的な展開と還元とをもって応える義務と役割があるということです。それによって、他者との望ましい関係が得られれば、「満たされている存在者」に準じること、つまり不十全に甘んじる心になる基礎を得ます。そうであればいつも有罪宣告されるに等しい心的状況になるのです。これらの集団依存的な生き方がうまくいっている人たちは,どことなく人生の勝利者という顔を持っています。それはいうならば心の負債を大きすぎるものにしてしまう理由になります。

そして最も頼りとする最重要の立場にある母親が,他者の脅威を左右する鍵を握っているといえるでしょう。  ③夢中になっていることを十分やらせてあげる。だから何も連絡を取ってこないというのは,怒りの表現とはいえません。自我の発達が未成熟な赤ん坊は,動物に似て二心がありません。そして,また,自己の存在構造は,原基としての自我の機構に組み込まれいると考えられます。それは、例えば次のようになります。母親を助けることが何故このような意味を持つことになったかといえば,母親に大いに助けられなければならない年代に,幼い彼の怯える心は孤独に耐えるしかなかったということがあります。

身近な者の死が悲しいのは,生を否定する力としての死が,生きよう,行きたいとする人の心を日常的に脅かすものであり,その直接的な事実の現前に立ち会うからです。  長男夫婦に限らず、自分の思うように子育てがしたいと親が手を出し口出しするのを嫌がり、子育て雑誌をお手 本にして教科書通りの子育てに悪戦苦闘している経験の浅いお母さんが急増です。心の内部の法廷で有罪判決を受けたかのように,人生が地獄化することは決して珍しくはありません。心の軸が自己の中心にあれば,何かのストレスによって心がぐらつくとしても,過度にぶれることがなく,やがて心は平静を取り戻すことができます。

治療関係とは,愛と信頼の一つの形です。横糸だけでも縦糸だけでもバラバラになって布地は織れないので 伝教大師は「一目の羅、鳥を得ることあたわず」鳥を取る網も一つの網目だけでは役に立ちません。つまり、見捨てられないように、対他的な何らかの行為を試みることによって、他者との関係を計る理由があり、それは必要なことです。にもかかわらず、受験飲現場では、まだまだ大学にネイ
 ム?バリューを見出そうとする実態がある。精神の自由の問題は,次のように考えることが可能です。日常は、常に変わらない姿が、周囲の人に安心を与えます。人生は口癖のようになっていくのです。

過食症は好ましくない依存の一つです。自己は自己自身との関係でもあるのです。幼児期には活発に欲求が生まれてきます。人間の証明は自我にあると述べましたが,犬や猫,あるいはチンパンジーに,自我に類するものはないのかという問いもあって当然でしょう。自我が抑圧するものには一定の傾向があります。苦が私たちを生まれ変わらせてく七転八起、活かせば生かされる
 《時の流れは川のように留まらず、世の中の同じ状態はいつまでも続かない》
 先日、連盟の総会である温泉ホテルに宿泊しました。その父親は会社の要職にある人でしたが,妻を大変頼りにしておりました。

さまざまな精神療法,心理療法がうまくいけば,必ずこのようなことが起こっているといってよいでしょう。それら充満する怒りが,チックを呼び,夢の絵の中で,爆発しそうなロボットとして表現されています。幼い子は,二度,三度と肺炎を起こして入院しました。その怒りのエネルギーは影の分身たちを養い,集合的他者をも大きくします。殺されるというのは,母親の望むように生きなければ見離される,そうすると自分は生きていけない,精神的に抹殺されるという恐れです。Bさんは支配的な母親からも,その手先のような妹からも,怒りをぶちまけるようにして支配してかかる一人娘からも,いまは距離を取っています。

 母から子へのこの三つの伝達が子供の「根本人格」を形成するのです。新たな混乱が生じました。いうならば父親と母親とはそれぞれに二分割された二分の一以下の存在で,その母親が新たに一人の人間の親であることができるためには,他の二分の一の存在である父親と合体して’完全’にならなければならない。しかし治療者が冷静さを失わず,治療者の立場を護ることができれば,怒りをもって破壊的な動きをした分身たちが,自我に受容されたに等しいことになるのです。従って通学は欲求ではなく意志に基づきます。だからこそ、母乳で育てることは母子の絆を強める上で不可欠です。

子供だけ、夫だけ、一人ぽつんと食事をする家庭が
増えています。
 なぜ、議員や公務員は修正申告やお金さえ返せば無罪放免なのでしょうか?
 こんな現実が連日のように報道されれば、若者たちは悪いことをしても、「表面的に謝りさえすればよい、万引きや
泥棒をしてもバレたら、取った物さえ返せばそれで問題ない」と善悪の判断が麻痺してしまうのではないか!
 立派な起業者も、エリート官僚や公務員も、すべて家庭教育から育ったのです。死の存在を赤ん坊に教えるのは,母親の怒りによってです。治療的に必要なのは,依存の対象を手放しても安心できるほどの治療関係ということになるでしょうが,依存症者の心を現に捉えているのは,悪魔的に魅了する力と破壊力とを併せ持った何ものかであるようです。

両親の干渉が過剰になれば,先に上げた少年の例のように,ロボットにされる恐怖を持つようなことも起こるのです。認知症痴呆症は老人の病気と思っていたら、ここ数年二十代、三十 代、四十代、五十代、の若い世代の発症が増えている。 古来、川の流れが大きく変わる時は、大雨が降り洪水が起こって地形が変わるのです。  子供が大きくなった時、離婚はしてしまったが一生懸命働く姿に「お父さんのようになりたい」、苦労をして自分たちを育ててくれ た後姿を見て「お母さんのように生きたい」という姿を見せるのが、離婚をした親の大切な使命ではないでしょうか?  夫婦としては失敗だったかもしれないが、一人の男性として、一人の女性として子供から尊敬できる生き方を見せ てあげることがせめてもの親の責任です。

 お互いのわがままから本来の家族構成が崩れ、家庭崩壊の危機が忍び寄っているのです。しかしそういうことが可能であるのは,強い自我の持ち主であることが条件になると思います。それは既に生の動きです。このことは,両者の自我が共に主体の意向に即することができないままでいること,そのために自己形成が病的なレベルになっていることを示しており,前者の超自我がいびつに大きなエネルギーを持つに至っていること,後者では黒い子たちがいびつに大きなエネルギー持ってしまっていることを示しているように思われます。換言すると,自己の本心から見て偽善的な装いをこらして自分をも母親をも欺くのです。

そしてやがて母子分離を経験する時がやってきます。そうなると,いわば死の極北から吹きつける風が,心のさまざまな不調,病気をもたらし,あるいは悪化させ,あるいは生きる意欲を失わせたりということも起こるのです。母親を畏怖する心は,死を畏怖する心に通じるものです。 温暖化の実態は、マスコミの報道で周知のことであり、誰でも漠然と<このままだと何となく危ないな>と感じなが
らも、遠い先の話であり、国や科学者、技術者が何とかしてくれるだろうと高をくくり、どこか他人事になっています。両者の利益の矛盾に直結するのです。そういう母親に対して,Aさんも批判的ないい方になりがちでした。

事情は色々あるでしょうが、早速実践してみましょう! 甲子園で活躍する高校野球のチームやその他多くのスポーツは全寮制であったり、大会前に強化合宿を行ない
ます。死への志向性を持つ怒りに充当されていたエネルギーは,生の方向に志向する自我の自律性に所を換えることになります。それ自身が悪魔と手を携えて出番を待っているといえます。小さな時から母親の背中におばれ、
お母さんが洗濯したり、お掃除したり、台所仕事をする姿を見て、親の苦労と働く身をもって感じ、幼心に勤労と感
謝の念が刻まれるのです。それを悟らずして、離婚してやり直そうとし ても駄目です。

幼 児期から小中学校時代までの家庭教育における「徳育」は決定的に重要です。  人生の三大苦、病気、貧乏、不和  科学や医学がどんなに進歩しても、人間の三大苦はなくなりません。それは戦略的でなければならないといっていいと思います。このように考えるのは,人間が生涯かけてまっとうしようとするのは,人間に与えられた自然的な自我の機能が,なかんずく自律的な機能が,他者の介入によってさまざまに混乱させられ,自己を失い,それをもう一度自然的な機能に修復することであるらしく見えるからです。また,無力な国王を捕捉する暴漢に襲われ,拉致される恐怖たくらみもあるようです。

もともと姉が歴史好きで、マニアックなところはありますがまた、遊びや趣味はゲーム好き?漫画好きで、部屋は漫画とゲームでいっぱい。それは仮説以上のものですですから自我の実体的な根拠を名指しすることは不可能です。父親は家族の全員が覚えているそれら昔のことを,ほとんど想起できません。ある時期には,乳児はあらゆる人や物を我が物にしようと攻撃的になるのです。女児の母親の例では,女児はごく幼いときから,喧嘩の絶えない両親の関係と,自分をも含めた家族の関係との危機を救おうとしています。そして’もう一人’は,人間に自我を授ける力を持ったものです。

本来,甘える心はまさしく小児のものです。母親の補佐愛情を受けて,自我の原基が刺激され,徐々に自ら光を発する力をつけていくのです。社会的な機能は,主に日常の行動に関するものです。抑圧機能を早々と活動させる以前に,努めて好きなようにさせておく自律機能の発露を喜び,自己の力を知ることが,親の愛情というものです。そして、置かれた状況が客観的にも困難なものであれば、主我が客我を凌駕する力強さがもとめられます。長女は当然のように一緒に住むと決めていましたが,今度は部屋が狭くてとても無理でした。そして地上の者となった人間の無意識世界に,主体は鎮座して沈黙のうちに自我がいかに自己を導くかを見守る。

自我の機構には,境界機能も含まれていると想定されます。神棚や仏  壇のお祀りしていない家は精=心棒のないのと同じです。成功者が心の表舞台を描いても,それは下らない自慢話になるだけで人の共感は得られません。見捨てられる恐怖の克服に失敗して,完璧な他者,全なる他者を求める大安心幻想の支配を受けているかぎり,心の平穏は困難です。そしてその「科学性」とは,その推論の説得性,合理性にあります。ですから,どうしても世俗的です。事実,こういう夢を見て報告をする気になったのは,自我が成長した証です。人生はどのように生きてもよいとはいえません。

そして自己ないしは人間存在には,無限的世界も含まれています。それがなければ,母親との関係にしがみつく患者さんは,治療関係を築く間もなくあきらめてしまうでしょう。このような場合に,自我は主体と最も望ましい関係にあるといえると思います。従って,自律機能はより生得的であり,抑圧機能は後天的です。キリスト教文化の影響の下にある欧米人にくらべて,日本人にはこの傾向が強いのは,かねてからいわれていることです。  なぜ大学生に「はしか」が大流行するのか?  今、東京、埼玉、千葉などの首都圏や大阪、名古屋など都市部の大学生を中心に「麻疹はしか」が大流行し、休 校する大学が急増している。

ルールがありますが、それはあくまでも基準でありみんなが幸せになるための目安なのです。身体と接する層を最下部に,自我の層を最上部に置くのが,心の機能的ー構造的なヒエラルヒーです。ある程度成熟した自我がこのように母親の介入を受けることになり,それによって,素朴な自己表現から,より高次のものが求められることになります。つまり動物にも心があると仮定すると,それは単一のもので,人間のそれは,いわば二心であるということです。それぞれの持って生まれた自我の性状にもよるので,他者の脅威を受けつつ,それをやがては跳ね返していく力を導き出す子もあるでしょう。

独自の実りある途を行く少数の人間エリートと,世間のクラブ的な社会に安住する常識派とのはざまに置かれると,どうしても危険な状況にあるといわなければなりません。つまり甘えが満たされている関係であれば,幼い子の心に生じたさまざまな欲求は,おおむね自我に受け入れられ,護られるでしょうが,満たされ方に問題があれば自我によって抑圧される傾向が強くなりがちでしょう。裏の人格の中核にあるのは,主体との関係を欠いた裏の自我ともいえるものですが,こちらは死に関わるエネルギーと一体化します。嫉妬の激情にかられたオセロは,ついに最愛の妻を殺してしまいます。

形而上学的であるといえば,人間存在はそうしたものなのです。でも生まれつき身体が弱く、一才の誕生日を待たずに亡くなってしまいました。つまり人間は小安心に甘んじることができなければ,無の感覚に脅やかされることから逃れることができません。 救いを与えてくれる対象を外に求めている間は根本解決はしません。本人がしたいようにさせていたのでは,つまり意志の弱い子になってしまいます。彼が抑うつ感と無気力感に囚われることになったのは,母親を助けようとする心に無理があり,その一方で自分を押し殺さずにはすまなかったからです。やがては,母と子が対等の関係で,それぞれの自由を尊重することで成り立つ,しみじみとしたものに変わる可能性も出てきたといえるのです。

そして、それと共に、「欠けるものがある存在者」であることを受け入れる準備をしているらしい、と推論することが可能です。あるとき,「4歳の上の子の足をへし折ろうとするイメージが湧いてきて,怖くなった」といいます。自我が心の秩序を保つために,自我のときどきの価値規範に合わないものを抑圧するのは,境界機能を利用していると考えられると思います。自我による世界は,誕生によってはじまり,死によって終焉する有限のものです。親として、自分自身はどうなのか。過食地獄に長年のあいだ苦しんでいるある女性に,次のような意味の問いかけを試みました。そしていっそのこと自分の手で???と思いつめることがあります。

ほとんどの若者が高校か、大学に進学する反面、働く気のないニートや正社員として働く場所がないフリーター が急増している。医師がIさんの考えに賛成してくれたことも心の励みになります。何故ならそれは重要であり,そうでなければならないとはいえ,心の組織の破壊でもあるからです。それは無意識的にであれ,死の存在を教える意味を潜ませることになるのです。
それが分からないから、凡夫信仰の浅い人や信仰心のない人は反対の行動をとり、不幸になるように不幸になるようにと一生懸命頑張っているのです。生と死をはじめ,全と無,自己と他者,男と女,条理と不条理,愛と憎しみなどなどというように。

そして自我に拠るかぎり,世界は生と死に二分されて現前します。つまりそれらは死を志向する勢力です。自分がなんだか分からないという気持ちに悩まされることになります。それは主体との接触がうまく図られるているということでもあると思います。
 その責任はマスコミの報道の仕方にも問題があります。Bさんはいまは怒りの存在と,それが蓄積されてきた長い心の形成の歴史と,母親のまったくの支配の下にあったこととをよく理解しています。しかし母親は絶えず視界の中にいます。母親への絶対依存の関係にある自我の未成熟な時代の乳幼児は,客観世界の展開がまだ始まっていないので,まったくのイメージの世界の住人です。

Yさんの絶望は,長女の将来を悲観する気持ちと一体になっています。
 心の成長をおろそかにした家庭に原因があることを猛反省しましょう。このあたりの事情は,子供もうすうすとは分かっていると思います。その上で自我の責任において,これらの人為的に混乱させられた自然を,元の自然へ回復させる作業をしなければなりません。目の前の患者さんにフロイトの方程式を当てはめようとする治療者があるとすれば,彼は反フロイト的な行為をしていることになります。ということは自我の力が及ぶかぎりの現象的世界が有限界であるのに対して,及び得ない世界は無限界ということになります。

 そんな親子の絆があれば、安易に子供を捨てたり、無慈悲な育児放棄などはしなくなるのです。ロボットの意味は,言葉によっても,行動によっても,意志を伝える力を持てないということかもしれません。勢い子供たちは、のびのびしたゆと りも、情緒豊かな感性も、覇気も失い、ますます元気を失っています。オセロが妻を愛する心情は一途なものであり,生きる喜びそのものです。そして意識が芽生え,心が生まれることにより,光と闇の世界が始まります。ということは,少年は,無意識的な心によって脅かされていると考えてよいでしょう。 ②社会性と国際性の涵養かんよう 文部省は「完全週休二日制の実施や教育カリキュラムや大学受験システムの変更」など教育改革に取り組んでいる。

 仏教では薫中といって、良き縁や良き教えに毎日ふれている間に心にその香り雰囲気 が染み付いてくると教 えています。それなら危険な状態になったとしても母親に助けを求められるのです。そこには悪魔的な心に捉えられ,引きずられていく様相が表れていると思います。あわててゴミを捨てに外へ出たときに,帰ってきた母親に出会いました。このことはBさんが,幼い時代に両親にうまく甘えられなかった何らかの心的事情があったことを示していると思います。それはずいぶん理不尽な話です。横暴なPに依存するSは,国王として自立的でないので,意識の地下から突き上げてくるCの抗議の気配に脅かされ,ますますPに取りすがろうとします。

こうした状況が長期に渡れば、やがては弾性限界に達したバネのように、心の弾性がくず折れるとしても不思議はありません。敷衍すると,例えば純一なる善を追及するとして,それは理念としてのみの概念的存在で,実際には善の否定,つまり不善が尽きることなくついてまわればこその追求です。Yさんは,年上のその女性に取り入ろうとしたようです。病気で命を落とすことになる可能性を排除できません。それは’元気’を挑発するのです。そうした困難に耐えて探索行為が続けられるうちに,心的現象の連鎖として,里程標のごときものが自然に見えて来ることがあると思います。’元気であること’は子供にとって大切ではあるでしょうが,そこには生の裏面である死を意識しないで済ませるという意味もあると思われます。

 『亡き祖父母の名前がフルネームで言えますか?』
 あなたの子供は、亡きおじいちゃんやおばあちゃんの名前がフルネームで言えますか? どんな人であったか、ど
 んな活躍をしたのか知っていますか? 今必要なのは『命を大切にする家庭教育』なのです。甘えがどの程度満たされているかは,母親との関係の良し悪しを占う道標になります。???幼児の自我が,ほんの一瞬無意識の薄明の中から小島のように浮かび上がったかと思うと再び無意識の中に沈んでしまうように???偉大な母なる自然に守られ,抱かれ,支えられ,あやしてもらい,そして善きにつけ悪しきにつけ彼女に身をまかせきっている。

この大学生の場合は,関係念慮に苦しんでいたときは,将来の進路を決められず,一途に混乱していました。カード並べやお 人形並べであったり、マンガのお絵書かきであったり、子供が目を輝かせ夢中になっていることを見逃さず、誉めて 伸ばしてあげることです。身近でかけがえのな い友達や恋人も自分の思うようにならないと簡単に殺してしまう。前章で取り上げた小学校2年の男子の例です。生まれる前には光も闇もない世界にあったものが,生を受けることにより,赤ん坊は,早速死におびえる者であらざるを得ないのです。そしてその欠かせない他者の介入が,自我が節を折る理由にもなるのです。

他者であれば,「よい」のも「わるい」のも,その理由が外部にあるので,気分がよくても,わるくても我慢しなければなりません。それぞれのコンプレックスには,それを刺激する特定の体験があり,そういう折に思いがけない激しい感情状態に囚われることによって,その存在が顕かにされます。物事の批判や悪い面だ
けではなく、もっといい面を国民に伝えるバランスの取れた報道が大切である。むしろその逆に,満たされていない情緒が拒否感を持つ理由になるのだと思います。というのは,無意識界に潜んでいたと思われる情緒的なものへの欲求が活性化したと思われますが,Yさんの自我は,それを受け止めるだけの力がなかっただろうということです。

それら幼いものたちと同じように,心の境界機能が極めて未発達なレベルに後退していると考えられます。
 信仰は持っていても、自分の都合で宗教を転々と渡り歩く宗教ジプシーも意外に多いのです。そのあおりで夫婦喧嘩がしばしばあったといいます。 ①苦から逃げたり、ごまかしたりせずにしっかりと向き合う。このままでは、まさに国家存亡の  これは、戦後六十年の家庭教育の責任であり、葬式や年忌法事、伝統儀式の継承のみにあぐらをかいて、布教教 化を怠ってきた宗教者の大きな責任です。心の沼の勢力が大きくなっているので過敏になり,ストレスを受け易くなります。

母親が自分を捨てるとは考えられなくても,不慮の事故に遭わない保証はありません。事例の少年にこれを当てはめると,S国王は少年の自我,P国は母父親で。しかしこの恐怖の度合いが強いと,必要以上に甘えることを断念してしまうようになるかもしれません。それが万能感の本来あるべき姿です。
 「うきつらき 心に添わぬ ことをみな よきに悟りてよろこび得よ」 自分を害する人、気に入らない人を拝める人になりましょう。  人生の価値は学歴や財力や地位だけで決まりません。万能感と自己愛とを完璧に保証するはずのものであるがために,絶対的依存の対象であった母親は,自己に内属しているのでなければならなかった。

 いま日本の現状をみると、家庭や学校においては親殺し、子殺し、いじめ、行き過ぎた核家族化、極端な個人主義 や自分勝手な自由主義による家庭と学校の崩壊。  「明日の????」は、会社において上司や取引先にはペコペコするが、部下にはあまり耳を貸さない自己中心の猛 烈部長。神様や仏様ご先祖様は目に見え ませんが、私たちの生活を守ってくださる人生の大切な基礎であり、根本であり、心棒鉄筋棒なのです。しかし幼い彼は孤立無援に等しかったようです。世間的な成功を収めた人は,会社なりの組織にいるかぎり他人から評価され,それに助けられて自分の価値を支えることができるでしょう。

あくまでも’よい子’を求めるのです。部活動やスポーツで心身を鍛え、大競争時代の荒波を乗り切れる体力や粘り強さ、協
 調性や連帯感など培うこと。確かである保証が純粋客観に求められるのであれば,人間にはそういうものは存在しないことになります。犯行の残忍さの反対に幼稚で身勝手な行動がある。甘えといえば甘えですが,小児心性の支配を受けているのですから,ふつうの意味での甘えとはいえません。そして甚だしい依存の仕方をしがちです。この克服不能の懸隔が,赤ん坊をどうしても脅かします。
 儲けを独り占めして、一軒だけ残るのが勝ち組ではありません。恐らく,母親が大好きなのだという自己欺瞞にも陥っているのではないでしょうか。

たとえ漂流しようが構わないでほしいということは,確かに他人の与り知らぬこととはいえ,他人との関わりを欠いた行為というものはありません。母親にどうしても頼りたくなります。それらのことは,以上に述べた理由,自我に拠る人間に特有の解き難い矛盾に起因するといえます。情緒的な満足は,自我の根が無意識という大地にしっかりと下りていない乳児には,欠かしてはならない大切な肥料です。それは意識は何もの何ごとかについての意識である,というのとおなじ意味になります。  「子供に会わせない!」とどこまでも意地を張る母親。個人の権利とプ ライバシーが行き過ぎて、表向きは同居でも真実は家庭内別居、温もりのないバラバラの家庭生活になっている。

かつての強力な国家的集合体ではなく,個々の大小の集合体に依存します。 信じる親から堕されるかも知れないという胎児の恐怖は計り知れない。自己と他者の関係は大変重要ですが,それはいま述べたような理由によるものです。休みのたびに遊 園地に連れて行くマイホームパパが父親の役割とは違います。産着にくるんでミカンのかごに入れ、名前を書いたお守り札を添えて????、お金持ちの家など育ててもらえそう
な家の軒先にそっと置いたのだという。心配しないでね。あんまり高望みはしないようにしてますが‥いとこ同士、年が離れてるのが救いかな??って思ってます。母親自身が幼いころにその母親からされたのと同じことを,我が子にすることになります。

それを保護するのが,なによりも母親の愛情ということになりますが,母親の力でも補い切れないものがあります。
世界の一流と言われる学者や政治家、教育者や企業者は神仏の存在を自覚している。咀嚼力が落ち、脳の発達が遅れます。そういう折に,母親の顔が悪鬼の表情に見えるのかもしれません。いわゆる良い子の多くは,以上に述べた自己の自由の意味を感覚的に理解できません。
 今回の参議院選挙もこれからの選挙においても、地球環境の保全のために本気で働き、利益追求の企業にもはっ
きりと規制と協力を言える人、実行できる政党を選び、自らも少欲知足の生活をする国民になりましょう。

各党の代表者によるTV討論会を見るとなるほどと言う意見もあるが、またそれぞれに無理な考え方もある。逆にいえば,母親への甘えを抑圧して満たされない思いをしている乳幼児の場合は,母親に受け入れられていない,愛されていない,信頼されていないという思いに駆られがちになるのは必然でしょう。この場合の主体的自我は,いわば外在する集合的他者ということになり,それは天皇を頂点とした権力機構であるといえます。 確かに実際親の働く姿を見て育つことは、子供心にも働くということの大変さや仕事に対する責任、やり遂げた時の達成感などが感じ取れると思う。  元気に挨拶することや、お掃除や親の手伝いなど家の役に立ったりすること、人に親切にしたり思いやる心などよ り、テストで何点取ったかが親の最大の関心事であり、百点さえ取れば欲しいものは何でも買ってもらえる、身の回 りのことは親が全部してくれる????ような生活では、子供の心は成長しません。

発病は,意識の姿勢が崩れるということでもあります。中学生の授業の一環としてわざわざ企業体験するよりも、小さな頃から家庭の手伝いをさせ「働かざる者食うべからず」という責任感「自分も家庭の役に立っている」という充実感と感動を植えつけることが根本ではないでしょうか? 子供の躾、ぬくもりある家庭作りをおろそかにして、夫婦共働きで物の豊かさを追い求め、高度経済成長、バブルの時代に蓄財した富が皮肉にもニートを養う温床になっているのではないでしょうか? 女性が安心して働ける社会よりも、安心して子育て家庭作りの出来る社会、経済システムを模索するべきではないだろうか。

逆にいえば,一般には,人間にとって重たすぎるものは回避するという,一種の嘘があるといえると思います。つまり,互いに小安心に甘んじなければならない頼りない身分であること,従って互いに助け合うことが必要である信頼と愛情とによってこと,大安心はないと知ることによって,自分で自分に小安心を提供しつづけることが求められていること,母親と自分とは支配ー被支配によって全的に一体化するべきものではなく,相互に分離ー独立した存在であること,従ってそれぞれが人格という個的な存在であり,それぞれに自由であること,などなどが自然のものとして受け入れられることになります。

母親が赤ん坊に甘えてほしい,甘えさせてあげたいと思うのは,母親自身が甘えたい心を持っているからに違いありません。いずれにせよ喧嘩という真剣な行為を通じて,自分を知り,他者を知り,怒りを体験し,対立する緊張を知り,断裂を味わい,和解する感動を覚えます。  ①気をつけて  文字通り、外へ出れば何が起こるかわからない物騒な世の中になりました。子供という枝葉が枯れたり、若さの勢いが無くひ弱になっているのは、 親ご先祖という根っこことの関係性が無くなり、枝葉に栄養が行かなくなっているのです。そのような相互的な力動関係が自我の自律性の根を護り育て,内なる主体へと根が伸びていく素地を作るのです。

働いているお母さんは、時間的にも
肉体的にも大変でしょうが、「人はパンのみに生きるにあらず」子供や夫とのコミュニケーションや愛情が、お金や物
の犠牲になってしまっては本末転倒です。結論的にいえば私が果たさなければならないのは,以下のことです。目に見えない神仏、大自然の力は『お見通し』であるという敬虔けいけんな人生観が今必要なのです。心の指導者が心の内部に存在せず、外部にのみ存在する乳児期は、乳児と母親とは絶対依存の関係にあります。否,赤ん坊もこの不安から免れることはできません。感謝やご恩返しなど考えていません。
 人間には気というものがあります。

生きるエネルギーにあふれた子達に,そういう役割は期待できないように思います。前者が表の主体と表の自我の蜜月がはかられているのに対して,後者は裏の自我が表のそれを圧倒する力を持ち,裏の主体との接触を深めてしまっていることの表れといえるでしょう。その奈落への転落を免れるには,依存の対象である母親が,幻想としてであれ絶対者である必要があります。先生のこの言葉に,A君は怒りを覚えたに違いありません。それらは状況によっても違うはずです。性格の健全な形成には自我の自律性が鍵を握ると思われます。それらはいうならば死をかけた依存ともいえます。
 そして、何よりも長い時間お母さんとのスキンシップを持つことが出来、まさに一石二鳥の子育てです。

 活力とは何か。一例を挙げれば次のようになります。必ず成功すると決まっている試みはありません。希望のない山登りは無意味です。罰を与える神仏では なく、病める人も貧しき人も迷える人もすべての人を平等に救いの道に導き、神の子、仏の子として私を見捨てずに 見守ってくださる「神仏の愛と慈悲と信頼」が、自暴自棄に孤独感に打ちひしがれる少年の心を繋ぎ止め、家族との 心をつなぐ絆となるのです。そしてその中心に自我の自律性があります。甘えられない母親との関係では,自分は愛されていない,嫌われている,価値がないといった考えに囚われることになり,それは自己愛が傷ついていることを意味します。

ですから他者との関係を必須のものとしている自我には,抑圧機能は,自己を護るために欠かせないものです。
 公の責任ばかりを言っていても国は良くならない。しかし、こうした客我にいかなる場合でも従っていると、「退屈な人」、「変わった人」、「融通が利かない人」などなどといわれかねません。人間に善心があるかぎり悪心は必ずある,しかし社会性と精神性とが欠落している悪心は,裏の自我による世界のものであり,公然と心の表舞台に乗せることは許されない???ということになります。安心がなければ満足はありません。心にとっての指導者は、心の内と外に存在しています。

しかし,一方では,諸々のクラブから,排除され,疎外された人たちも必ずいることになります。母親には赤ん坊にそれを教える役目もあります。紹介者のWさんが,「様子がおかしい,いつもと違う,ある人と自殺の計画を立てている。自我の解決能力が問われているのです。幼いころに甘えを満たされなかったという感情が働くのです。例えばふだんは落ち着いている大人が,子供が騒ぐ声を耳にするときに限って,その場に居たたまれない強い不安に駆られるとすると,幼い時代に甘えを満たされなかった体験をしている可能性があります。正しい信仰心や価値観を植え 付けてあげることが、親としての本当の応援であり、将来必ず役に立つ生きた教育投資なのです。

感情が鎮まれば,更に落ち込むことにもなるのです。抑圧機能は他者を前提としたものです。  ③設計図が出来たら、しっかりした土台を作ること。例示したこの女性の幼い子について見れば,底深い恐怖心がいわば仲立ちとなって,女児の自我は母親の自我に密着し,その上で母親への愛着という体裁に変質したのでしょう。情けないことである。このことは人生の難しさを教えてくれます。自由は当然のことながらそれぞれのものでなければなりません。自我の抑圧機能が過度に働けば,自律機能を歪めることになるので,’心の沼’が勢力を強めることになります。自分だけが幸せならいい、自分だけ 儲かってリッチになればいい、とにかく自分の思うようにしたいと、自分のことしか考えない脳は、どんどん退化し働 きを失ってしまうのです。

しかし一方では,このような集合的他者が内在化され,心の指導者になっていくと,幼児に許されるような内発的な自己表現が貧困化していく理由になります。自己の存在構造は,自我機構を拠り所としていると思われます。人生という山登りは,自ら意志して開始されるわけではありません。そのようなことですから,判断という心的活動を支えているのは,境界機能の’受け止める力’と自律機能であるといえます。父親と母親が喧嘩をすると,母親に抗議します。 ある日、ディズニーランドのレストランに入った夫婦がお子様ランチを注文しました。それは母親の怒りが自分に向けられるのを恐れる自我が,扱いの厄介な甘えに対して怒りを持つということでもあります。

境界機能には,内外の問題を受け止める役割があると考えられます。本当に親としての責任を果たす重要な人生の始まりです。関所での検閲を厳重にする必要があるのは,個人的無意識層にあるものが,単なる過去の体験群の集積にとどまらないからです。夢のこのメッセージに注意を向ける気になったのは,自我が,おそるおそるながら従来の母親への姿勢に懐疑を抱くようになったからですが,それでも,いままでの恐れが強力なので,自分が持っていた母親のイメージに異を唱えるのは,やはり容易ではないのです。心の中核にある自我の機構には、内的な他者の原基があると思われます。

そして、自分のために動いてくれる母の愛情を感じ、安心感が育まれるのです。自由な自我は,内在する主体との関係が保たれているかぎりにおいて機能すると考えられます。従って自己の存在構造の原基は,自我機構にあると考えられます。。過食症者の多くは’よい子’です。治るとお母さんが心配しなくなると思う???。P国の安定はS国の犠牲の上に成り立っているのだが,S国の安定のためにはP国の力を必要としているので,国王は自国が不利益を蒙っているとは考えない???S国は国民の不満を黙らせることでP国との友好を維持できる???不利益を蒙っているのを知っているのは,S国の市民たちCである等々ということになります。

怖いので逃げた。一方,非凡な個性派は,他者との関係が比較的ゆるやかで,それだけに自由度が高いと思います。そのように親子の心の交流が進展すれば,心の自然を歪めてしまった人間の介入が,改めて人間の介入によって是正され,修復されることになるでしょう。母親との間をつなぐ危うさをはらんだ絆を手放すと,無人の荒野に一人放り出されるのに等しい恐怖を持つのではないかと想像されます。死によって生が終わるという意味では生は有限です。生という光を意識するものにとって,闇という無限,無,死は絶大な脅威になります。 「人間生活」とは<人の間に生まれて生かされる>と読みます。

自我がそれなりに成熟して自律機能が活動しはじめてからも,いうならば無化される脅威に対抗するために,自我は他者との関係を不可欠なものとしています。衰弱している自我は,母親との依存関係に殊更の愛着を持っています。 一人ひとりの決意と一軒一軒の協力が、STOP温暖化の大きな力となります。自己愛と他者愛は相互的なひと組の関係にあります。意識的にもさることながら,本人にも気がつかないレベルで重要な問題を隠蔽してしまうのは,なんら不思議なことではありません。そしてそれは死へと斜傾する方向性を持っています。赤ん坊は光を意識することにより,闇を知るのです。

ここに大きな原因、種まきがあるのです。いずれにしても自律機能が健全に発展していける心の状況にならなければ,人生は「強いられた山登り」になります。そして最近辞めた会社の元上司と個人的な交際をしていて,彼は父親ほどの歳だが何もいわない方がよいのかといいます。Yさんの目の前で縊首自殺を試みようとしたこともありました。それは、客観的な外部の他者に認められるかどうかが、自己の存在意義にかかわることになることを意味します。オギャーと息を吐いて誕生し、息を引き取って
死ぬ。そして自我によってまたしても引き受けられることがなかった怒りそれは,はるか昔,見捨てられる恐怖体験によって抑圧された怒りに淵源を持つものでしょうが,改めて怒りの沼を刺激して,A君を押し流そうとしたのです。

このことに鈍感な母親は、母親自身が無意識界に何らかのコンプレックスを持っているに違いありません。しかし母親に舟から下りてもらうわけにはいきません。大人たちからそれらが得られないときに,母親を助ける役割を,いわばそれら不在の大人たちによって強いられたに等しいことになるのです。大人たちが役目を果たしている姿があれば,それでいいのではないでしょうか。自我が正当に仕事をしたときには,生へのエネルギーが勢いを増し,他者の介入によって自我が節を折ったときに生へのエネルギーは供与されず,そのエネルギーは自我が護れなかった分身黒い子を作り出し,心の沼が広がります。

パートで母親不在の子供たちが、コンビニ弁当を買って店先の地べたに座って食べているジベタリ
アンの中高生を見かけます。そして,認めることができないあいだは心に平穏はないのです。赤ん坊以前,自我に拠る世界が現出する以前の世界のものになるしかありません。あるときは「よい乳房」によって満たされ,あるときは「わるい乳房」によって傷つけられることが,やがて自他の弁別がつきはじめることに重要な意味を持ちます。それは自我がまだ機能を開始していないか,未成熟な機能でしかない時代の話です。  被害者はもちろん、加害者になった子供たちのいずれも、家庭生活における親子の関係や学校生活での人間 関係の歪による犠牲者となっているのです。

それは他人に対しても,何らかの迷惑が及ばさないわけにはいかないでしょう。母子の分離の気配を感じ取るときに,その動きに抵抗しようとしているように見えます。アメリカ人に比べ背も低く浅黒い日本人が、ちょんまげに羽織袴、日本刀を腰にさして行進する姿は滑 稽で時代遅れの姿であった。この関係を画家を例にして図式的に示すと、以下のようになります。そして,「ここ実家の敷地の一角にある古家を出て行け」といわれたときに,Bさんは転居の決心を固めました。しかも自然的であることが常に目標になるという矛盾した性格を強いられております。これら表と裏の自我の拠り所もそれぞれに違うということですが,それは別個に存在するというよりは,一つの主体の中の二つの機構とでもいうべきものではないかと思われます。

それに相応して,自我の主体との関係はなにがしか接触不良に陥るのが,人間存在の宿命的現実です。それは年齢的に幼すぎるためではあるでしょう。自我が未熟な,より幼いレベルでは,幼児の満足感は主に遊びを通じて得られますが,それは主に母親によって補佐される必要があります。国際競争力をあげるためらしい。 「お母さん働きに行ってよ!」 「だってお母さんが家にいるから、放課後に学童に入れてもらえないから、友達と遊べないよ、つまんない!」 まさに教育の本末転倒である。本人大学生の母親観は,「怒ると怖い。このような意味での良い母親の保護の下であれば,多かれ少なかれ幼い自我が傷つけられるのは避け難いにしても,やがては自然的なプロセスの流れとして,赤ん坊の自我は統合機能を整えていくことになります。

欲しい物を獲得するのは,自律機能によります。出来ることがあれば力を惜しまない姿勢が見えています。甘えを封じられることは,これらの意味がまったく逆になります。その役割は自我に与えられているのです。ポンポンと軽くたたくのではなく、「良い子に育つんだよ。「馬さんに会いに行く」のは,何よりの楽しみです。しかし身体のいたるところに,その兆候があるようでもあります。しかしながら親の側のそのような意味のある理解の仕方は,子への愛情に違いないでしょうから,それは子の心を安心させる大いなる理由になります。そのことは誰もが目指すべき理想でしょう。愛情と手間暇をかけ。

その’内なる母’は,直接的にIさんの自我を監視しています。そして自我の機能が開始されると,主観性に客観的側面の根拠を与え,客観的,身体的なものに主観性精神性をもたらし,心に外形と内実とをもたらして統合する???。’追求する自我’であるかぎり,精神性と社会性との追求ということになるでしょうが,人間についてまわる身体性と他者性とがそこに干渉してきます。母親への怒りの存在を認めたBさんは,ようやく母親の二心に注意を向けることができたのです。そういう弱さを自覚し,見据えることで心が成長するのでしょうし,子供の心の成長も助けることになるはずです。

その恐怖と不信とは,無意識界に抑圧されている幼児心性がもたらすものといえるでしょう。そういうときの顔は怖い」と,相談に来たことがあります。時代は変えるものではありません。Bさんは50代の主婦です。恵まれた自己愛を持つ心の持ち主が,他者の中に他なる自己を感じたときに,他者への愛情と信頼が生まれるでしょう。つまるところ,自我を拠り所に意識による光の世界を生きる人間は,意識の消滅によって世界は闇に溶け去ります。一目置くようになったのです。それは人間以上の存在と考えないわけにはいかないものです。その最重要の他者とのあいだの関係が良好である証は,甘える心が満たされていることです。

赤ん坊は,心のこの動きを単純に喜ぶことはできません。怒りはそれに伴って生じる感情です。進むべき道をしっかり示す羅針盤の役と経済的に家 族を守る男の力強い後姿を示すことです。
 寝食を通じ家族の絆を強め、心の変化に気付き、苦しいこと悲しいことを共有できる笑顔の溢れる家庭を創りまし
 赤ちゃんポストは是か非か?
 赤ちゃんポスト設置の報道に賛否両論、その是非が問われています。つまり乳幼児が,母親に対して持つ支配欲求に通じる心性といってよいだろうと思います。それは少なくとも一つには,自我に係属していると考えられる自己と他者とのあいだの境界によるのではないでしょうか。

更にいえば,幼い子の自我が母親のそれに取りすがるように,先生の自我にも取りすがりたかったのだろうと想像されます。従ってここでいう自我の自律機能は,この大河に即して機能する方向性を持っており,内発的であるが故にエネルギーを抱え持っている,といい換えることができます。従ってそれを生み出し、意識へともたらすものは、人間が意識できる範疇を超えているものによって、というしかありません。母親が夫の態度を責め続ける状況で,私がこの夢の話を持ち出しました。餓鬼と化したといえるほどの激しい力を持つ裏の心を受け止めるのは,容易なことではないでしょう。

今年2007年は、6月までは例年通りのスピードで減少していましたが、7月から例年を上回るスピードで減少し、8月15日の面積は、過去最小だった2005年を大きく上回ったことがわかりました。とりわけ意識と無意識とのあいだと,自己と他者とのあいだを分ける境界が重要です。そのときに,仕事をするときに動員されたエネルギーは,より多く負の方に回ることになります。自我に拠る世界は現象的世界です。国境が,相互にそれぞれの独立を尊重するものであり,それを護らなければ紛争になるのと似ています。  しかし、子育ては母親一人の責任ではありません。心のこの世界が自我の仕事の正のものです。

一時的にそのことで憂鬱になりましたが,「私は,私だ,お母さんとは独立しているんだ」と思い返して心の安定を回復させることができました。それらの恵まれた人たちは,自分自身の中に拠り所を持ち,自己を評価する基準を持つことになるので,他人の直接的な助けを必要としません。赤ん坊が見捨てられる恐怖を持つのは,そのときだろうと推測されます。欲を捨て素 早く決断しないと、幸福の女神は通り過ぎてしまい、チャンスを逃します。親,特に母親は,子に対して,心の境界をしばしば無視して侵入します。赤ん坊は極度に感覚的な存在だろうと思われますが,その意味は分からなくても感覚でそれを捉えるのではないでしょうか。

 自分を害する対象は自分に救いをもたらす拝むべき仏の分身なのです。しかし,例えば会社を辞めたあとに,虚無感に陥る危険がないとはいえません。こういうときには,裏舞台に流れていた負のエネルギーが正のものに賦活されるので,一見して元気になります。それが間違いであると気がつくこともあるでしょう。人生そのものを受け止め,直視しようとすることがなければ,芸術も思想も成立しません。しかしながら,良くも悪くもこれもまた母親の二心であることに違いないのもたしかです。母親の自我の傀儡であった自我は,裏の自我の傀儡になるしかなくなる必然性をも持っているといえます。

診療への協力をお願いしたところ,こころよく聞いてくれました。元々は,両親の口論が激しかったのですが,最近では母親も落ち着いて,自制することができるようになっています。そういうことと関係があると思いますが,母親がおかす一般的な間違いは,子供の領域への侵入です。この日本の 伝統と美徳が崩壊し、日本の精神の宝が失われてしまったのです。その職業が両親の身体を癒して上げるのに役立つと思うからだといいます。自然が全的な存在であるとすれば,人間は能力的に二分の一以下的な存在です。  いま日本の子供たちの学力は、どんどん低下し、数学の応用力は世界第八位、読解力にいたっては十四位と低 しており、アジアだけで見てもトップレベルではない。

そして生を志向する心の首座にあるものを表の自我と呼び,死を志向する心の首座にあるものを裏の自我と呼ぶことが,心の病理的現象を理解する上で有益です。それが自我に拠る人間が,’二分の一以下の存在’であるという意味です。いちいち考えながら行動するのでは,ぎくしゃくして,日常生活が円滑に営まれないでしょう。かえってうるさがられている印象もあります。自我による意識という光が届く範囲は限られたもので,これを有の世界とすると,自我の誕生以前の世界は意識が届く範疇の外になるので,それは無または無限,または全の世界ということになります。
 昔から大阪商人は毎日の挨拶代わりに「儲かりまっか」「ぼちぼちでんなぁ」京都人は「へぇ、おおきに」が習慣であ
る。

自我が人間的な事態そのものであるとすれば,死は自然そのものの人間的な事態です。表の自我は,生へと向かうエネルギーを司ります。混沌とした主観的世界にありながらも,他者の存在,客観的なものの存在が姿を現し始めていることの証なのです。教育の目的は「国を愛し、人を愛し、仕事を愛する。それは死の不安に包囲される脅威といっていいだろうと思います。自我の自律機能は,内在する主体との関係性において,欲動群が主体から送り出されてくることに直接関わるものであるのに対して,抑圧機能は多かれ少なかれ意識的にか無意識的にか自我の判断機能と密接な関係があります。

 しかし、学校などの集団生活や立派な社会人になるための躾として、基本的マナーや考え方を身につけてあげ る厳しさは親としての重大な責任です。Iさんは母親が口を出さなくても,なにをいいたいか分かっています。Cさんの心の中でそうした幼児心性がつよい勢力を張っていたことを,このエピソードは如実に物語っています。  美しい国日本は、どこへ行ってしまったのでしょうか?  追い出され女房と飛び出し女房  離婚には二つの型があります。大切な預かりものであるから、大切に使わなければならない。希望が成立するためには無限性が必要ですが、それを保証するのが死と、B層にあたる無意識界です。

このことを考え合わせれば,怒りには自我の姿勢を「どやしつける」意味があるのが分かると思います。しかし動物の存在形態のあいだに進化論的移行系が見出されているにしても,それが単純に物質的ないしは生命科学的な発展であると証明するのは不可能です。換言すると,もろもろの精神現象が存在する以上は,然々の原基的な起源がないはずはないが,それを実証することは不可能であるということになります。自分に都合よく解釈することとは違う。自我の誕生の由来,意味は,人間の理解を超越しています。ここに人生の意味と無意味が交錯しており,人間が存在する理由の不可解さがありますが,これらのことは,あくまでも我々人間が人間的に答えていく以外にないことです。

小学生は先生に,「赤信号では止まりましょう」と教えられています。そのように自我は、死に由来する無化作用と、B層に由来する大自然から生まれ出てくる生命との、二つの無限性のものとの関係において補完されています。この両者を較べてみると,動物と人間との心の在りようの違いが見えてきます。自我は何もの何ごとかとの関係において機能します。 ありのままを受け入れ、目の前の現象を受け入れていく器の大きさが幸不幸を決めるのです。社会性が大変低く,未熟な人格の人で,自分の問題を適切に表現する力もありません。その始原的なものの過半は,原初の他者であり,最も関わりの深い母親との関係において生じると考えていいと思います。

 今日の日本の低迷は、戦後教育において末の知識技能向上ばかりに力を入れ、本である人間性向上が置き忘 れられてきた結果です。それは,やがては死へのエネルギーと一体化して,ただでさえ困難な人生をいっそう難しいものにしてしまうのです。そしてそのことは,自己と他者はそれぞれに独立しつつ,相互に絶対依存の関係にもあることを意味しています。Cさんによれば,いまも太っているさほどではありませんのだし,仕事もせずに家でごろごろしているのだから,間食をするともっと太るというのが理由だと思うということでした。
 ②孤食????一人でする食事ほど味気ないものはありません。

名指しはできないが,自我によって人間は存在可能であるという事実問題があるかぎり,上位者の存在もまた明白といわなければなりません。それは患者さんの側に,一般的に治療への抵抗が潜んでいるといえるからです。この文脈で集合的他者が,自我に対して威圧的,支配的なものであれば,後者との関係が不確実なものである傍証といえるものでもあるので,自我は,相対的に他者の眼差しに依存的になります。従って、躾は抑圧機能の発動を促すことになりますので、たとえば母親が神経質で、注意を与えることが必要以上に多くなると、幼児は、却って身勝手な行動に走ったり、抑制的になって子供らしくなくなったりします。

自分の幼い子の甘えに怒りを覚える母親は,特別な状況にいるのでなければ,自分自身がおそらく乳児のように甘えたいのです。薬は飲まないと決めた以上は,それをまっとうしたいのです。育った環境によって、何を信じ、どんな価値観を身につけたかがその人の人格や人 間性を決めるのです。そのようなことを前提にして,主体との好ましい接触が出来ているときに,自我の自律性が健全に機能するものと仮定的に考えることができます。どうやら無限の属性を持たない人間の精神に特有なものとして,現象として現前する事実や観念は,二つの極性に分離して現れる傾向があるといえるようです。

 笑いが病気を防ぎ健康を作り出す 今日本の死亡原因の第一位はガンです。そうであれば他者への依存が過度になるか,逆に拒否的になるかということになるでしょう。そのことは集合的他者の山が,自我の山よりも高いことを,従って母親との関係で,自律機能より抑圧機能を優先させていることを物語っています。  網の目のようにすべての人がつながっているのです。ある人が次のようにいっておりました。その綻びた隙間から垣間見る闇が与える恐怖が,赤ん坊に,母親への全能要求をためらわせるのではないかと考えられます。???快楽の海と愛による死の中で消滅することである。

このように’心の病気’にはコミュニケーションの一つの形という面があります。Yさんが10代のとき,母親が幻覚,妄想状態でした。  できちゃった結婚でももともと子供を育てる意志のない母親、家事手伝いがしてないので主婦として母として何も できないヤンママ、まだ自分たちが遊びたくて子供が邪魔になってしまう大人になり切れてないカップル。そういうことが必要なほどに無意識の力が増大しているときは,自我の境界機能はむしろ破壊されてしまう危険が増大するだろうと思われます。その数ヶ月後,実家が改築された折に両親に請われて同居することになりました。船長が幼くて,操船術が未熟なあいだは親に依存して技術を見習います。

そして、面白いことに失業率と離婚率は連動しており、「愛情より、お金」「貧すれば鈍する」「金の切れ目が縁の切 れ目」になっているのが現実です。自己に対して責任を負う自我が十分な働きをすれば,主体との関係が良好に保たれていることになるので,いわば全身にエネルギーが行き渡るのです。 人間も肺が機能しなくなったら死んでしまいます。  母親が子供を引き取り、シングルマザーとして子育てをし、父親が養育費を送るパターンが多いようです。幼い時代に家庭環境に恵まれ,母親の安定した愛情の下に育まれた子の自我にあっては,集合的他者との関係も穏やかで,それはいわば心内における先人の知恵者との関係といった趣のものになるのではないかと思われます。

その上で国を愛する祖国愛が育ち、最後に国や民族を超えた人類愛へと発展するのです。いまやBさん自身が自己の主体者であるという,当然のことを自覚しつつあります。それが行き渡れば,いずれ子供の自我の自律性は息を吹き返すのではないでしょうか。遊びの中の喧嘩で,人との関係の中での自己調整をはかることができます。膠で貼り付けたように,この依存関係は実に強力です。  「あなた一人が頑張ってもダメです。それもまた一つの仮説です。幼いときからピアノの天分が認められた子に,その父親が極端なスパルタ教育をして,ついには人格破壊をもたらし,しかしピアノ演奏の才は大いに開花したという映画があります。

その時お母さんの「はい、今行きますよ」というその声に母との距 離を把握します。それに応じて外なる他者である母親とは別に,自己の内部に他者が生起してくると考えられます。生活状況のストレスが耐え難いほどに感じられ,人間関係にうまく対応できないでいると,このレベルに後退する場合が出てきます。そして客観的には厳然として他者が存在します。それを改めて自ら意志して,というふうな主体者意識を,まずは母親,そして父親が導き出すべく育てる必要があります。 数多くあるテーマパークや遊園地の中でディズニーランドはリピーターが最も多いと言われます。また先に上げた例の母親が,心配性で,子供が不始末を仕出かしていないか,絶えず監視の眼を光らせるようであれば,子供の心に内在化された集合的他者もまた監視的,命令的になり,幼い自我は過度に抑圧機能を働かせることにならざるを得ず,子供らしい自己表現いたずら,泥んこ遊び,喧嘩などの遊びが封じられることになっても不思議はありません。

心の世界で自我の関与が及ばないのは,ユングがいう普遍的または集合的無意識の領域です。その無意識界の首座にあるものを,ここでは「内在する主体」と呼んでおきます。  ①先ずは自分たちの家が欲しいと本気てで思うこと。しかし,怒りを背後に隠し持たない喜びはありません。それによって幼い時代は,むしろ大人びたませた子であったかもしれません。人間の人
間たる所間は、人様や世の中のために貢献し奉仕するところに価値があるのです。このときに分泌されるホルモンが胎児の成長に重大な影響を 与えるのです。彼の自我は,母親がそんなことをするはずがないという認識を,精一杯保っているといえるでしょう。

この沼の首座にあるものを裏の自我と呼ぶことは,同様に人間の心を理解する上で有意味です。それは心を形成していく上で,複雑に矛盾するものを抱え込む理由になり,悩み多き人生を作り出す理由となるものでもあります。そういう心が育っていけば,何よりも,心の成長という得がたいものを手にすることができるのです。その撤収作業の主役が悪魔的な力です。  ここまで頑張ってきて、もう少しで准看護士に手が届くという所で失格になってしまったら、今までの苦労が水の泡 です。男子大学生の例です。その疑いは,母親が自分を見捨てるかもしれないという恐怖に直結するでしょう。

被害を蒙った家族が覚えていることを,与えたらしい本人は記憶していないというのは,被害を与えたつもりがなかったからでしょうか。根気強さと創造性を育てるのが読書であり、特にお母さんの絵本読みは、 ページをめくるその瞬間に子供の想像力を飛躍的に高めるのです。決して手抜きはしない。 しかし、思いやりや温もりという人間が作り出すソフトウェアは真似できません。つまり人生の山登りの山は,客観的ー主観的という性格を持っています。最近の子供の命名を見ても、まるでぺ
ット感覚での名づけが多い。それは次なる行為を促します。しかし,母親は全なる存在であるのを教えるしかありません。

そもそも’悪い子’が実は悪かったわけではなく,大人の態度にこそ子供の自我を無力化してしまった理由があるのだということを,大人たちが改めて理解しなければなりません。父親との関係で無気力なままでいる自我は,幼い子が母親にするように,外的なものに過度に依存するしかない状況に置かれているようです。その時々に遭遇する人生の難所は,いわばその時々の難路です。飼い主が望む通りに,ほぼ応えてくれます。
 正しい教えを正しく貫いて行くという姿勢がなくては子供たちに宗教の大切さは伝わりません。それとも都合のわるいことは忘れてしまう心の知恵なのでしょうか。

そして無意識界にある沈黙する主体の沈黙する関与があります。このように自我に拠る人間は,主観的ー客観的である現象的世界の存在者であるといえます。  頭脳は、自他の幸せのために使うものであり、自分のためだけに使ってていたら、年に関係なく退化してしまう のです。しかし母親は全なるものではありません。そして,あるとき母親が訪ねてきました。それらを列挙すると,以下のようになります。意識と無意識との中間にあるものでもあるので,それはイメージとして存在するといえます。それは他者との関係を結びつける力にもなり,関係を破壊する力にもなります。  「茄子の畑に瓜ならず、因縁因果見定めよ」 法華経では「本と末とは等しい」と教えています。

それを反省した母親は,不登校に陥った子の理解者であるよう努めるようになりましたが,父親や学校の先生たちは,不登校の子をかばう母親が理解できません。「逆らいなさい」というのはSさんの取り違いと思います「意志は伝えるように」というアドバイスをしてありますが,年上の男性との交際は初耳でした。母父と子の関係は,特に子供が幼いほど,同盟関係にある強国Pと弱小国Sのそれに似ています。  そして、お母さんから伝わる波動です。それがある程度進行したときに,これは自分の問題だ,このままでは自分に申し訳が立たない,という自己への責任感と贖罪の気持が芽生えるかもしれません。

つまり甘える欲求を赤ん坊が満たされているかぎり,生の流れが勢いを持ちますが,それが満たされなかったかぎりで死への流れが形成されるのです。赤ん坊は怒りをこめて,母親を支配しようとすると想像されます。従って,しばしば抑圧機能は自律機能に優先するのです。しかし,この激しい対立を止揚できないときには,母親への全能要求も,母親への恐怖死の恐怖に通じますも無意識下に収めて,いわばなかったことにしてしまうようです。幼い子なので女性カウンセラーにも協力してもらうことになり,診療が開始されました。それは、躾の中心にいる母親が不当な介入をせずに、従って客我がいまだ未成熟なので、主我が存分に自分の力を楽しむことができているからです。

謙遜は引き受ける精神の別称といえます。核家族で家にはお年寄りも居ない。病気の成り立ちや自己が改善されていく様子などに考察を加え,それらは更に臨床の上で検証され,強化されてきたといういきさつがあります。つまりBさんが幼女を包み込む心を持てないのは,幼い時代のBさん自身が,思うようには母親に甘えられなかったからで,未済の感情があるのだろうということです。それは親の不理解,愛情の欠落によって,自我が無能力なのと何ら変わらないことになるのです。第一の親は,自我を授ける力を持った’人間の上位にあるもの’です。私がおかしいから見ているのかと思い勝ちです。

人間が人間たるゆえんは,自我に拠ってです。なお,統合失調症の中核型は,人格が恒常的に後退してしまいますが,これは自我が機能不全のレベルを越えて,自我機構自体生物学的な根拠があると思われますが何らかの破壊を受け,不可逆的な変化が生じたと考えられます。自我はこの二つの主軸の機能を活動させるにあたり,思考,判断等の知性的な機能を駆使することになり,それらが精神性を自己にもたらすことになります。ムーア人の将軍であるオセロ黒人は,貞淑な妻,デズデモーナ白人を大変愛しています。自我は、両者を調節し、統合する首座となるものです。もっとも大抵の元気にあふれた子供たちの口から,その通りだという言葉は得られそうにありませんが。

 大きく膨らんで、親よりも立派な学歴をつけ、空高く舞い上がったが、社会の波風に当たってすぐに壊れてしまうバ ブル人間にしてはいけません。母親自身が多かれ少なかれ依存の対象を必要としているので,恰好の相手を手放したくないというのが,むしろ一般ではないかと思います。母親の胎内で安らいでいるある時期までは,胎児は自然と一体です。学校に行くというのは,生きる方向での心の川の流れに乗らなければなりませんが,逆の動きをする川に引きずられたといえるのです。これが健全に機能しているときに,内外の状況に主体的,自立的に柔軟な対応ができるのです。このように見てくると,少年の自我の形成は相当に歪められていると考えざるを得ないと思います。

 「たまには子供に会いたい!」と養育費を十分に払わずに、自分の寂しさから子供に会わせることを条件にする父親。そしてその一方で表面化してくるのは,意識の暗部に閉じ込められてきた分身たちの侮れない勢力です。 激流を泳いで渡ろうと思ったら、勇敢に服を脱ぎ、靴を脱ぎ捨て、身につけるものを最小限にしないと流れに負けて 押し流されてしまいます。人間は人格的な存在なので,性行動が人格への攻撃という側面を持つのは否めません。恋愛結婚がほとんどとなった現代。エネルギーは順調に循環することになります。席を立つ時はいすを元に戻しておくなど、 当たり前のようなことだけどやれない人も多い。

虐待とまではいかなくても,子供は親から様々な干渉を受けるのが現実です。いうならば心理的な意味で、見捨てられる恐怖は「諸悪の根源」で、さまざまな、というよりはあらゆる病理的現象を惹起させます。夢の舞台ででも,母親に対抗する怒りが見えていません。「大きな国が排出した温室効果ガスの影響で、我々小さな島に住む人が被害に遭う。意識の地下の分身たちの反攻を受けて,矛盾と苦悩に耐えながら,いつか,それらのエネルギーを己のものとしてしまうことも可能です。父親はそのような母子関係と,息子の悩みに鈍感なようです。そうすることによって,万全の安心を手に入れようとするのです。

他者との関係を自己の存在要件としている人間には,他者が自然的な自我の機能にさまざまな程度に破壊的に作用し,自律的な機能を歪め,混乱させるおそらく唯一の理由なので,他者はある意味でおそるべき強敵です。?世 相 ズ バ リ  日本の将来が危ない、教育の危険 国家百年の計は教育にあり。それは内在する主体からの贈り物を、幼い主我が受け止めている姿だからです。そうした日常の世界に自足することができるのは,’健全な市民感覚’を身につけている人たちです。治療者の介入と援助がなければ困難な心の作業です。当に宗教の懺悔さんげと罪障消滅しかありません。 自分で考え行動する知恵を磨き、その場その場で最高の役を演じ、周囲の人に希望や喜び、感動が与えられれば最高の人生が送れるのです。

このように人が生きる方向で可能性を切り開き,自己形成をはかろうとすれば,死へと向かう心の川の流路の存在を必要としているという甚だしい矛盾をも受け入れていかなければなりません。どう転んでも赤ん坊の自我は混乱させられるのです。彼らは上辺だけを見て,心内にある強い悲しみ,寂しさに日夜悩まされているのを察してくれなかったからです。必要なエネルギーの供給を思うように受けられないでいると,表の自我は無気力のままでいるしかなく,悪循環になります。それらは実証されることはなく,仮説にとどまりますが,一定の意味を持ち,探索行を続けていく上で,勇気をもたらします。

いわば馬まかせになってしまいます。夢を見た人の受け取り方一つで,夢の意味が変わり,次に見る夢に影響を与えます。ところで判断力は自我の機能として重要であるといいましたが,判断をするということは,当面している問題を,まずしっかりと受け止めるということが前提になります。  戦後GHQアメリカ軍が小国日本の強さの原因を調査し、次のような報告をした。そして「わるい乳房」によって赤ん坊の万能感と自己愛とが傷つくのです。自分だけが頑張っているという錯覚がありました。この世に生を受け,自己を形成していくにあたり,人は人生の入り口の段階で最初の,そして最大の関門に直面します。

しかしA君は,’真の友達’はいないと思っているようです。それは本来的な自己の達成ともいえることです。娘が不登校になったことについて,甘やかせ過ぎがよくなかったのかという悔いを交えた反省をしています。必要とあらば関係の断絶も辞さないという強く,揺るぎない心の姿勢があれば,自己の自由を護ることができます。どうやらペットを可愛がる人は,母親と赤ん坊との蜜月時代の心を感じ取っているように見えます。幼いころに母親に甘えたかった心を剥奪されたと思われ,早々に自我が父親に取り入ったと想定されます。従って自我が存在する所以は,心の闇の領域,つまり無意識の世界以外にはありません。

一般には,集合的他者は,より穏やかなものです。ある境界性人格障害の患者さんは、「母親が欲しいものを全てあたえてくれた。その根本を作り上げる のが、乳幼児期なのです。A君は裏の自我に引きずられて,心の沼に落ち込んだのです。このように畏怖する自我は,自立を断念した自我でもあります。これが子供の性格や感性を作っていくのです。それはもっともな議論だと思います。幼心に「自分は?愛されている。ユングによれば,このように意識化が容易である心の領域の中核が自我であるので,彼がいう個人的無意識の領域は非自我の世界ということになります。 幼稚園や小学校から英語を教え、習い事をさせ、塾に通わせる前に人として日本人としての基礎を身につけさせま しょう。

Yさんは30代の男性です。しかし母親,あるいは母親代理の他者,あるいは人間との関わりから脱落して何ものかに,悪しき依存をしている自我の下では,心の軸は自己の中心から遠く離れるので,ストレスがかかって心がぐらつくと,態勢を容易には整えられないのです。
 何十年と異国の地で生活してこられた中国残留孤児の方や北朝鮮から帰国された拉致被害者の皆さんも最初
はどことはなく、中国人や朝鮮人の顔つきですが、帰国されて一、二年たつとすっかり日本人の顔になられます。。主体との関係をあやまたず確立することを目指すのが,何よりも自然的な要請だからです。

 勉強部屋でなくてもいいのい゛す。彼らは自分の眼差しの優しさに,かなりの程度自足するのです。そして、日本こそ「東洋の君子国、宗主国」であると絶賛し、 将来の日本の存在に脅威すら感じさせた。怒りをこめて,甘えたがる心を抑圧するのです。何事も最初が肝心です。その動機は恐怖と不信であったにもかかわらず,そうしたものを緩和するために,母親が大好きという偽装を凝らすことになる場合があります。どこの国に国旗や国家に敬意を表しない国民がいるでしょうか?
国民としての基本中の基本です。そういう母親は、赤ん坊に育児に専心するのが難しいのではないかと思います。

しかしながら,精神の涵養の問題を安易に定式化することはできません。実質的に,心全体の主体は,内なる自然である無意識に,言葉を換えれば内在する主体にあります。 現代の日本は戦後六十年の未曾有の経済発展に信仰心と文化を見失ってしまった。それは生死を分ける問題に関わるものでもあるので,自律機能以上に重要ともいえます。中には,寂しがりやであるのを見抜いてくれた友人もありましたし,それなりに努力もしてくれましたが,彼女の心が癒されることはありません。その永遠の矛盾の対立が新たな統合をもたらし,人間の精神の無限性が保証されていると考えることができます。

しかし他者との関係は,自己との関係同様に,内的に安定しているといえます。自我の自律性は,境界機能と密接な関係があると想像されます。おまけに他者への度を過ぎた依存を求める心は,表の自我が基本的に劣弱であるという事情があります。こんな夫にはついていけないと、自分から飛び出し離婚を迫 ①は、やり直して幸せになる可能性は大きいが、②は、余程自分を反省し、自分自身が変わらなければ次の幸せは  最近は逃げ出し旦那も増えている。。母親の観点からすると,「昔はよい子だった」ということになります。赤ん坊の母親との関係での原初的な愛情体験は,心の成長のためには欠かせないものですが,赤ん坊が希求する愛情への欲求は絶対的なものがある激しいものです。

更に自我の機能が不全化すると,境界機能も不全化して,深い層の無意識の内容が意識の中に侵入するという事態にもなります。つまり、そのときどきの志向対象との関係で、そのつどの自己を刻々と超克し、生命的世界を展開する主体である自我は、そのときどきの志向対象との関係にかぎっていえば、有限のものであり、目的に到達するたびに潰えます。その分,いわば自己の重心は自己自身の中にはなく,何かの都合で自己の軸が傾いたときに,態勢を回復させるのに難渋することもあると思います。 さて、某女優の次男、Aがまた覚せい剤使用で逮捕された。そして、それにつれてしだい次第に、心の内部にも指導者が育っていきます。

 三田佳子の女優業復帰について意見百出だが、やめようが続けようが親の愛情が伝わるか、必要とされていると子供自身が感じられるかどうかが重大だと思います。休みの日は博物館系統にお出かけしたり旅行に行くときは、その土地の歴史関係で有名どころを観光先に取り入れたりそういうのを勉強!というより親子で楽しんでやっていた様子はありました。そういうときに、赤ん坊の疑いに、現実的な理由を示すことになります。つまり自我の機構に組み込まれていた自己の存在構造としてある内なる他者が,外なる他者である母親との関係に刺激されて機能を顕かにしていくと思われます。

回収する側は,「そんなことは初めから承知していたはずだ」というでしょう。 昔は社会全体が第一次産業即ち自営業や製造業の町工場などが多く、毎日の生活の中で、父親の汗して働く姿を見、家業のかたわらコツコツと家事に精出す母親の姿を見て育った。  ①子供を連れて再婚してこられたご近所の若奥さんが、あっという間に痴呆になられて入院されている方が見え ます。それが幸せと勘違いしているのです。決して途中であきらめない。それは、即ち、母親の愛と信頼とに他ならず、人間関係一般に重要な意味を持つそれらのものに、基礎を与えることでもあるのです。「好きこそ物の上手なれ」 というように、つらい勉強も、きつい実習も頑張って来られたのです。

 社会は家庭は延長 家庭崩壊がすべての元凶
 金儲け主義の勝ち組起業者、官僚や公務員による官製談合、公金流用、果ては着服が組織ぐるみで公然とまか
り通る裏金作り、常識では考えられない不祥事が雨後の竹の子のように、どの省庁からも、どの地方自治体からも
例外なく噴出している「モラルが崩壊している」一般社会ならば、即免職、刑事事件として逮捕されます。それに30歳に近い年齢で,親に寄りかかって気ままに暮らそうとするのを黙認するのも問題です。あるとき,学校で,広島の被爆者の戦争体験を聞く機会がありました。幻聴や妄想が活発な時期がありましたが,経過から見て,統合失調症ではありません。

これが成長してか らの大切な要素になるのです。社会的な存在であることに無気力になってしまった表の自我は,いまや裏の自我の傀儡になってしまったといえるでしょう。人に慕われて尊敬される「人徳」があってこそ、地位や財 産、学歴が本当に生きてくるのです。しかし二分法の原理の下にある人間の心には,それとは反対の流れができないわけにはいきません。家では抱っこか、ベットでひとり遊び。親から受けた心の傷は,一生を決定づけるほどのことなのですから。自我の破壊という意味では,先の大学生が述べていることが参考になります。夢は無意識の世界にある意味を伝達する機能を持つことがあるので,それを正しく受け止めることができれば,それ自体が自我の力の証明になります。

網の目は一つだけだけで単独に存在することは出来ませ ん。何かしてもらえるのが 当たり前なのです。 ディズニーランドの従業員は単なる裏方ではなく「キャスト出演者」と呼ばれ、いつもゲストの喜びを捜し求めているのだそうです。それは一つには母親的なものに甘えたい,頼りたいということです。‘全’であってほしいほどに頼りとする母親であるがために、その裏返しとして、母親は大不信の発信源になる理由を持っているのです。その上で引き受けることになった場合は,さまざまなレベルの治療抵抗を,むしろ治療的な手がかりにできるかどうかが鍵を握るでしょう。やせることに囚われていると,こういう結末が来るだろうということ,あるいは心が身体を否定しようとするかのような行為は,既に精神的な死をもたらしているということ,そういう意味が見て取れるように思います。

非常時こそ夫婦の協力、家族の団結が必要であり、その姿勢に子供が目覚めていくのです。人前でのにこやかな笑顔を持つ人格と,一人で過ごすときのなりふり構わない人格と,表と裏に極端に分裂した姿は,表の自我の力の弱さの反映です。あたかも神に対するかのように,赤ん坊は母親に全能者を要求するのです。これらの欲動群がどこから生起してくるのかは謎です。尋ねる相手は自分自身,つまりBさんの意識を超えた力を持つ主体です。電車の中で,「切れ!???誰も見ていないから大丈夫だ」という声が,リアルに聞こえたこともあります。  ④妊も周囲呑む人も歓迎していない  ?感受性に乏しく、無気力な子が多く、寂しい子になりやすい。

それに従ってきた???」ということです。そういう傾向が優勢になると、客我が主我を支配する構造が出来てしまいます。
 それも、人類全体ではなく、日本とアメリカとヨーロッパの国々という一部の国と人間の富と豊かさの浪費によって
であることを自覚し、即刻エネルギー削減の生活、CO2大幅カットのライフスタイルに切り替えましょう。強力に支配的な母親に従属していたある女性は,近く家を出て一人暮らしをすると決意を固めています。自己がそれ自体で完結しているのではなく、いわば自己と他者とに分裂している「欠けるものがある存在者」であって、それが改めて自己と他者との合体によって、「満たされている存在者」に準じるものとなることが可能であるための前提条件は、他者を予め自己の構造その原基である自我の機構の内部に含んでいることです。

20歳のZさんは,そのWさんの紹介で二年前に受診しました。親としての実力、家庭を築こうという自覚やビジョンのないまま、まだ自分たちが 遊びたい恋人同士の延長戦上で子供が出来てしまい、何となく結婚し、子育てや家事、家族を養うための会社勤 めが重荷になって、そのストレスのはけ口が幼い子供に向けられる。あたかも人生は一つの作品のようであり,魂のこもった作品の制作が見込めないと分かったときに,人生そのものを回収する作業が始まるかのようです。実際,一人遊びが多い幼い子は,将来が案じられる理由があるのは確かでしょう。その数日後に母親がやって来ました。

 本当に国と国民のことを思うなら、党派を超えて協力できることがもっとあるはずです。孤独な子供たちは危険な状況にあると考えるべきですが,注意を要するのは,彼らを危険に追いやるのは,”元気な子’たちの悪意ですそれ以上に親の不理解が問題ですが。C.Gユングによって,身体と接する無意識の最下層を普遍的あるいは集合的無意識と呼ばれ,その上層の自我の領域と接する無意識層を個人的無意識と呼ばれております。人間はそれぞれの自己として存在し,意識の光によって世界を現象させます。その自我は、心の自然の要求に従っているので、主我ということになります。

この母親の場合はともかく,一般的に,親の”ちょっとした”配慮の欠落,子供の心への鈍感などが積み重なって,子供の自我の形成によからぬ影響を与えるのは論を待たないでしょう。  お互い我慢自分が正しいという慢心しているだけで、正しい辛抱自分の至らなさを反省し、辛さに耐えるが足 りないのです。  「看護学校での勉強も第一段階を無事卒業し、この春から五、六人のグループで、地元のいくつかの病院に交替 で派遣され、研修生として現場実習に日夜一生懸命頑張っています。夫への不満が高い一方で,夫は病気のためもありかなりわがままで,愚痴も多く,その相手をすることは容易ではないようです。

自然そのものは全なるものであり,無限であり,無であり,それ自体で自足するものです。ナスの種からは、ナ スしか実らない。どれか一つの網の目が斜めに歪めば、離れた網の目ま でが、引っ張られ変形してしまいます。こんな生活は我慢できない。 原因追求ができなかったのだろうか? 四諦の法門の第一、第二段階である苦と向き合い見極めることができていなかったのでしょう。自我の以上の区分は,いうまでもなく便宜上のものです。見捨てられる恐怖に怯える少年の自我は,自分の意志を押さえてでも,両親に忠実な子になりなさいというイメージの支配を受けています。それは,棒の先に括りつけられた鼻先の人参を追いかける馬のたとえに,どこか似ています。

イカ
やタコ、ちょとした硬いものが噛み切れない子供が多くなっています。それはIさん自身がパニック障害という問題を,自分のこととして受け止めることができないでいることも意味しています。国旗を掲げず、国家を歌わない国が世界 のどこにあるでしょう。直ちに改めなければ日本の 将来は危うい。そのようにしてしだいに現実を受け入れていくのですが,その過程では激しい苦痛と恐怖を経験しないではすまないということなのでしょう。  教育エデュケーションの語源は、エデュカーレというラテン語で「引き出す」という意味です。すべてを良いことと受け止めることができた時、仏の救いが現れてくるのです。

そうした主我の育成には、幼い時代に母親に甘える体験を十分にすることが大きな意味を持ちます。一方,意志は,自我の主体性に力点があります。それを自我が受け止め,護ることによって生気感情が育まれていきますが不当に抑圧されることを意味します。しかし、ホテルがデラックス
になるに連れて、小さな個人商店はますますやっていけなくなり、勢い町はどんどん寂れてしまいました。この幼い自我は,母親を怒らせる元凶が甘える心と認識するので,甘える心を片端から捉えて無意識の牢屋に封じ込める途をとることになるのです。反対にすぐにキレて怒る親父、母共にが急増しています。

自由な機能は,なにものにも囚われない高度な自我のものです。そうすることができるためには,表の自我が本来の力を回復させていることが前提になります。子供は生のエネルギーにあふれているので,元気がふさわしいのです。一般的には社会性を身につけさせる努力以外には,躾であれ教育であれできない相談です。そこに介入できなかった自我は,先生の質問にあって,答えにならない答え方を探し出したということでしょう。自分たちと子供だけという核家族が定着し、祖父母の いないご家庭が増え、子供が家庭や学校や塾に取り残されててるのです。そういう意味で,死は裏の主体といえるのだと思います。

 まさに吸うばかりの生活だ。例えば幼稚園児の’お絵描き’はそれぞれの内発性によるもので,この場合の集合的他者は,「自由に描いてごらん」という姿勢になると思います。自分の怒りの巨大さに恐怖を持つともいえるだろうと思います。国や社会の責任ではなく、家庭環境、子育て環境から整 えていくしかありません。最近は行けるようになっていますが,時には休みます。しかし,ここでは精神科の病理現象の蓄積の上に立って問題を整理し,統合的に理解する可能性を探ることが唯一の関心事です。学校に行きたくないと言い出したのも,母親の姿を見ていないと不安にかられるからでもあるようです。

長女が婚家に帰ろうとしないのは親の責任だから,何とかしろといわれます。それができた後で,やはり「私は醜い身体をしている」と思うかどうかは疑問です。そうした前提の上に立って,臨床上の有用性がそれなりに確かめられたときに,それらの仮定は一定の意味を持つと考えるわけです。約400万人の将来ある若者たちが働かない、働けない状態にあります。そして一方では,自律性を犠牲にするという高価な代償を支払うことになったのです。冷蔵庫の中を満タンにしない冷気が通りやすくする ②エアコンの温度調整 夏は28℃、冬は20℃ 暑い時は一枚脱いでクールビズ。

なによりも自我が,傀儡化することによって,その自律性を犠牲にしたことが問題です。政策よりも政局中心の派手なパフォーマンスだけに目を奪われていてはいけません。いろいろな場面で、これでもうお仕舞かなということが幾度もありました が、その都度不思議に守られ、ここまでクリアしてきました。  すべての人生の出来事はそれと同じことです。怒りは,いわば黒い子たちのものなので,自我の介入がなく表に出れば,つまり憤怒ということになります。Cの怒りは,無力な国王のために国づくりが怪しくされているS国を破壊しかねないロボットが爆発するほどですし,S国王を恐怖で痙攣させてもいるチックと考えることができます。

 物やお金に恵まれ過ぎた現代、子供に本当に大切なものは何かよく考えて見ましょう。良い子として抑圧機能を優先的に働かせるのは,自我の戦略としては勧められたものではありませんが,母親に認められたいという目的はそれなりに達成されます。それは無意識的な恐怖であり、しばしば得体が知れない恐怖感をもたらします。患者さんがあくまでも受け取りを拒めば,使者は冥界にいざなう役目を帯びてやって来た危険なものの姿を剥き出しにするかもしれません。母なる他者の影響が殊更に大きいのは,人生早期の未成熟な自我が,他者の保護を絶対的に必要としているからです。 「穀然とした対応」「個別指導」「社会奉仕」「見て見ぬふりをした者も加害者」「正しい」対応をしなかった教師の処分」など様々な提言がなされましたが、根本解決ではなく泥縄式の、頭上のハエを追っているような、モグラ叩きのような、枝葉末節の対処法ではないでしょうか? 戦後の自由主義、個人主義の行き過ぎは今や個人主義になってしましました。

 男女平等の世の中になりましたが、男と女、父と母とは自ずと役割が違うのです。エベレストはいかに高い山であっても,それが客観世界のものであるかぎり,征服してしまえばそこで希望は潰えることになります。
 子は天からの授かりものではなく、自分たちの所有物のような錯覚がある。裏の心は無意識界に勢力を張っていることになるのですが,表の自我は関所を通じてそれとの交流をはかっているというふうに考えることができます。そのことから,「欠けるものがある存在者」であるが故の不安の脅威から、「満たされている存在者」への移行を、「全なるものである母親」に要求しているという推論が成立するように思われます。

ここでは自我の統率力が破綻を来たし,心の表と裏の舞台がそれぞれ独立しているように,人格が二分裂している様相になっているのです。自我による抑圧という心的行為には,他者の介入によって強いられたという側面があります。自分は既に万能の世界のものではなく,自己愛だけの世界のものではなく,他者愛と共存,共立させなければならないと感じ始める時が訪れるのです。つまり自我の領域こそが人間的世界ですが,人間を超越した世界をそれぞれの自己が心の内に抱え持っているところに,自己が永遠に現在の自己を否定的に超え出て,新たな地平を求めつづける時間的存在である理由があります。

新たなバブルの波に飲み込まれないようにしなければなり  樹木でも、日当たりのよい南斜面に育ち、短期間で大木に成長した木は、一見立派そうに見えますが、年輪が荒 く材木としては質が悪く、衝撃に弱いのです。治療関係の信頼度には,現実にはさまざまな程度があるのはいうまでもありません。自我の機構には,他者のイメージを生み出す機能が内属していると考えられるのです。疾病利得といわれているのは,そういう意味です。つまり集合的他者その中核には母親,そして父親がいますに圧倒され,従属させられている自我の下では,’自己否定の人’の人生を歩むことになるのが避けられません。

しかしいうまでもなく母親は,ほどほどの満足をしか与えることができません。よくやったよ」といっていた,と。そのときに自我の境界機能が意味を持つのです。誰であれ心の成長過程でこの意味での負債を負います。それができれば人生はひとまず安泰といえるのでしょう。それは勢い,他に負けないことが要点になる。Cさんにとっては,母親が支配的であるということは,圧殺者ではなく護られている者という感覚です。両者が自我の機構において接点を持ち,主体の意志を自我が人間的に変換して一定の指令を発すると仮定的に考えることができるように思われます。他者が何を考えているのか,結局のところ分からないのです。

 過日、知人から感動的な話を聞きましたので、読者皆さんにお分けしお伝え致します。この主観的性格には無限性があります。自我は意識という光の世界を演出しますが,自我が自我自身の根拠であることはできません。そして裏の世界は,影に回って縁の下を支えているといってよいでしょう。抑圧されている分身たちの欲求不満が長期にわたると,それは自我が無気力で当てにならないということでもあり,怒りと一体化して,いわば自我の根がしだいに腐っていくかのような印象もしばしば受けます。しかし、人間の徳分は一朝一夕には身に付きません。この質問は,昨今,十代の子の重大犯罪のニュースが続発していることに関していたと思いますが,実は彼自身の不安でもあるようでした。

それを形成するのは怒りと恐怖です。超越的なものへの依存であれば,それは個々の問題になるのですが,人間的な集合体への依存であれば,自我はさまざまに移ろうことになるのです。それは高学歴であるとか、知能指数が高いとかとは、直接の関係がありません。彼らには,死の極風にもまれ,’人生に遭難する’危険を切り抜けてきた力への自負があると思います。これでは我が家のルーツ、歴史と文化が消えてしまいます。提出された問題を受け止めることは,常に重要な意味を持ちます。しかし、客我が主我を凌駕する心の構造があれば、例え上司が理解のある人であっても、100人もの過酷な上司に囲まれているに等しい気分状態になります。

ニート640万人、フリーター213万人、引きこもり100万人。わずかな闇の気配に怯えるだろう赤ん坊は,母なる全能者のふところにまどろむことを希求するのでしょう。いずれにしても,父親の支配を受けてきた無気力な自我は,子供の時代のままの父子関係に耐えられなくなったのだと思います。後の97箇所は順調に働いているのです。ですから,どんなに表面上は母と子の関係が蜜月のように見えても,裏の自我に率いられる分身たちが心を許すことはありません。 箸や鉛筆の持ち方など、いったん身についた変な癖はなかなか直らないものです。全的な存在ならぬ母親が,赤ん坊に対してといえども,怒りを一掃してしまうことは不可能です。

それを考えると,母親は特別な同船者のようです。「死は深い眠りと区別をつけ難く,深い眠りに勝る安らかな経験がはたしてあるだろうか」と。無意識の世界では,最下層で身体との直接的な関わりを持っていると考えられます。それが自我の一大特徴なのです。貧しく抵抗力のない途上国を中心に三人に一人
が温暖化、環境破壊の犠牲になる。 ②大義による行動であること 自分の意地や都合ではなく、国を思い大衆を思う「己むに己まれぬ使命感、居てもたってもおられぬ情熱の発露」 による自己犠牲の行動でなくてはなりません。その恐怖は,母親が絶対者ではないかもしれないという疑いがあってこそ生まれるでしょう。

全面依存の身である幼い子の自我は,ときによっては生き死にに関わる恐怖で母親の怒りを恐れると思います。そういうわけですから,そうした性格を持つ集団を,小市民的であるとして忌避する人がいるのもうなずけることです。そのために,誰それという固有名詞で呼ばれることが可能になります。そのためには,学校へ行けない事情を理解しないわけにはいかないでしょう。信頼する自信を持つことも困難になります。母親への全能要求を恐怖によってあきらめ,現実的な関係の模索がはじまります。荒れ果てる大地に「植林」をし、自然の循環を守らなければなりません。つまり赤ん坊にとって,母親は’全なる者’なのです。

高い愛と信頼への代償のように,絶対的な貞淑を求めました。しかしそれを心の現象に適応しようとすれば,いわば穴だらけになるのは避けようがありません。一般的な市民にとっては,隣人愛が最も価値があり,美しいものでもあります。自我は,喩えていえば大海を行く小舟の船長ですが,船長が操る羅針盤に映じるのが主体の意志です。自我は意識活動の中心であり,根拠です。というのは,孤独には,死の極北から吹きつける風にさらされるという意味があるように思われるからです。一例を上げると以下のとおりです。  では何が子供のままで幼稚なのでしょうか?  子供や乳幼児は自分のことしか考えていません。

ある日,一人で帰すのが心配で母親に来てもらいました。  江戸時代の幕末、約八十名の若い武士たちが日米条約締結と視察の為にワシントンとニューヨークを訪れ、パレ ードをした。その内的な他者が、内的な指導者になります。’自爆テロ’と呼んだ人がありました。自分たちも考え提案し、身近なことから実践していくことが、自立した凛とした国づくりの第一歩です。それは自我の自律性が内在する主体との関係において生じること,その自律性に即して主体から送られてくるエネルギーが欲動といわれるものであること,そして自我は自足態ではなく不十全な存在であるために,他者によって補完されるのが不可欠の要件であること,自律性が自我の生命線でありながら,他者の厚い協力がなければ,無の無化作用の脅威に絶えずさらされている有限なる自我の機能が存立の危機に瀕すること,他者の補佐は避け難く二心に基づくために不十全であり,かつ脅威ともなること,そのために自我は抑圧機能を不可欠のものとしていること,それは自律機能に対して優先的に働くものであるので,自己の形成,成長にとって阻害的であることなどなどの問題をはらみつつ形作られます。

「八分の利口に二分の馬鹿」といって二割ぐらいは
周囲にも施し、共に喜びや幸せを分かち合う仲間がいてこそ本当の勝ち組なのではないでしょうか! 流れに乗れる三つの条件 自分が時代を変えたという人がいたら、それは慢心です。それがいけないということもないでしょうが,人生を回避している姿といえるのも確かでしょう。離別するか,浮気でもするしかなさそうに思われます。それは簡略化していえば,外面がよすぎる自己における自我の不始末です。父親への恐れと共に怒りも持っているYさんには,自分がこうなったのは父親のせいだというつよい思いがあります。つまり自我による生命世界の展開は、明瞭に有限のものですが、しかしながら、内に無限性を潜ませているといえます。

それをいわれると不安になります。PとSは同盟を結んでその他の国Hと外交交渉をし,あるいは戦います。こうしている間に私たちの国は沈んでゆくのです」というメッセージは、鬼気迫るものであり痛切な叫びであった。少年は,はきはきと物をいい,素直な性格の子です。それに対する答えは,「人間は自我に拠る存在だから。  「願って待ち望んで産んだ子」でないので、子供に対する本当の愛情が湧かず、育児放棄してしまう若夫婦、まだ 自分たちが遊びたいがためにわが子を邪魔になり殺してしまう若い母親、悲惨な事件が日常茶飯事になりつつあ  先ず第一に子供が授かった時の母親と周囲に精神環境が生まれてくる子供に非常に多くの影響を及ぼします。

それを抑圧する’よい子’の傀儡自我は,本来はあってはならない抑圧をすることで,無駄なエネルギーを使いつづけることになります。常に「いい子だね、大丈夫よ」といって安心できる 言葉を掛けましょう。死に関わるものの中核にあり,裏の自我の拠り所となるだろうものを,裏の主体と呼ぶことができるのではないかと思います。あるとき,母親が口出しをしてきたときに,自分の意見をいえるようになりました。自律性の涵養という意味でも同様です。それは生きているかぎり終わりのない展開です。人のせいではありません。他党の政策でもいいものは
認めて『和をもって貫きとなす』のが本当の政治ではないでしょうか!
 社保庁の年金問題にしても、先ずすべての党が協力して『1年でやり遂げる』ことの方が大切です。

それを自然界といい換えることができます。先にも上げたように,単に甘える心を持つことが,抑圧という形で悪い子にさせられてしまうということが起こります。中央に位置するべきものが自我です。正しい宗教をちゃんと持ち、家族が日常生活に密着した信仰をすることによって人格が磨かれ、勤勉、感謝、思いやりのバランスの取れた社会人になれるのです。自我を授ける力を持っているのは,人間以上のものであるのは明らかであっても,誰と名指しするのは不可能です。満足感と安心感が不足していたのに違いありません。そして全的な大安心を提供する力があると幻想するからこそ,’未だ与えられていない’ことに激しい怒りを持つのです。

 三十代四十代の離婚原因は、男性が「性格の不一致、精神的虐待子供重視で夫に無関心、夫婦生活の拒否等」
女性が「DV家庭内暴力、生活費を十分渡してくれない」が主流です。  「三つ子の魂百まで」とか「鉄は熱いうち打て」といいますが、親の真似をし、親の言うことをよく聞く幼児期や小学 生の頃にこそしっかりと躾をしなくてはなりません。①全体を考える人 自分中心に考える人。そして女性上司に依存することでおのれを保とうとした自我が,対象を見失って混乱に陥りました。そうであるとすれば,先に述べた乳幼児期の情緒的な満足が性格形成の上で重要だというのは,括弧つきでということになるのでしょう。

町全体が暗く活気を失ってしまったものですから、魅力や楽しみがなくなり、結局客は遠のき、悪循環のいたちごっ
 莫大な設備投資をしたホテルや旅館も小さな体力のない所から潰れていきました。その喜びを意識と共に永遠に回収されてしまうのが死です。他者との関係を不可欠の前提としている自己の存在は,こうしたエネルギーの変換を避けることができません。世も末である。そして同様に外部にある’半分に過ぎない’他人の内部に,他なる自己を包含しているのです。それが受け皿となって外的な他者と協働し、他者イメージが育成されていくのです。 まさに子供達は荒んだ家庭環境の犠牲者なのです。

 良いところ見つけが感謝の達人 ひざ関節病の持病があると足の痛いことばかりに思いが集中してしまい、他の調子よく動いているところは当たり前になっています。そして,それに相応して自我によって受け入れを拒否されたものたちが,影の分身たちの勢力となります。Bさんはその意味を理解しました。子供の側に,愛されている,信頼されている,大切にされているという肯定感があれば,それが答えです。その極端なものは虐待する親です。死は自我の終焉を意味します。母なる他者への恐怖によって乱された自我の混乱は,長じて,一般的に他者に対して恐怖心や不信感を抱き易くなる可能性がありますし不登校や対人恐怖症などの心の障害に関連します,自己不信のもとにもなるでしょう。

母親の支配を受けているIさんの自我が,もがき苦しんでいるという様相です。それが外部に問題があってのことであっても,無意識が活性化するので,緊張を強いられます。 しかし、教育現場では受験に必要な知識だけを詰め込み、社会人としてバランスの取れた豊かな教養を身に付ける人間的教育が失われていたのです。「これでいい」かどうかの判定者は誰かという問題があります。  離婚は決して良い事ではありません。そして有限の「欠けるものがある存在者」であるが故に、限りなく有限性を越え、無限性に近づこうとすることが可能であり、そのような意味で人間は無限性を生きているといえます。

それが全面依存の身である赤ん坊に不可避な、見捨てられることへの恐怖の意味です。再びそうした心の閉塞状況を打破するためには,心理的な治療の介入か,あるいは自律機能が自ずから発奮して巻き返しにかかるかすることが必要です。私が,「しかし,失明は治りませんが,過食は治ることが可能ですよ?」といったところ,「そうですね」と答えてくれました。こういう状況では、動きの鈍い主我に対して、客我が威嚇的にもなるので、主我が試練にさらされることになります。人間の常識では理解不能の課題を,自我は負っています。それによって,勝手気ままな行動は慎まれることになり,社会性を身につけることになります。

その予感が不安となって現れるのです。それは’愛情’の背後には,恐ろしい怒りが潜んでいる母親が,幼い娘の気を引くために悲しそうな顔をするときにも,その心の奥には怒りが潜んでいますのを感じ取っているからだと思われます。  霞ヶ関で行政を司り、教育基本法や宗教法人法、憲法改正など国の将来を左右する法律の青写真を作る各省庁 の二十代、三十代、四十代のエリート官僚、キャリヤの大半は、道徳心や宗教心などは無用の長物であり、不必要 と思っているのが実態です。それには親も子も勇気がいります。自我至上主義者は,例えば次のようにいうかもしれません。

言葉を換えれば,この領域は自我を超越した世界です。それによって親子関係の是正,修復が目指されるのです。死の衝動は一義的なものではなく,生への欲求が挫折したときに表面化する二義的なものとしては是認できます。  最近、叱れない親、特に父親が増えています。一定の仮説を立てて合理的な理解を目指すのは,必要なことです。換言すると,素朴なレベルでは,’あらゆることが許される’のですが,新たな次元では,他者との関係をも配慮に入れることが要求されます。人間の理性的な理解を超越したものの全体を,仮に’自然’と呼ぶとすれば,自然の意志が人間の心の内部に及んでいるのが無意識の領域であると考えられます。

それは自己自身との関係をしっかりさせ,重心の移動を図る心の用意をはかっておく意味を持ちます。他者に対して不信と恐怖と猜疑を払拭できないでいる人たちは,そういう拒絶感を持つでしょう。母親は強い人ではありません。とはいえ客観世界の展開がそれとなくは予感されていないはずはなく,それを勘案すれば母親は絶対者であるのではなく,絶対者であることの要求であり,願望であると考えるべきです。叱られた後「なるほど」と納得のいく叱り方が大切です。CO2削減年間3.3Kg ④シャワーや洗面所の水の節約 必要以上に流したままにしない。嫁姑共に辛抱のないわがママが増えているのです。

その恐怖はそれに匹敵する怒りの存在当然与えられるはずである大安心を与えられない怒りに関連するでしょう。そして,また,子供の幼さを考えると,それは両親,とりわけ母親の協力なくしては難しいテーマです。自我に拠る光の世界は,無限定な闇に包囲された限定的なものです。そしてその大安心幻想があるかぎり,小安心に甘んじることができません。 国の学習指導要領が無視され、受験に必要な科目のみを選び、人間的情操や情緒を育てる音楽や芸術、人間的厚みを身につける歴史や倫理、郷土や日本の国、世界に対する認識を育てる地理など、人としての幅や教養を広げるための科目が切り捨てられていた。

 私はWCRP世界宗教者平和会議日本委員会、開発環境委員会委員として委員のメンバーと共に参加した。自分のことしか考えない自分だけが満足している 事が、幼稚であり子供なのです。オセロにとってデズデモーナは生きる意味のすべてに等しいものでした。そのことは集団行動を得手とすることや,公衆道徳のありようなどにも表れています。それが順調に進むときに,自我は自律性を発揮できます。 まず犠牲になるのは弱小国、その次は 会議も中盤に差し掛かり、各国の利害関係が交差し、「ポスト京都議定書」を巡る利害対立で会議が難航するなか、温暖化による海面上昇で水没の危機にある南太平洋の小さな国ツバルの政府代表が独自の案を提案し「即時の行動」を訴えた。

常に100点を取りつづけないと許さない親のような心の内在化といえます。今風に言えばオーラです。反復的な退屈な日常に,不意に不安が顔を出すという経験を,誰もがしていると思います。自我の重要な機能のひとつは判断力です。他者が介入することによって,心の自然な流れが乱されるのです。母親は世間体を重んじる人のようで,Bさんが自分の家を持っていないこと,婿が失職していること,貧困であること,長く通院をして薬を飲んでいること,長女が婚家から帰ってきていることなど,ことごとく気に入らないようです。それが無効なので,怒りが充満しています。何歳になっても,年齢とは無関係に依存心が心の大勢を占めることになるかもしれません。

心を白紙にして臨むことと,学ぶ精神とは別個のことではないからです。それは,自我は生の方向で機能するものですが,その折々の自我の判断が,ある種の体験が受け入れ難いとして無意識の闇に葬ったということを意味するからです。  この親子の触れ合いや家族の絆が、創造力と判断力が身についた心豊かな人間として育っていくのです。彼らは,著しい不安に悩まされることがあまりないと思います。見捨てられる恐怖は、生死を賭けた恐怖です。そのような意識構造の下では,母親はいわば全なるものです。小舟は心の世界で,Iさんが自我です。どんなに’良い人’でも,疎外されて傷ついている部外者には,結局のところ冷淡,非情であるしかないのです。

一方,動物との関係では,動物には二心がないので,彼らを愛らしいと感じる心は純一であり,人間を襲う熊は悪ではないのです。「Sさんも,母親に対してこのような批判的な気持ちを暗に持っているようだ」といったことを伝えました。???死は???すなわち母との一体化というウロボロス近親相姦の特徴をおびている。この一言で乙武君のその後の人生が決まったのです。運動と習い事は好きなんですが。いじめられっ子たちを護るのは大人の役目です。と知識がどれほどあっても、自分の幸せと利益だけを中心に生きる人間が増えたら世の中は荒廃 してしまいます。今日が一周忌です。

これらのことは,自我の境界機能と自律機能の混乱と回復とを示しています。それは内発的で,心の自然な発露といえるもので,つまり生エロスのエネルギーをもたらすものです。それらの人の中で,なにか秀でる一芸があれば,それは確かに,「芸は身を助ける」ことになるのでしょう。人間は,人間に似せたロボットを作り出すことができますが,あるいは人間を生むことはできますが,人間そのものを作ることはできません。 日本の良き伝統と宗教性を取り戻そう 三世帯家族の復活。隣人愛は人類愛のように純度が高いものであっては,ある意味ではならないのです。というよりは母親との関係で個の確立が不確かであること,それは同時に母親の自由を尊重することができていないことに,この問題の核心があります。

自然的な自我の機能が母なる他者の介入によって混乱させられ,自我が自律的な機能を捨てて母親に取り入ったという心の動きが抑圧と呼ばれています。  そして、赤ちゃんが母の乳首に吸い付く時、母の体内に愛情ホルモンが分泌され、わが子への注意力、愛情が何 十倍にもなるのです。最も頼りとする母そして父なる他者によって,人生の塗炭の苦しみを味わいかねない不条理劇の幕が切って落とされるということが起こり得ます。根源的に二律背反の原則に従わされている人間存在にとって,見捨てられる恐怖は生と死の分水嶺となるものです。それは生命的な心の表舞台に活力を与える代わりに,死への志向を持つ裏舞台にエネルギーを注ぎ込むことになるのです。

過食症者が過食にふけっているときも,拒食症者が命の危険を省みないのも同様です。それは抑圧してきた意識下の分身たちの感情に自我が眼を向けたことを意味します。学ぶ精神と白紙で臨む精神とを共に持つことが,病める心を前にする治療者の,理想とするべき’方程式’です。 この三つの条件に合致し時代の流れに乗って成功した人を結果的に○○さんが時代を変えたとむいわれるので 政治の世界だけではありません。そして,やがて真相を知り,自らも命を絶ちます。 このままのスピードで温暖化が進むと2050年には東京の三分の一は水没するというデータも発表されています。

 「怒る」というのは、自分のイライラや好き嫌い、その時の気分次第で感情をぶつけているだけのことで゛、ただ子 供が自分の思うようにならないから腹が立っているだけのことです。そして一方,この恐怖をうまく克服できなかったとすると,母親が永遠に全なる人であるとする幻想から逃れることができません。その意味は,これからは自分の力で生きていきなさいということです。食事の時に「いただきます。、子供の創造力や判断力を伸ばすことを忘れ、知識や技術を詰め 込んで子供を膨らませることを「教育」と勘違いしている親が多い。そのとき母親は死に匹敵する巨大な恐怖をもたらすものです。

夫を閉め出している母親の方が問題ではないかと思ったのです。患者さんにとって無意識的だった問題を,治療者が感じ取って,タイミングよく解釈という形で還元してあげれば,患者さんの方では思いもよらぬ収穫を手にすることになります。なぜでしょう?   最大の原因は、「母の力=子供に注がれる無償の愛」が衰え、「まず一人の女性として生きようとする、わがまま な母」が増えているからではないでしょうか?  母親の代償を求めない愛、溢れるほどの無条件の愛情に包まれて育つ子供が少なくなったからです。まだ自分で自分を支える力を持たない子供にとって,孤独には危険な厳しさがあると思います。

自我の主体性は発揮されず,主従の関係は逆転してしまいます。 二十数年前、オランダの首都アムステルダムの市長が、日本傷病軍人会代表団にこう述べた。そのように,悲喜劇を繰り返しつつ一生を過ごそうとしているかのように見えます。しかし実情は,両親を含めた他者の干渉が,無意識的なレベルをも含めると,無視し難いものがあるのが一般です。それは母親に分かって欲しいのに分かってもらえなかった,甘えたい欲求の存在がかつてあっただろうことをも暗示しています。反対に「自分の思うとおりにならないと気がすまない」というストレスやイライラが大好物でそれを栄養として増殖するのだそうです。

ペットのように扱われた子は,自分の責任において行動する主体者意識が育ちません。  数百兆の公的資金が投入されましたが、銀行も企業も個人も破綻し、その後の苦労は『失われた十年』と言われ  バブル経済が崩壊して約十七年、大手銀行や大企業の経済的処理は終わったが、価値観の崩壊による後遺症 は、地方や中小零細企業、個人の生活など末端に行くほど色濃く残っているのではないでしょうか?  『土地は必ず値上がりする』という土地神話に過剰な投資をし、資産価格が実際の価値をはるかに超え高騰した。とはいえ,自分の価値を自分自身で支える力がありません。我われ人間への要求,「いかに生きるか?」という問いは,しかしながらこのような状況でさえ,「そこから希望の光を見出せ」と要求しているように見えます。

人間である我々の前には,自然そのものは決して姿を表すことはありません。それは絶望して死を望む心に他なりません。強くいって,可能な援助はして,住居を別にすることになりました。まった
く解らないのです。子供も三人いて初めて豊かな人間関係が生まれます。、次々と新しい病 気が現れ、若いからといって安心できないのが現実です。  元気があれば、学力は向上してきます。自我のもう一つの重要な機能は,境界です。  子供は枝葉、自分たちは幹、親や先祖は根っこです。むしろ子供にそれとなく依存してしまうものだと思います。心根が動揺し易く,不安に駆られ易い母親が,長男によって安定を図ろうとしたようです。

 嫁ぎ先の炊事、掃除、洗濯など、妻の仕事である家事は一体どうなっているのでしょう。つまり,赤ん坊にとって,本来は「よい乳房」のみが存在しているべきなのです。つまり、この層は、全であり、無であるという性格を持っていて、自我と、それによる有限の世界はここから生まれ出てきたとも考えられるのですが、いずれにせよ、自我を根底で支える拠り所です。怒りは,この例に即していえば,甘えを封じるために動いたのですが,意識の地下に封じられているものたちに所属する感情ともいえるでしょう。もし感動されましたら、家族や知人友人にお伝え頂き、血の通った温もりある家庭、社会作りの一助にして下さい。

つまり発達した社会性は,自己表現の本来の喜びを奪う側面があります。  学歴がなくても、マナーのしかりした人には気品が感じられます。特にこの病 気は、家族や夫婦だけでは対処しきれなくなり、病院はもとより、会社や地域の方々の理解と協力が不可欠になっ てきます。何ものかについての意識であるというとき,その何ものかは自我との関係における対象ということになります。主我は、いかなる場合でも、客我の支配から自由でなければ、「自分の絵」は描けないのです。’よい子’によっては決して怒りを人に向けないことも少なくありません。たちどころに無の闇に飲み込まれ,無化されてしまいそうな脅威の前に,自我は他者の力を当てにするしかありません。

世間体を気にしない人間もまたいないはずですが,このようにいわれるときには,子供の方で親の二心に敏感になっているということなのでしょう。その言葉に嘘はありません。そして子供の方も,母親への愛や信頼の確かさに自信を持てないことにならざるを得ません。
 それには①謙虚 ②正直 ③善意 ④社会貢献奉仕の精神が不可欠です。疲れてぼんやりとしているときであっても、自我が放つ光りである意識は、虚空を無意味に漂うのではなく、志向されている何ものかをぼんやりとまさぐっていると考えるべきです。つまり、お乳が欲しい、オムツが濡れた、 お腹が痛い時、赤ちゃんは泣き声で知らせます。

その幼児心性の下では,勝手な行動は取っても,自由に行動することは困難になります。この戯曲で,黒人であることが白人へのオセロのコンプレックスを,象徴的に表しているようです。三例に共通するのは,自我の統合力が衰微して破れが生じているという点です。それを何らか表現することは極めて重要なことでもあります。そしてそれに伴って,自己表現の喜びには,他者に認められる喜びが含まれていることが明らかになります。大自然の力と人間の浅知恵との力較べは、本来は比較にならないことであるので、客我が主我を支配しつづけるほどに強大であるときは、心はいかにも不自然な状況になると共に、豊かな人間性から程遠いものになります。

課せられた学校状況を引き受けるのは,自我の役目です。赤ん坊に最も必要なのは、安心と満足です。 北極の厚い氷原のど真ん中に東京都ほどの巨大な穴が開いているのが発見されたり、南極やグリーンランドの巨
大な棚氷や永久凍土が溶け、陸地があらわになっている。「儲からん、儲からん」「相手が悪い。 まず健康である。 ⑥エコ運動を心がける 急発進はしない。そしてしばらくぶりで受診したSさんは,言葉が少なく,不満の様子が見て取れました。どんなことでも基本ができていなければ、
その先の発展と幸せは砂上の楼閣となってしまう。虐待されて命さえ危ぶまれる状況で,第三者が援助の手を差し伸べようとしても,虐待される子の十人が十人とも,「構わないでほしい」と述べたという内容でした。

しかし怒りの感情がないなどということは考えられないことなので,抑圧の強さの問題と考えるべきです。Iさんはおかあさんが大好きなのですが,夢の中でそのおかあさんに追われ,殺されそうになったのです。
 主義主張の違いや利権争いや歴史的怨念で戦争をしている時ではないのです。つまり未熟な自我は母親の自我を頼りにして,幼児的な判断をするのです。そして遊びや家の手伝いという生活体験の中からこそ生きた知恵、創意工夫の力がつ  体力の基本は食生活です。好き
なものはたくさん食べるが、嫌いなものは一切食べない子供。職場で配置換えがあり,しばらくして年上の女性上司に恐怖心をいだくようになりました客観的には人を恐怖させるような人ではなさそうです。

 すべての基礎は家庭教育です。一般に何か行為をするときに,内発的な欲求と他者から課されたものとの混淆によって動機と意志が形成されると考えられます。ロボットにされそうなのは少年自身です。そしてそれに相応して,無意識界にも首座があると考えるのが合理的です。
 ③善意何事も善意に受け止め、前向き努力していく。科学者の大発見は失敗すれば一切が瓦礫化する怖れと共にあります。若夫婦だけではなく、祖父母の経験や智慧を結集してこそ、すばらしい子育てが出来るのです。自我が自律機能を活発化させて人生を切り開く力を得るまでは,母親の愛情によって保護されるのでなければ,自我は立ちすくみ,いわば凍りついてしまうことでしょう。

しかし愛という光を求める心が強すぎたことが,オセロの心の闇の深さを物語っています。  ①子供のありのままを受け入れ、信じ理解すること。それが母親の愛情を改めて引き出す結果をもたらすことになれば,赤ん坊は,やはり自我の成長となる礎を得るかもしれません。彼の自我は,怒れる分身たちを抑圧することで自己を保ってきました。この超え難い謎は,人間の心理を’科学的に’理解しようとするときに立ち会う謎里程標のような現象的諸事実のあいだに横たわる間隙,自然科学的な光が及ばない深淵と連関するものです。押しつけられた意識感覚のままであれば,解決の主体は自分自身にあるとはいえません。

自己の自己自身との関係が好ましい形になっていれば,それは主体との関係が良好ということになります。A君の夢からは,強いエネルギーを持った恐怖と怒りが,心の沼に渦巻いている気配が窺われます。船長はまだ半人前の腕前なので自信がないのです。一方,生気感情を豊かにさせるのは,自我の自律機能によってです。無論,皮肉ではなかったようです。診療というものは,本来的にそのように展開されるものと考えてよいと思います。そしてその怒りの巨大さは,一対の相手である母親の怒りと区別がつかないのです。世間が悪い」
と暗く悲観的な言葉をみんなが発しているから、本当によくならないのです。

 また、弱い立場の嫁をいびる姑、小姑、何も言えずじっと耐えている嫁、反対に年老いた親を無視し、二世帯とは名ばかりの家庭内別居、お互いに見て見ぬふりの陰湿な生活の中で幼児の心は大きく傷ついているのです。
 特に女性の考え方、行動が家庭のあり方を大きく左右するのです。人間の認識能力は,自我の機能に属します。特にゆったりと した長い呼吸でお経を唱えることは、脳波をαアルファー波の波長にし、心身ともにリラックスして安定します。対象を自己化して所有し、それとの関係をいわば傘の骨として、自己の世界を発達させていきます。また,将来の進路について迷いに迷い,決められないこと,母親になんでも相談し,判断をしてもらうことなどが顕著なときもありましたが,そういうこともしだいに自分で解決できるようになっています。

長女にとってはそれは当たり前で,感謝することでは決してありません。人間は自分だけでは決して生きていくことはできません。そういうことが可能であるためには,孤独に耐える強い自我に恵まれている必要があると思います。 しかし今『日本は経済に勝って、教育と文化で敗れた』『物質で勝って、魂で負けた』と、戦後の日本を言い当てた
名言である。だからA君が心の平穏を獲得するためには,友達たちの個と自由とを容認することができなければなりません。レトルト食品や出来合いのお惣菜だけでは愛情は伝わりません。そのように他者によって義務として課されたものを,改めて積極的に引き受ける自我であれば,最も好ましいことになります。

しかし’第一等者’ではない人間は,人間の知恵のおよばない’第一等者’にすべてを委ねるのが分というものでしょう。そのころまでは父親の支配を受けているYさんの自我は,学校の成績を重視する父親との協調が出来ていたということだと思います。何宗でも結構です。時間的,空間的に,自我に拠る世界は有限性のそれですが,心の内なる普遍的無意識界は,無限性の性格を持っています。しかし母父親が自分の二心に無自覚で,子への愛情以上に自分自身の役に立つようにという無意識的意識が優勢であれば,子に対して支配的,浸入的な育児となります。そのような親子関係にある十代の患者さんがありました。

自我の境界の問題は,隣り合う二つの国の関係によく似ています。このとき騎手は,自分がどこへ行こうとしているのか,なにをすればいいのか見当がつきません。 ①私欲、私心がないこと 自分だけを守ろうという小さな欲の心があると流れを見誤ります。自我機構に係属すると思われる境界機能は,生物学的な根拠を持っていると思われるので,性行動の抑圧は単なる文化的なモラルの要請以上のものがあると思います。お金持ちになりたい。それぞれの役割をしっかり果たしながら「徳のある子」を育てましょう。第二の母は,人間的な大道を志向する。母性は赤ん坊の単一の心を包み込む心性であるといえます。

今度は子供の方で,その素晴らしい贈り物に自然な心でお返しをすることになるでしょう。その母親が気弱であれば、あるいは幼い子の怒りが強く、聞く耳を持とうとしないなどの傾向があれば、客我の育ちがわるくなるかもしれません。「君は親孝行をしたい,よい子なんだね」というと,「そうだよ,よい子なんだよ」と答えます。反抗ということが親の自我の傀儡であることを意志的に拒否し,自己の独自性の宣言という意味であるとすれば,Yさんのそれは,曖昧なところがあったように思います。そのままでは自我が無力になり,生命感情を豊かに育てていく上で大きな困難を持つことになるだろうと推測されるのです。

現在は,通院は継続していますが,いわば’健常人と変わらない’程度に回復しています。自我の機能が衰退していると,無意識の支配を受けます。酒好きの夫はあまり家庭を顧みなかったようで,夫婦の関係は以前からうまくいっているとはいえません。  宗教心、道徳心の欠如は亡国のシナリオ  もう一つは、日本全体に関わる根本的問題です。寂しいのです。このように自我は自己の開拓者であり,同時に,やむを得ず自己を貶めるものでもあります。傀儡化してしまっている自我には,自らを省み,問いただす力はないのです。食事を食べると
いうことは、お母さんの愛情を食べることなのです。

 「叱る」というのは、子供のやったことが人としての道理やマナーに反した時、泣こうが喚わめこうが言うべきこと、 教えるむべきことをきちっとまた厳しく言い聞かせることです。そうしたときに,急いでなじみのある日常に逃げ込み,胸をなでおろすかもしれません。」といわれた中に答えがあります。 しかし、このアルバイトの店員は、マニュアルから一歩踏み出して尋ねました。それは母親を中心とした重要な大人たちの愛情によって保護されることにより,豊かで意味深い経験になります。心には表層の生へと向かうエネルギーの河の流れがあり,深層には死へと向かう河の流れがあります。

時によって母親は,半ばは意識して,半ばは無意識的に,幼い子のこうした畏怖する心に乗じます。その上で,身体にエネルギーがあるのは明らかなのと,精神的エネルギーの捉えどころのなさと,一人の人間が持っているエネルギーの総量が一定範囲の中にあるらしいのと,それらを拠り所に,次のように仮定的に考えることが可能です。隣人愛の性格の一つの例を,シェクスピアの戯曲,「オセロ」に見てみます。 たとえば、体には100%程度のパーツがあるとしましょう。生まれる間もなく,過酷な苦痛が待ち構えている宿命のもとにあるのが人間です。何が本当に必要なのか、何が本当の幸せなのか? 一 度真剣に家族で考えてみて下さい。

この精神性と秩序が天皇を中心とした日本の国民性となって強靭な力となっている」 つまりどの家にも神棚や仏壇が祀られ、毎日、祝詞やお経が唱えられ家族がまとまっていたというのだ。これを敷衍すると,悪は善と裏表の関係にあり,つまり自我に拠る人間の二心の問題であるということになります。弱さは,それを自覚するときに,もはや弱くはないのです。赤ん坊は,いわば沈黙して,母親の自我にしがみつくことで,危機を回避しようとするのではないかと考えられます。こうした場合は,いわば人生レースの敗者になります。それは良い、悪いの問題ではなく、人間の特徴であり、事実問題です。

不安に見舞われたときに,自我がどういう姿勢を取るかが問われます。受け入れられなかった分身たちは,悲しみ,寂しさ,虚しさなどの感情と共にあるでしょうが,そのエネルギーが強いだけに,境界を超えて自我に圧力を加えてくることになります。  見聞触地、みな菩提に近づく  この世の中の見ること、聞くこと、触れること、知ることはすべて仏様=大自然からのお知らせであり警鐘なの  今回の事件の被害者、加害者だけの問題ではありません。生へのエネルギーは,プラトンが述べているエロス的身体的なレベルから高度に精神的なレベルにいたるものなものであり,それがすなわち生の欲動という大河に即していると考えられます。

「あれっ!へんなだな?」と思ったら、勇気を出して早めに診察してもらうのも必要でしょ う。それは全という「満たされている存在者」、あるいは自己完結態ではないという現実を承認することに他なりませんが、そういうことが可能となるためには、それに準じる存在形態を不可欠の要点としているといえます。それだけに欺瞞的なものに敏感でもあるでしょう。その中で自我コンプレックスと呼ばれているものだけが,一定の恒常的体裁を保っています。???こうしなさいと何でもパッパと決めてしまう。日常の行動は、いちいち考えながら推し進めるのではなく、パターン化されています。

それらのことは,母親への甘えの欲求を主軸とした行動といえます。お母さんのお腹の中で子供の人生設計図ができ、幼児期に一生の基礎となる人 格の土台が作られます。技術を正しく使いこなせる心と精神
を育てることが忘れられている。 ?『右上がりの経済成長』という経済神話がハイリスク、ハイリターンの危険をはらむ毒牙の先の甘い蜜に酔いしれ、 一般庶民の異常な株式投資が進み、一夜の夢のような消費経済を生み出した。そうした疑問が起こるのは,自然科学的な合理的思考が行き渡っている現代ではもっともなことです。精神病といわれる諸相は,そのような問題です。家族の微妙な変化に気付かなければいけません。

 子供は親の後姿を見て育ちます。その矛盾は人間に苦悩を与えます。無為,無意識の中に抱かれていること,すなわち必要なものがすべて偉大な養母原母から絶えずこんこんと湧き出してくるような尽きざる薄明の世界,これこそ原初の’至福’状態なのである。そして翌朝再生し,昼の運行を新たに始めるのである]胎児の段階と赤ん坊として生まれる段階とのあいだの落差には甚だしいものがあり,その激しさを和らげる何らかの機構がなければ生存に耐えないだろうと推測されます。心が光の面と影の面とを持つということでもあります。韓流映画 の「私の頭の中の消しゴム」も必見である。

しかし、「家族?」の単位が変わってしまったのです。つまり自我は,仕事をすれば,必ず何らかの負債をも背負い込む宿命の下にあるといえるのです。よい子であった彼らが,強く依存している母親に怒りを向けることがあります。彼らは,人生の早い時期に自我の自律性が危機に瀕したものを,自力で取り戻すことができたといえるのでしょう。自我に拠る人間は,能力的にいわば二分の一以下の存在です。従って彼らは,集団に対して批判的,否定的になるでしょう。 ? 「抗体検査薬の不足」「予防接種のワクチンの不足」など大混乱の様子が毎日マスコミを通じて報道されている。両親の思いはともかく,チック等の”症状”は,少年の心の沼から立ち上がってくる叫びでもあるのです。

’元気な子’の悪意は,恐らく元気を沮喪させる影を持つ子に向けられます。妻の受容的な人柄も,そういうものを助長させたのではないでしょうか。  愛情をしっかりかけた上で、躾はしっかりすることです。つまり自我には他者への配慮が構造化されています。自我の自律性が確固としたものであるとき,自我に内属すると思われる境界機能もしっかりとした礎を得るでしょう。それを裏返せば,赤ん坊はこの全能幻想に疑いを持っていることになり,だからこそそれを要求するのです。 すべての出来事、現象には必ず原因があります。  トリノオリンピックで金メダルを取った荒川選手、君が代が流れ、日の丸が上がってゆく時のあの美しさ、自然と目 頭が熱くなるあの感動しどこから湧いてくるのでしょう。

ごく普通の母親のように見えました。そのことによって他者に認められ、他者に認められることを通じて、自分が自分自身を認めることができ、いつか自己肯定感が育っていきます。影は,それに捉えられると自我の滅亡を招きかねません。そして自分は必要とされていないという寂しさや自信のなさが、心の奥底にあるのです。母親に十分には甘えることができなかったことに起因する幼児心性が,先生に母親代理の役を期待したようです。挙句の果ては、養育費も払わな い親の風土にも置けない父親失格、人間失格の情け無い父親も増えているようです。自我は役割を果たしているのですが,両親の協力が得られないので,結果としては無駄な努力になってしまっているのです。

これが曲者くせものです。外界の自然と内界の’自然なる無意識界’もその一つです。この病的な問題は,境界機能が混乱し易いことを示していると思います。 いつでも、どこでも 大自然からすくわれっぱなしである 今日生かされていることが奇跡ま連続 すべての出会いが奇跡の連続 みんな奇跡の連鎖 人間ってすばらしい 人生ってありがたい そう思って生きる人が幸せに包まれる 今日もいのちを ありがとう すべての出会いが ありがたい 人生って すばらしい 宗教心が家庭と学校、社会を再生する いじめによる自殺の連鎖が止まらない。恩義を与える者と受けている者との関係です。

このような傾向がつよい自己の心の内界は,中心にあるべき自我が無力である代わりのように,集合的他者とでもいうべきもの外界にある母親に対応するものでもあるでしょうが支配的な力を持つことになります。いま述べたように,その要求が強力である分,強い怒りをはらみます。それは,死の存在を容認できることとおなじ意味になると思います。どちらも『実家依存型人間』で親離れの自分ができていません。つまり不可知の上位者主体と呼んでおきますの命を引き受ける者として地上の者となったと考えることが可能である。気を抜くわけにはいけません。主体は超人間的な存在であり,自我は人間に固有のものです。

このことが,人間の心を育てる上で大きな矛盾を引き起こすのです。
 選挙に勝っても負けても、年金がもらえる人も、損をする人も、地球が丸ごと環境破壊されたら、元も子もなくなるの
 かつて世界の各地で繁栄した世界文明の滅亡した原因の多くはモラルの崩壊と環境破壊であったと言われます。そこにも希望があるといえばあるのでしょうが。幼い自我が自分のためになる仕事をしたいと思っているときに,権力者である親の干渉によってどのような影響を受けるか,先に述べたの二つの例に即して見てみたいと思います。それはいたるところに姿を現しているが,それ自体は決して意識に映じることはないといえます。

自立心に欠ける母親の中には、赤ん坊に、「すべてを注ぎたい」と考える場合もあるかもしれません。ここにこそ人間精神の自由の実態があり,それは幾分か比喩をまじえていえば,人間精神が無限の時空間を縦横に飛翔する姿であるといえます。また,自然にそのような人生行路を歩み出すというよりは,何らかの決意と共に始まるものだと思います。  離婚は人生の大きな傷です。自我が解決できないでいる問題を,病気が部分的に救う面があるのです。これらの分身たちは,自我が自由になり,自律機能を回復させて,改めて救い出されるのを待っていますそれを実践するのが,分析的精神療法です。

心が裏舞台と表舞台の二重構造になっているのは一般的なことで,心とはそういうものです。しかし,いま述べたように,この解き難い問いがあるからこそ,可能態としての希望の光が絶えることがないというのは確かでしょう。人はそういうことを繰り返し,まずいことをしているという自覚を持たないのです。その都度その難所を切り抜けることに山登りの喜び,希望があるように,置かれた状況がいかに困難であれ,そこに希望の光りの筋を見出して,その状況を克服していくところに人生の喜びがあります。そして一方では,闇に絶えず脅かされることによって,母親が自分を護る気がないのではないかという猜疑心に囚われると思われます。

母親自身もそのようなおぞましいものは見たくもないのです。ということは、赤ん坊は、安心と満足とを脅かされがちであるということです。退屈だが平和だった日々のあるとき,得体の知れない強い不安に見舞われ,それが執拗につづくとき,心の病かもしれません。  仏教の教えの中に「国に正しい教えが行なわれなくなると疫病が大流行する」と予言されています。大人びた幼児のように,早すぎる社会性はむしろ弊害があります。その意味では強いられたものといっても過言ではないでしょう。そのついででいえば,「今はわるい子」ということになりまあるときCさんが冷蔵庫の中を見ていると,母親が,「やめなさい」といいました。

そのために少年の自我は抑圧機能を過度に作動させつづけるしかありません。自我は自己を形成していく中核ですが,いま述べたように,乳幼児の段階では母親の自我がその代理を勤めることになります。 いじめる子もいじめられる子も、根本原因は妊娠中の「胎内教育」と三つ子の魂百までの「幼児教育の子育て環境]にあるのです。自我が自律性を失い,抑圧性を手放せないままでの人格形成の歴史ということになり,自我は衰退し機能不全化していくのです。そしてこの店員は「ご家族で、ごゆっくりお楽しみ下さい」と笑顔で立ち去りました。そして、自殺と殺人????一体何が狂っているのか?  ズバリ、家庭崩壊が最大の原因です。

この過程で自我が主体性を保つことができていれば,何らかの判断が働いたことでしょう。当然,彼らが人間社会の中心にいることになりますが,その特徴は良くも悪くも世俗的ということです。自我は世界を二分法で捉えるのが特徴です。睡眠時間を十分とる。場合によっては、悪鬼に殺されるとでも感じるかのように激しく泣き叫ぶことも起こります。しょっちゅうウソをついていたら人からの信頼を失い、ろくな人生は渡  ②目上をバカにした時  親や恩人、先生や目上の人をバカにすることは、天につばを吐くようなもので、同じことが必ず自分に降りかかっ  てくる。自我は受け止める力を持つときに,機能の回復が開始されます。

つまり人間は自我に拠っているので,自我のものである前者の性格を持っているのはいうまでもないのですが,自我を超越している後者の無数にあるともいえるコンプレックス群が正の意味を持つのは,自我がその存在に気づき,自我コンプレックスの一員と認め,表舞台に引き上げるときです。影は死の領域に属するものです。それが力強く発揮されたとき、天才的であるということになるのでしょう。つまり市民一般のもう一つの顔である集団依存は,守りの姿勢を変えるのを難しくさせる要因になります。ところで,あなたは過食と癌か失明か,どちらかと差し替えることがでえきるとすると,どうしますか?」彼女は少しのあいだ考えて,小さな声で,「眼です」と答えました。

 仏=死んだご先祖さまと勘違いして仏壇を祀ることを嫌う人が多いのです。本人に起こっていると思われることを母親に説明し,今後の方針を伝えました。ということは,その分自我が力をつけてきているということです。そのために,他者は客観的に外部に存在するだけではなく,内なる他者として自己の内部の無意識界にも存在しています。嬰児は母親に「全であること」を要求しつつ,そうではない予感を現実のものとして受け入れていく必要があります。逆にいえば,それができたときに,克服するきっかけをつかめるのです。持って生まれた気質はともかく,養育環境としては母親がすべての時期がしばらくつづきます。

無神論を唱え、 無宗教が近代的であると錯覚している教育者やインテリ、政治家の責任は大である。それは本能的なものだと思います。しかしSさんが仕事をすぐに辞めてしまうので,それが両親の頭痛の種になってしまいました。 教えを学び、お経や祝詞で祈りを捧げ、徳を積み、生活即信仰になってこそ宗教の教えが生きてくるのです。周囲のいくつかの網の目によって支えられ、その網の目もまたいくつかの自分を取り除く網の目によって形作ら れているのです。しかし、このアルバイトの店員を責めるスタッフはいません。人間は人間によって,相互に自然的な素地を混乱させ合い,それぞれの自己が,自己ならざる自己に迷い込むように仕向けあっているかのようです。

自我の仕事は永遠に未完であり,悔いを残すことなく終焉を向かえるのは,すこぶる難しい話です。それは、治療を要する病的な心の状況です。仏の説法なのですから、全部良いことに決まっています。  ②洋風か、和風か。そのように仕向けたのは,悪魔的な心を持つ者です。  一つは、出来ちゃった結婚です。そういう時は,感情が表に現われなくなります。
 目先の豊かさを求める経済発展か、自分を含め将来の子供の存続か、二者択一の瀬戸際に来ているのです。A君が気になるのは,裏の自我が主宰する,不気味な’心の沼’の存在です。  生後六ヶ月までに「この人がお母さんだ」という刷り込み現象が起きます。

女児の例では無効化を恐れ,母親への盲従の途を選びました。換言すると自我の自律性に従うということになります。そして最愛の人を殺し,自らも絶望して死を選びます。  昔から氏より育ちといいます。つまり自我は個々の自己の首座となるものであり、内在する主体は個々の自我の拠り所であると同時に、個々の人間存在を超えた普遍的なものです。人に見つからなければいい、分からなければいいとずる賢い人間を生み出します。人生、悟れば一瞬のうちに解決するのです。育児の主力である母親によって,自然的な自我の機構がほどほどに保護されつつ成長すれば,いい方を変えれば母親によって著しく擾乱されなければ,自我の中核である自律機能を育てる根が,到達目標である主体にまで伸びていくと仮定的に考えられます。

しかしそこには、子供の待つ楽しみ、やっと買ってもらえた時の嬉しさ感動は大きな心の絆となるのです。 今こそ心と心の触れ合いが求められているのです。一仕事を終えて、その充足感の余韻に浸りつつひと休みしているうちに、虚無の気配が忍び込み、不安に駆られることになります。母親は涙ながらに,「私が怒りすぎたものですから???」と問題を受け止めてくれました。そうした経験を重ね,両親が書いた台本や演出に疑問を持つようになります。 このショキングな報告を多くの皆さんにお伝えし、目前に迫る地球温暖化の警鐘となることを切望します。ご飯をしっかり噛んでしっかりこなす。

自我はどうしても影を一掃できないものでもあります。法律のルールではなく、人としてわたるべきべきルールがあるのです。失敗は自我の不始末,つまり死の世界への斜傾ということになります。そのように極端でなくても,子は親によってそれなりの被害を蒙らないわけにはいきません。そのように心の状況が変化していくにつれて,無力に見えていた表情が引き締まってきました。しかし、理想やうたい文句とは裏腹に ◆居場所を失い、子供らしさ失いつつある小学生 ◆コロコロ変わり続ける受験システム、枝葉末節の改革に振り回されて右往左往し、受験テクニックに追われて進むべき道を見失った大学受験生
 これが偽らざる実態ではないだろうか?このままでいいのか? 日本の教育! ①個性と能力の尊重
 この夏休み、あなたの子供はのびのび過ごせましたか?
 「週休二日制とゆとり教育」による学力低下を恐れ、膨大な量の宿題が出されていませんでしたか? テキストを
書写すだけで精一杯、詰め込み教育の実態はかえってエスカレートしていませんか。

 そして、子供の成長を注意深く見ていないと正しい助言や判断はできません。その時の母親の第一声が「まぁ!可愛い子」だったそうです。  せめて子供が中学校を卒業するまで、母親が家を守り家族を温かく迎えてあげる家庭の姿を取り戻しましょう。初診のとき,真夏ということもあり,無数の切創痕が露出された腕の全面に見えていました。従って人間の最も大きな矛盾と困難は,自我の自然性を他者との関係でいかに護っていくかということにあり,それはしばしば難問であるということです。自分を助けることができる大人になるように,むきになって仕向ける母親のイメージが浮かびます。

寂しい限りです」と、今は昔の
栄枯盛衰をしみじみと話してくれました。それらは自我に拠る人間の能力では捉え得ないものです。学生時代に座学だけの勉強ではなく、幅広い体験の実学をしてこそ正しい選択④公開と評価の推進
 情報公開がますます数字による成績評価、人間評価を生んでいるのではないか? 基準のはっきりしない「絶対
 評価」という化け物が子供たちの本当の価値をゆがめているのではないでしょうか?☆数字に表れた結果だけではなく、一生懸命やった姿や苦手な科目が多くても、得意なこと一つを認めて生か
 してあげることが子供の未知の可能性を引き出して生かすことにつながる。

先のK,Sの二例は,心の無意識にある幼児心性が強い勢力を持っていることを顕かにしているのです。それは自我によって受け入れを拒否されたものであり,従って生の世界のものとしては認められなかったものたちです。冷蔵庫の開け閉めを少なくする。そして老後になってこんなはずじゃなかったと嘆いている親が増えているのが実情です。しだいに長じるにつれ、母親のみならず、父親や祖父母などなど、周辺の重要な関わりを持った大人たちが、躾や教育などの指導をします。  少子化の現代、大学や高校、小中学校までもが統合縮小されているのに、大都会、地方の区別なく、駅前の一等 地には○×予備校、○△学習塾などの進出がめざましく、お母さん方の多くはパートに出かけ、その収入の大半を 子供の教育費にあて多額な教育投資をしています。

そのときは過去への回帰ではありません。人として豊かな心を 育てること」にあります。しかし夫のことや娘のことも重なって,Bさんが打ちひしがれているときに母親が放った痛罵に,さすがに怒りを覚えました。犬や猫などの動物も同じです。教師の批判的指導を受けて、独りよがりだったことに気がつき、受けた指導に従おうとします。ですから,それぞれの分野でそれぞれの仮説を立てることになるのは当然です。赤ん坊は動物に似て単一の心の状態であるとはいえ,やがて成長して二心の持ち主になるのが分かっているのが動物と違うところです。そして大成功があっても,すぐに虚無の影が忍び寄ってきます。

 ?いよいよ子育て、乳幼児期に親の溢れるほどの愛情を注いで育てる。それは無意識的なものかもしれませんが,悪意の根底には死への恐怖が潜んでいると思われます。母親がいかに支配的な人であろうと,母親が何を考えようと,何をいおうと,さしあたりそれは母親の自由といえます。自我を授与された赤ん坊は,意識せずにそれを引き受けたものとなる。これは,いわゆるペルソナの問題です。自我が健全に機能しているのであれば,「80点は零点ではない」と主張することができるのですが。それが十分であれば,この世も捨てたものではないという重要な意味を持ったウォーミングアップになります。

自分は愛されているんだ、生まれて来てよかったんだという安心感が 前向きで自信に溢れた性格の基礎を作ります。このとき自我は母親の怒りを恐れたと思います。それは漂流に他なりません。しかし圧倒的な力を持つ闇死,無限,無であるものに繋がるものですに包囲されている自我は,あまりに頼りなげな存在です。好ましくない依存とは,逆に主体との関係が危うい場合です。客我に支配され、自由を束縛されている主我の下にある心は、自己を評価する基準が抽象的、集合的他者になります。非社会的な機能に陥っている自我は,自由な自我の機能がほとんど見られなくなった心的環境に自己を置きますが,この状況では内在する主体の意志は,自我を通じて人間的に有意味のメッセージを伝えることができません。

人は孤独であり,孤独でないという一見矛盾した存在ですが,それは人間が全ではない存在であることの一端といえるでしょう。つまりお腹の中でお母さんと同じことを感じ、同じこ とを考えているのです。しかし,いわば心の自然のプロセスとして,思わずそれを教えてしまうのです。精神科医であれば,誰でも知っていることです。返済が困難であるということは,その重荷に押しつぶされる可能性が高まるということでもあります。物質主義,勝ち組負け組みの金儲け主義に対する大宇宙仏様の戒めでは無いでしょうか? 犠牲者や加害者だけの問題ではなく、日本人すべての責任です。親子といえどもおなじことで,親は子の存在を独立したものとして承認し,尊重しなければなりません。

人間存在の問題は,生誕以前の世界と死後の世界とを含んでいます。しかし、離婚にもルールがあるのです。それは,旧来の厳しいばかりの集合的他者の指導の下にあれば,「そんなものは作品であるものか」ということになるでしょう。  発明王エジソンは、学校の成績が悪く、その上バカげた質問ばかりして手に負えない、頭が腐っていると担任教師 に言われ、エジソンの母は「この子はすばらしい力を持っている、私はそう信じています」と言って彼を連れ帰り、自 宅で教育しました。原初の人間関係は,母親との関係であり,それは甘える満足をめぐってのことといえるでしょう。そして職業を持ったりパートに出かける母親が増えている。

従って,その本能の無原則的な発動は自我によって制限されます。Bさんが顔を出さないからといって腹を立て,夕方に雨戸を閉めに行くと,余計なことをするなといって怒ります。どうすれば母親が望むような息子でいられるか,’怖い母親’に,いちいち確認しなければならないほど,自立性を欠いてしまったのでしょうか。漢字の書き順が違うまま何十字練習しても、やり方がわからないまま計算ドリルをどれだけやっても身にはつきません。誕生以前の世界を,自我に拠る人間が遠望するかぎり,全または無に見えると思います。 このような他人の幸せを求める態度は、マニュアルで教えられるのでしょうか? 答えはノーです。

 「あぁ!やれやれ、これで楽になった。必要とされている。それは辛い問題ではあっても,恥ずかしいこととはいえないと気づいたのです。自営業、製造業、農業、サラリーマン、どんな職業であろうが、問題は実際に見るかどうかよりは、働いている親自身が喜んでやっているか、仕事に感謝や感動があるかどうかなのです。仏教では目上や恩人、親の恩を忘れた人は「忘恩の人生は滅ぶ」といって幸せにはなれないと教えていま  ③人に迷惑をかけた時  自分の都合だけを優先し、人のことを考えず、人を困らせた時。そのために自我の自律性が抑圧を受け,機能不全化するのが習いになっていると,人生レースの敗者となり,自己を見失い,虚無と絶望の淵に立たされることにもなります。

それらの事情から,自我が本来の自律性を保ち,適切に自己を導き抜くのは,むしろ困難だといわざるを得ないと思います。ここでは集団に帰依することによって,自我は主体者である困難自由と責任等々を免れる代わりに,自己自身を追及する機会をも捨て去ることになります。デズデモーナの気高い心を信じようとした分,一方ではそれを疑う心が意識を悩ませていました。  ?子供の成長に応じたきめ細やかな子育てをする。この場合の表と裏の舞台の統括者,演出者が自我です。本物の愛情と信頼に応えない子はないはずです。そして先に述べましたが,自我の機能開始の黎明期にある嬰児の世界には客観的な外形はいまだなく,主観と客観とが渾然と一体化している,いわば純粋主観の世界であるように思われます。

Cさんの集合的他者は,支配的,命令的,懲罰的なもので,自我はひたすら抑圧機能を働かせるしかなかったようです。こういう問題が起こるのは,人格形成の最早期に,情緒的な満足が得られなかった何らかの事情があったためではないかと推測されます。???そしてこの意識は毎晩眠りの中で太陽と共に死んで,母なる無意識の深淵へと沈み,帰っていく。いまは大学生ですが,しばしば感情が嵐のように激しく揺れます。
 通知表で1とか2しか取れない子供は、授業中は地獄です。大人のいまでも,幼児のころと少しも変わらず,母親代理の他者が気づいてくれるのを虚しく待っている心が,ここに現われているのです。

いずれにしても人は,生きているかぎり表の自我に拠ります。 若者を中心に「お笑いブーム」が続いてことも、人間が本能的に病気を防ぎ、健康を維持するために笑いを求め、細胞の自己再生プログラムにスイッチを入れようとしているのではないでしょうか。それは自我の境界機能の欠落と自律機能の欠落を意味します。この関係においては,乳幼児の心の要求を,母親はほとんど自分の心の要求とおなじように扱うことになります。  別居家族が増え、気を使う親もない生活が行き過ぎているのではないでしょうか?  なぜ同居を嫌うのか? ほとんどは嫁と姑のわがままではないでしょうか? お互いに『気を使いたくない自由気楽』 に自分の思うように暮らしたい』という究極の自己中ではないでしょうか? ?人間は有形無形の関係性の中で生かされているのです。

依存の対象になるのは,いわゆるよい子です。反復的な日常世界に安住できるためには,安定した自己愛と他者愛とを備えていることが必要のようです。死はすべてを無意味化しかねないものです。やがては,現象的なものを超越したものも視界に現れてくることがあると思います。  このままでは、とても国を愛し、心豊かな美しい国を作ろうとする若者が育たない。 この世は苦の娑婆である。母親の怒りについては,どうすれば自分に向けて炸裂する怒りの炸裂は,見捨てられる恐怖に直結しますのを防げるか,半ばは生存本能から分かっていると思います。絶対に必要な存在であることは自然的な要請ですが,現実の外なる他者は,むしろこの自然的なものに脅威を与えるものでもあります。

そのような特性を持つ人間の自我に対応して,自我の母体である’自然なる無意識界’にも,生と死に関与する二つの機構が存在すると仮定することができます。女児を母親は大切にし,愛情を傾けたつもりです。これら無限というものは,人間には概念と感覚の対象としてのみあり,人の身体にも心にも実態としては存在しません。しかし,こういう話はなんのことか訳が分からないと感じますか?」」それに対して,彼女は首を振って,「いいえ,よく分かります」と明快に答えてくれました。  認知症の最大の原因は何か? 一言で言って、自己中心主義の人生観が原因と言えます。幼い子がこのような表現をすることは,決定的にといってよいほど重要です。

個々人への対処ではなく、いうならば、周囲の100人が100人ともが恐怖の対象になるので、社会的な役割の全般にわたって、すべての他者から無理難題を押しつけられるのに等しくなります。人間にとって他者が重要なのは,自然的な自我の機能を護る上で,他者が絶対的な前提となっているということです。そして自我が仕事をするかぎり,心は健全であるといえます。また,Iさんの場合,母親を取り込み内在化している度合いは人より強いといえます。そこには、明瞭に有限のものでありながら、内に無限性をはらんでいるという、自我の特有の性格がうかがえます。人間が,この甚だしく錯綜し,解き難い世界の住人であることが,人生のさ中で迷子のようになったり,絶望したり,希望を見出したりする理由です。

そしてその意志を打ち砕いたのは裏の自我です。それを心の法廷に見立てると,鬼検事ばかりがいて弁護士不在のようになっています。鼻翼と口唇へのピアス,’ゴス調’の黒装束を好み,当然目立ちます。家族の悲しむような身勝手なことはしません。これら二つの例に見られるように,自我の基本姿勢は,両親の影響を決定的に受けながら形成されます。仮に学校へ行くということが目標であるとすれば,表の自我が,’悪い子’のいい分に耳を傾ける力をつける必要があります。少年にもそれは分かっています。できるだけいい材料を使い、丹精込めて作っていく。そういう事情の下にあるとはいえ,問題を解決に向かわせるには,問題が正当に受け止められたとき以外にはありません。

母親の自我の混乱の影響を受けつつ成長したためであろうと思われます。 ③企業が人材育成のためにかかる教育訓練経費の一部を法人税から免除する税制処置をとる。それは結婚によって情緒的なものに触れたことと関係がありそうです。そのまま通院しつづけたからといって,’良くなる’ということも難しいと思いますが,私は,「回収されてしまった」と感じました。人間は人生を追及しようとするかぎり,自我に拠って,以上のように人生の階梯をスパイラル状に登っていくことになりますが,それは別な角度から喩えていえば無限につづく負債の返却です。自我がそれを受動的に受け入れるのです。

つまり自分が到達したい目標と、現実の自分 の実力のギャップを正しく把握し、どのような努力をしたらいいのか分かるのです。その心性は乳幼児に特有のものです。傍から見たら、なんでも難なく出来ちゃうように見えるのですが姉曰く、本人が物凄く努力家で自分が納得がいくまでやらなきゃ気が済まない!という凝り性の部分がある、剣道をしていたのも、何事にも辛抱強くなる、そういう芯の強さを培うことが出来たのかも、と。性的行動には,攻撃という側面があります。国民の道徳心が失われた時、その国は滅びる」と指摘し
 今まさに日本は一般国民はじめ、官庁職員、教員、警察官という公職の人までも道徳心、モラルが失われ、自分さ
え良ければ人はどうでもいい、自分の思うままにしたい、自分さえ楽しければよいという孤人主義の社会になりつつ
ある。

そういうものを想像するのも困難ですけれど,仮に一切が有限の世界であるとすると,人生は永遠の退屈になるしかありません。それは自己の存在構造の内に他者が含まれていることを示しています。そして現実には自我の仕事としてではなく,自我の終焉として,死という’全’の世界に回収されるのです。無意識下の欲求の強さは,乳幼児の貪欲なそれに等しいものだろうと想像されます。それは当然,固執的になり,優しさとは無縁のものになるでしょう。この沼からは,死の極へと向かう流れがゆるゆると形成されることになるように考えられますA君は,自覚的には,母親がまさか自分を見捨てるなどとは考えていません。

C女を可愛いと思えないのです。しかし,自我を最上位に置く自然科学的思考が,精神現象を統合的に解明することができると考えるのは不可能です。しかしこの機能の危うさが他者の補完を不可欠とするので,取り分け人生の早期自我がまだ未成熟な時代には,他者母親が中心になりますへの怖れが抑圧機能を自律機能に優先させることになります。解離性障害といわれるのは,そういう心の現象です。どの局も多彩なコメンテイターを擁し、まず視聴率有きの
ような揚げ足取り、あら捜し的報道によって大衆の興味を引く手法を一考する必要がある。また大人たち外的な集合的他者も余計な干渉をしないので,’それぞれの絵’があり,優劣は問題になりません。

また母親に恐怖を感じたとすると,怒りをもって応じるかもしれません。心にとって光は自我の力を示すものであり,影は自我の無力を示し,死に所属するものです。主体性を失った自我は傀儡化され,いわば裏の自我の虜になってしまいます。そして母親がいない隙に盗み食いをしたのは,影の分身たちの仕業です。自律と抑圧もその一つです。そのように考えるのは,人間には,自他が互いに相手を求め合う無意識的な心の叫びがあるように思われるからです。これらの自我の二つの構成員を、それぞれ客我と主我と呼んでおきます。Iさんは友人達に,自分にパニック障害があるとはいえませんでした。

しっ かりと診断できる専門医も少なく、予備軍も入れれば静かなる脅威である。それは,極風にもまれてきた人と,それを回避してきた人との違いともいえるでしょう。Bさんにとっての救いは,幼い命を護りたい願いが,理屈ぬきの使命感につながったことでした。宗教家や政治家、自治会の役員さんは七十、八十になっ ても頭がしっかりして元気な方が多い。  無神論、無宗教がインテリであり、強い人間なのだという大きな間違いがあるのです。敢て母親を困らせることもするでしょうが,それは母親に喜んでもらう満足を求める要求と考えるべきです。それでここでは,前者を統合するものを裏の自我と呼び,後者を統合するものを表の自我と呼んでおきます。

親に従うことで親に護られていた自己組織を,急に本人自身の自由に任されても,どうしてよいのかすぐには分かりません。これらのことは,エネルギーの流れの自然法則に反した,人工的なともいえる動きです。非は父親の方にあるとSさんは思い,両親のあいだに立って家庭の空気を和らげる役目を負いつつ成長しました。悲惨な話を聞いたあと,大好きだった肉を食べられなくなってしまいました。母親は胎児を宿し,お産の後も母子一体の時期を経験するので,余人には計り難い特有の感情を子供に持つと思います。それは乳児のみならず、母親もまた乳児に絶対的に依存しているというべきです。

そのことは人間が人間の現実世界を生きる上では,どうしても受け入れなければならないのです。それがあるからこそ,その気配に憤りを覚え,叩き潰すか,無視するかしたくなるのではないでしょうか。  社会は家庭の延長です。  現実の真実を正しく受け止める  すべてはわが心の鏡です。そのためには,周りの大人たちが,この子の自我の仕事に協力していかなければなりません。赤ん坊は怒りくるって泣き叫び,母親に要求を呑ませようとすると思われます。食の安全を脅かす北海道ミート?ホープ社の食肉偽装事件、官
公庁の信頼を失墜させた元公安調査庁長官の朝鮮総連売買詐欺事件、福祉事業の逆手をとったコムスンGood?
Willの助成金搾取の大偽善などは、若くして巨万の富を手に入れ一世風靡し、エリートコースに乗り権力の頂点?に登りつめた一部の人間の悪行でありますが、富と地位や権力に慢心し、自分さえよければ人はどうでもいいとい
う、モラルや倫理の崩壊、個人主義利己主義の行き着く先が地球温暖化に繋がっているのです。

自我の存在根拠は不可知である。押さえ込まれた甘えたい心たちは,傀儡化せざるを得なかった自我と両親に対して,悲しみや,虚しさや,恨みなどと共に怒りを充満させています。父親を取り込み,内的な支配を受けている彼の自我は,取り入ることで身の安全を図ろうとしたのかと想像されます。それは単に学力的な問題という単純なものではなく,父親との関係の長年にわたる重圧に耐えられなくなったということでもあるのでしょう。私なる乳児を愛情をもって認めてくれている母親の受容力が,乳児の自己愛を育みます。更に,母親の窮地を助けるのは,幼い自分ではなく,誰か大人,特に父親でなければなりません。

このように,よい子という自己犠牲の精神で生き残りを図ろうとする問題が生じる発端には,人格形成の最早期での避け難く,宿命的な見捨てられる恐怖があると考えられます。そして頑張ったら誉めてあげる。退行しているYさんには,妻が困っているのが理解できません。そうであれば,母親が従来のように支配者として振舞おうとするかぎり,親子のあいだには断絶があるばかりです。結局,怒りは無力な自我に引き受けられることがなく,抑圧されたのです。
 時分の勝手な都合で、反省や訂正もなく、目先の満足だけを求めて離婚再婚を繰り返す若者とさほど変わらない。心の根底に絶望的なものがあるからこその心の障害です。

自己の存在にとって,他者の存在は欠かせない構成要件です。 北極や南極に住む動物たち、アフリカやアジアの貧しい途上国、太平洋に浮かぶ平和な小さな島国、経済大国から遠く離れた枝葉の先が悲鳴を上げているのです。うまくいくと一生をそのようにして送ることもできるかもしれません。そうなると自我は混乱しやすく,境界機能も不安定になるのではないかと思われます。その背景には,妻の根気のいい支えと,会社の度量ある態度にも大いに助けられているということをつけ加えなければなりません。生後間もないころは,自我は組織体として未分化で,機能的に未熟です。  離婚は終わりではない、始まりである  離婚は終わりではありません。

しかし悪がどういうものかを知らない者はないので,この場合の二心はある意味ではあまり問題ではありません。小学生でもわかります。爆発しかねないほどの怒りがたまっているようです。それぞれの自己が他者と絶対依存の関係にあることは,ほぼ必然的に利害の上で矛盾,葛藤が生じる理由になります。身体にエネルギーがあるのは,実証的に明らかですが,身体と精神とは密接不可分の関係にあるのもまた明らかです。現実を受け入れるとは、全をあきらめ、不十全に甘んじる心になることに他なりません。人間もおなじです。 教育の目的は一流大学に入れる頭のいい人間を育てるのではなく、社会人になった時、世の中の役に立つ立派な人間を育てるための基礎作りが本来の目的です。

欲動群は生命の源であり、自我は生命を司るものです。精神性と社会性とを要求されている人間は,他者の存在を尊重する上で自律機能がもたらしたものに修正を加える必要があります。自我は専ら生の世界を切り開くものですが,その仕事を助けるために他者の関わりが不可欠です。
 個性やダイナミックな能力の育つ余裕はありましたか? ☆親がしっかりとした子育ての信念を持つことです。上に述べたことは,Yさんの自我が役割を果たすことができていないことを示しています。これはかなり乱暴な介入だったと思います。けがらわしい大人になるくらいなら,ずっとこのまま子供でいてほしいと願ってきたそうです。

これらの症例に共通しているのは,自我の世界の分裂が公然化することによって,社会性と精神性との活力が著しく低下するのと,それに反比例して破壊性を内に秘めた孤立性のさまざまな様相です。育児上の二心は,子のためを思ってしているつもりの躾が,実は親自身の不安や不満の解消を子に求めていること,それが意識されることがないこと,という形で問題になります。自我は、そのつど何ものかを志向します。この言葉は,人生に懐疑的というのではなく,死の否定的な意味をもういちど否定しているのだと思いますが,人類の教師ともいわれるソクラテスが,生きることの困難を語っているのが興味深いことです。

強迫的なこの不自由な思いは,’囚われている自我’の姿です。自我の目覚めといったものでもあったのか,消極的ながら反抗の意識もあったようです。以上の意味での自然は純一であるのに対して,時間的性格を持っている自我は,果てしない自己否定の階梯をスパイラル状に上昇していくのを理想としています。そのことは,むしろ母親にも意識されていないはずです。自我に拠って生きることを宿命とされる人間は,即座に闇死に怯えるものであることをも宿命づけられています。何はともあれ人間として生を受けたからには,この世の現実を受け入れなければなりません。原因や言い分はお互いにいろいろありますが、それ
ぞれの結婚生活の状況を聞いているうちに、あることに気がつきました。

先生の自我は,その点,健全な状況にあるので,鼻水が出たくらいでは学校を休むとは信じ難いのです。Iさん自身が,独立した船長であるといえるだけの自信がついたとはいえないからでもあります。そしてまじめな心の持ち主は,集団に依存します。30歳のWさんは二児の母親です。生きた人間の救済ではなく、死んだ人にお経を上げる時だけの葬式宗教になっ てしまった仏教、自然に対する畏敬の念よりは、物見遊山的な初詣や風習としての地鎮祭やお祭りになってしまって いる神社にも責任があります。しかし自我は内在する主体に絶対的に依存しています。それは愛着というよりは,恐怖を媒介とする同盟関係という方が当たっているかもしれません。

換言すると,赤ん坊は生まれる以前は,全なる世界の住人であったと仮定されます。人間が,自己の存在条件に他者の存在を前提としていることは,自我に拠る人間の完全性自然の属性の欠如を表していると考えられます。そもそも自我の起源の胚種である段階で,機構的に自律性や境界などが組み込まれていると考えられます。恋愛結婚が九割の現代、性格の不一致、
価値観の違いなどは、婚前に見抜けなかった自分にもあります。Sさんと両親の三者との何度目かの面談の席で,Sさんをはさんで両親が声高にいい合いをはじめました。その怒りは,母親を怒らせる理由になるとおそれた甘えたい心に向かうのです。

そしてそういうあるときに,全を要求する赤ん坊の激しい怒りが,母親の顔に投影されて跳ね返ってくることがあるだろうと想像されます。自分が困るというのではなく,母親が心配だと思えたのです。 二人では仲が良いか悪いか二通りの人間関係しかありませんが、三人いればみんな仲がいい、みんな仲が悪い、 AとBとが仲がいい、BとCとが仲がいい、CとAとが仲がいいなどいくつかの人間関係が生まれ、子供なりの小社 会ができ、社会性が養われます。恐怖心が一役買っている母親とのあいだの強い依存関係に楔を打ち込むためには,どうしても治療的介入が必要だと思います。でもいつまでも泣いて暮らしてしていてはいけないと話しあって、娘と一緒に来たかったディズニーランドに来たのです。

。自我の関与があってこその存在であるからです。「私が母親なのだ,私が責任を持って育てる」という覚悟がBさんには必要です。  妊娠四ヶ月で目口耳舌という感覚器官が全部完成し、五感を通してお腹の子供にストレートに伝わるようになりま  次にお母さんの強い怒り、深い悲しみ、恐怖や不安。そしてその幼い自我の避けられない不始末によって,’心の沼’が生み出されるのです。落胆すれば、ますますことが悪い方に進み出し困ったことの悪循環に  困ったことにぶつかった時、最後に「やればきっと出来る! やってみよう!」と決心することが成功する秘訣です。このような考えが可能であるという前提に立てば,真の親は前者であるのはいうまでもなく,後者はいわば前者から仮託されていると考えることが可能です。

次女も母親のいいなりのようで,母親の命を受けて何かと言い募ります。では荷物を突きつける見知らぬ男はどういう素性の者でしょうか?彼は実際には見たことのない男です。それは大安心幻想をあきらめ,小安心を受け入れることができている個性に対する別な呼び方といえます。  世のため人のためになるという人生観、目に見えないもののお陰さまを感じられる。人間が犯罪者になっていくのは,そうした心の変質が起こってのことだと思います。 猪口少子化対策、男女共同参画担当大臣は、少子化による労働力不足が、超高齢化社会を支える負担になり、その不安と重荷が重大な問題であるから、母親が安心して子供を預け働けるシステム、そして女性が男女の区別なく同格で働ける社会、子育て終了後に正社員として復活できるシステム作りが大切と言われた。

つまり自己が存在するためには他者の存在が不可欠であるということは,男と女,愛と憎しみ,善と悪,正義と不義,表と裏,本音と建前,全と無,生と死等々とおなじように,全一なるものを自我が二分割して捉えるということを示しております。集団責任です。これがさまざまな、痛ましくおぞましい非人道的な事件の根底にあるのです。しかしそれを最後に,その患者さんはクリニックを訪れることはありません。親のやったとおりに育っていくのです。学校に行くようになったら必ず玄関まで出て、後姿を拝んで送り出  親が拝んで育てた子し、必ず外でも尊ばれる人間になります。家庭のモラル、家族の秩序が崩れると、人間関係も社会の適応力も、価値観も人
を思いやる心も正しく育ちません。

それは、幼児が無意識の心の泉から湧き出てくる力を体験していることの邪魔をしない、という意味を持つからです。幼く,未熟な自我の代行を母親が中心となってするに当たり,第一に重要なのは、幼ない自我の自律機能を護ることです。
 抱っこでもスキンシップは出来ますが、抱っこしていては仕事は出来ません。それは子供の心の成長を阻み,心の障害をもたらす要因となる危険性もはらむことになるのですが,母親には容易には理解しにくい問題でもあるようです。死の衝動は,内向した怒りのをエネルギーの強さを物語っています。国のため、家のため、自分のためと夢や目標が大きいほど気力は湧き上がっ  一つや二つの失敗でギブアップしない創意工夫のできる知力。

超えられない問題はやって来ない ????など、子供の心に残る価値観をしっかり根付かせるが「母の力、母の愛」です。 だから宗教音痴の若者が増え、オウムのようなカルト宗教にのめり込んでしまうのです。 ?本を読む子供が少なくなっています。このようにして,護られなかった神の子は,自我に生気感をもたらすはずだったエネルギーを,怒りのそれに換えて無意識の世界のものとなります。仮につぶやいた人自身であるとすると,単なる自己満足の域を出ず,強がりと区別がつけられません。さまざまな観点から考察を加えることは必要なことであり,そうしなければ済まないものでもあります。

目には見えませんが、人間生活の基礎がおろそかになり、まさに人生の鉄筋棒が抜け落ちてしまっ ているのです。しかし罪を犯したのに等しい罰のような人生が待っています。自分を褒めてあげたい気分よ」といったところ,妹は,「ほんとにその通り。
 今や世界は一体であり、かつての文明のように一地域や一文明一民族だけが滅ぶのではなく、地球全体が滅ん
でしまいます。Bさんは母性に疑問も持っています。そして、また、しだいに死に由来する無の無化作用を受けて、不安、寂寥、虚無などの感情に悩まされることになります。あるとき,晴れ晴れとした顔で,Bさんが次のように述べてくれました。

また、人目に付かないとこで本当は物凄く必死にやってるけどそれをあまり表に出さない子なのでそう見えててしまうのかも、とも言ってました。「艱難汝を玉にす」という諺があります。むしろ賞賛されるのです。今や殺人事件は、特殊な家庭な起こるのではなく、普通の家庭から起こ っている異常事態なのです。子供から認められ、尊敬されてこそ離婚後の親の責任が 果たせるのでは無いでしょうか。問題は心の指導者の立場を,集合的他者が握っていることにあります。欲動群を送り出すものと、自我を授与したものを、ここでは内在する主体と呼んでおきます。一方で、発育不全親の躾けなどに耳を貸さないのが、習い性になっているなどでの客我と共にある主我の下では、天才気取りの自称芸術家か、いずれにしても独りよがりの人間になります。

自我がそれをできたのは,幼児的に退行すること,妻を母親に見立てることによってです。しかしそうでなければ,悪い形のさまざまなものに依存します。共に栄えていきましょう」と
「相手を活かせば、自分も生かされる」のが大自然の真理です。その時期,乳児の母親への愛情欲求は絶対的なものであるといわれますが満たされたり,満たされなかったりしながら,しだいに自分とは別個の他者が存在することを知っていきます。そういうふうであれば,やがては親子関係の修復も可能でしょう。やはり、離婚は自己中心の考え
の結果が多いのです?
 最近急上昇の熟年離婚は、「価値観の多様化」で人生観が合わない?が最も多い。

他者の存在は有り難く,多大の恩恵を受ける一方で,少なからず迷惑で,不利益を蒙ることになるのです。数年前、三十を過ぎて子連れで離婚をし、実家に戻ってきました。純一なる善,正義,愛,公正などなどを追求するのは人間であればこそというわけですが,それは内に,悪,不義,憎しみ,不正などなどを常に抱え持っている証拠で,それが人間です。心に取り込んだ、この内的な教師が、客我の構成員になります。二心というのは,例えば,子供の成長を親が喜ぶのは子供への愛情である,と同時に,親自身の安心,満足でもあるということです。生きるためには喜びが必要です。山が高ければ谷も深いのです。

自由って何だろうと考えましたが,どうしても分かりません」といいます。少年には1歳の弟がいます。  核家族化がどんどん進み、長男であっても親と同居する若夫婦が減り、老夫婦が切って捨てられ、最後は老人ホ ーム行き。自分の信じられる宗教。母親がそれを助けることになります。禅問答の極みのような話です。母親の愛情が重要な意味を持つことは強調されて然るべきですが,これには例外があります。それを前提にいえば,Aさんが人間を憎むのは,人間自己および他者を愛したいがためであり,他者から愛されたいがためであると結論づけられるでしょう。それは人間には不可知の上位者であると考える以外にない。

この心の作業には,問題を解く方程式もあります。母親が何らかの事情で機敏な行動ができなかったり,母乳の出がわるかったりすると,それは「わるい乳房」になります成熟した自我であれば,空腹を感じたときにどうするかを知っています。それは,繰り返し述べてきたように,乳幼児期の母親との関係で情緒的に満たされる体験をしているE.Hエリクソンの「基本的信頼」に相当すると思いますことが基盤になります。いわば全か無かということになり,80点を取っても零点と変わらなくなります。十年周期に目先の手法だけをコロコロと変えていては、国家百年の計は成り立ちません。

きっと感情豊かで思いやりのある子供
が育ち、親の心の汲める優しい子供となるのです。ダメなことはダメ。仮に有限性を生きるのが人間であるとすると,生きる意味はほとんど失われるでしょう。赤ん坊にとって,全能要求は,生が主題であるかぎり死の存在を排除できないという現実原則が受け入れ難いという意味を持つのでしょう。他者の問題は,すこぶる重要です。A君がもとめる’真の友人’というのは,恐らく’全’をもとめる乳幼児の心に通じるものです。違うからこそ男と女があり、父と 母があるのです。 切れば血の出るような温かさ、同じ思いが体中にしみこんでいてこそ、大きな成果と感動を生むのです。

道端で転んで怪我をしたときに,かけつけてくれる人があれば,恩人のように感じられるでしょう。  また添い寝をする時は、必ず子供の体を撫でさすってあげましょう。5回ほど面接を重ねたところで,母親の伝言が入りました。つまり,立派に成長してほしいという当然の願いを母親は持ったとして,そこにはそれが赤ん坊に対する愛情である一方,母親自身を安心させて助けるようにという私心も入らないわけにはいかないのです。強国が浸入して併合したり,植民地支配したりというのが歴史的現実です。ここで問題にしている集合的他者というのは,いま述べたような意味で,主観的ー客観的な性格のものです。

遊園地や旅行にも何度も連れて行った。自律機能を十分に働かせ,自己を表現することの喜びを十分に経験するべき時期に,母親の意識的,無意識的な干渉によって抑圧機能が発達すると,大人びた子供になるかもしれません。 ①学校段階から仕事の意識をもつことのできるように、中学生が年間5日以上企業で職業体験をする。アルコール依存症者は,しばしば,会社や家庭など,持っているもの一切を失います。
 自分一人ぐらいから 自分一人だけでも?????
 北極の氷の面積が1978年の観測開始以来、過去最小となっていることが発表されました。人間は生命連鎖の極致にある,動物が進化した究極の存在である???と。

自我が介入引き受けるするのでなければ,いずれにしても自己を窮地に追いやることになります。例えていえば、ふだんは「自動運行装置」に任せておき、ここぞというときに「手動」に切り替えるのに、いくらか似ているでしょう。身に降りかかる目の前の危険や障害を乗り越えたり、回避することができなくて、立ちすくみ固まってしまい、一歩足が出ないのがニートや引きこもりなのです。その主宰者を、内在する主体と呼んでおきます。 「家には何でもあるが、宗教がない」 唖然とした両親は、掛かり付けのカウンセラーに相談した。  こんな重要な役目があるのに、母親が物質的金銭的豊かさだけを求め、もっと豊かに、もっとリッチにとパートや 会社勤めをしていていいのでしょうか? ?家庭教育、子育ては何と言っても母親の役目が重大です。

それを考えると,親の側の盲点が意味するものは,恐らく親自身が,自然な自我の形成を歪められた生育過程の下にあったということだろうと思います。死という現実問題を受け入れることができるときに,ようやく生と死との矛盾を生きる力を得るのです。人間の可能性が無限であるという感覚がなければ,人生はすべて自我の範疇に収まることになり,閉塞球の中に閉じ込められた存在であるしかありません。そして,また彼らの心配と忠告どおりに,’危なっかしい連中’は,人生の泥沼にはまり込むことが多いのも確かでしょう。そういう心的状況では,改めて,「自由にやっていいのだよ」という’幼稚園児のお絵描き’の精神に立ち返ってみるのも一方でしょう。

親が子の領域に侵入的になりながらその自覚を持たないのは,かつては自分自身がその親からおなじことをされてきたためであるかもしれません。生まれて間もない赤ん坊は,自他の区別がつきません。その状況を越えることができなければ、挫折という心の崩壊が待っています。仮に母親の強い介入があり,二人が分かれることになったとして,やがてはSさんも自分の迷妄に気がつき母親に感謝をすることになったとして,母親は自分の二心をよく承知している必要があります。それぞれがそうであるように,Iさんは小舟の船長です。してはいけない ことはいけないと禁止する。何故なら、そうした状況での母親と乳児の関係は一体のものである上に、そもそも依存というものは、相互的な関係であるからです。

そして夫 は、実母を恨み、決して親と認めず過去を消そうとしている。40代後半のYさんが,「私の中に悪魔がいる」とあるときいっていました。なつかれると悪い気はしません。判断の機能が生きていれば,その後のことに責任を持てます。Bさんが,「私はできることは精一杯やったわ。それは自我の拠り所となるものです。Iさんはいわゆるよい子です。???ウロボロス近親相姦における一体化は心地よさと愛を特徴とするが,これは能動的なものではなく,むしろ溶け込み吸い込まれようとする試みである。以上の仮説に基づくと,躾は,主体が指し示す自己の途を探り当てる自我の仕事を,親が助ける形が望ましいことになります。

それらは裏の自我とでもいえるものを首座として,強い勢力となって表の自我に圧力を加えます。恐怖の度が強ければ,幼い心の自我は母親を怒らせないために,生まれてくる諸欲求を抑圧する傾向を強めることになるでしょう。子供の心の成長にとってこれほどのショックと痛手はあり 平成十七年の統計では一年間に約75万組が結婚し、27万組が離婚しています。たとえば性的な行動は,動物ならば自然なものとしてあるのですが,人間は抑圧します。ところが,母親がこのようにかけがえのない立場にあるだけに,逆に,一転して恐怖をもたらす者になる危険性を払拭することはできません。

依存は依存であっても、主我と客我とのそれぞれの強さの程度や、両者の相対関係によって、自己の自立性の程度に、違いが出てくるのです。生命的世界、有限の現象的世界を主宰するのが自我であるのに相応して、人間の心の内なる大自然の中にも心を主宰するものがあると考える合理的理由があります。 過日、ドイツで開かれたハイリンゲンダム?サミットで安倍総理が言明した2050年までにCO2排出量の50%カットは、今すぐ日本の全国民が、そして全世界が本気で取り組まないといけない必要最低限の緊急課題なのです。これは好ましくない依存につながり,悪循環に陥りがちです。

Bさんは不妊治療も受けましたが,子供がありません。おかあさんに,今後はそのようにするつもりがあるといってみてはどうですか?治療上の必要があるのでそうするようにいわれたと,話されてもよいかと思いますが」と提案しました。ほとんどの人は、単なる習俗、風習にになってしまっています。抑圧機能の発動は,他者への配慮,社会性の尊重という意味を持っているのです。実際に父親は怒りっぽく,母親も負けていないので両親の口喧嘩が絶えません。見捨てられる恐怖には,あきらめて人間的現実を受け入れさせるための役割もあります。長女は祖母Yさんの母親に似ているので,病気がよくなるとしても祖母のような年齢になっているのではあまりに不憫だと,しばしば悲観的になります。

しかも幼いうちからそういう道筋をたどろうとするのは,ごく稀な芸術的天才だけでしょう。そこには母親が,’愛情’を隠れ蓑に,もう一つの意図を隠し持っている姿が見え隠れしているように思われます。どの段階でかこうした介入は必要ですが,その場の成り行きで,いわば賭けのような介入をしてしまったのは危険なことでした。「どの家にも立派なホームチャ ペルがあり、毎朝整然とホームミサが営まれている。それができるまでは,あなたの地獄は止むことはできないでしょう。 憲法では信教の自由が保障されていますが、信じる自由と共に信じない自由が認められているのです。

赤ん坊は外なる他者である母親の世話を受けつつ,やがて自他の区別がつくようになります。連続して与えられ る膨大な情報に受身の子供になってしまいます。親のエゴや自満足、意 地の張り合いで子供の夢を潰しては居ませんか?  子供が会いたいと言っても「まだこんな状態では、子供にあわせる顔が無い。マニュアル通りなら、お断りしなくてはなりません。客我が有力で、母親の意向に逆らえないときには、新たに生起した生命は抑圧されます。特に今回の郵政民営化を巡る衆議院選挙の行方は、全国民の注視するところであり興味津々のことと思います。煎じ詰めると,他者の関与のそれぞれの様態と主体との関係の健全性とが,結論的に,課されたもの本質的に他者性ですを自我が望ましく引き受けることができているか否かに直結するといえます。

その人間に,人生という難路を旅するために授けられた武器が,自我といわれているものです。また限りある人の命という観点からすると,永遠の時間と共にあるといえます。一つは自由な機能,一つは社会的な機能,一つは非社会的な機能です。そのように、「満たされている」心そのものに到達することはできないが、そこへかぎりなく近づくことに甘んじることが、有限の「欠けるものがある存在者」の分であるといえます。 果実をもぎ取っただけで肝心の根抜きが出来ていません。そこで何を会得するかは,個々の問題ではありますが。その意味のある諦めは,見捨てられる恐怖をうまく克服できたときに生じるでしょう。

取締役であったために保証金を差し出してあり,それが返ってこない上に,当然ということになりますが退職金はありません。親の都合や相手のことよりも、お菓子やおもちゃが「欲しいとい ったら、どこまでも欲しいのです」思うようになるまで泣いたり、ヤンチャを言うのが子供です。自我による生の世界は,死という終焉にいたる有限のものです。人の役に立つ子になるんだよ」とやさしく語り かけながら撫でてあげることです。すでに容易ではない試練にさらされているといえます。うちの子たち小中学生も、甥っ子のようになれたらいいのですが素質が全く違うようで。集合的他者はすべての人の心にあるものです。

 出来ちゃった結婚で親になる自覚もなく、自分たちがまだまだ遊びたいので子供が邪魔になったり、子供のための
再婚ではなく、自分のための再婚をし、新しい連れ添いとの間で子供がお荷物となり????、無造作にコインロッカー
に捨てたり、育児放棄したりして死に至らしめる若いカップル。

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